浄土真宗

NHKラジオ深夜便出演の波紋

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NHKラジオ深夜便出演の波紋  

はじめに  

 2004年10月にNHKラジオ深夜便のこころの時代に出演した。ラジオのインタビュー番組に出るなど考えたこともなかったが、あれよあれよと言う間に話しがすすんで放送されてしまった。今でも、何かの間違いではなかったかと思うほどであるが、公の放送に出て波紋が広がった。

出演依頼の電話から  

 2004年の8月、診療途中に「先生、NHKから電話です」と受け付けから電話を取り次がれた。悲しい性で、一瞬、頭をよぎったのは「何か、NHKに取材されるような悪いことをしたかな?」と思ってしまった。不審な思いを抱きながら電話に出た。
 すると「東京のNHK放送センターの金光というものですが、先生にインタビューのお願いで電話しています。」NHKラジオ深夜便『こころの時代』で放送するためのインタビューとのことだった。
 金光さんといえば、遥か20年以上も前、広島に住んでいたときからテレビの『宗教の時間』や『こころの時代』で司会をしておられたのを覚えている。まぎれもなくそのディレクターの金光さんだった。

 ラジオ深夜便『こころの時代』の放送を一度も聞いたことがなかったので、それが何時頃、どれくらいの時間、どういう形式の放送かもわからなかった。きっと20〜30分ぐらいのインタビュー番組だろうと想像した。沖縄に来る日時はまだ未定とのことだったので、失礼にも沖縄観光のついでにでもお見えになるのかなと思って「どうぞ沖縄に来られる際には、病院に寄って下さい」と軽い気持ちでお応えした。
 番組を後で確認したところ、『こころの時代』は午前4時からの放送で、45分ずつの二日間の放送であった。まず、午前4時というのに驚いた。こんな夜中と言うか、明け方に放送を聞く人がいるのかな?

 その後時間が経つにつれて、ラジオのインタビュー番組に出ることが負担に思われ、気が重くなってきた。取り立ててこちらから話したいこともないし、次に連絡があった時は、断ろうかなと迷いだした。NHKに出るというと名利心が動く。日頃はこの沖縄の片隅で有縁の人々と浄土真宗の教えをいただいて歩むだけで十分と思っている。それなのに、NHKに出るということで心が動くとは何たることだという内面の声がする。名利心が名利心を否定する。所詮、名利心しかない我が身を見せてもらう。南無阿弥陀仏。

 それから1か月以上金光さんから連絡がない。あの話は立ち消えになったのかなと思っていた頃、電話があった。1週間後の9月17日に沖縄に伺いますと。まだ気持ちの整理のつかない状態だったので、「番組に出るのを躊躇している」と伝えると、「いえ、先生あまりかたく考えないで下さい。質問に答えるだけでいいです」と言われた。「質問に答えるだけでいいです」と言われて気が楽になったが、何の詳しい打ち合わせもないままに電話はきれてしまった。あまりのあっけなさに、金光さん僕のことを何にも知らないのにどんなにしてインタビューをするのかな、大丈夫なんだろうかと、よけいな心配までおこってきた。

収録がはじまる  

 9月17日に金光さんが来られた。診療が終わるのが早くても午後6時半ごろなので、その頃に病院でお会いする約束になっていたが、午後5時半ごろお見えになった。あまりに早い訪問にあわててしまった。まだ診療中なので挨拶もそこそこに、私たちが発行している沖縄聞法通信『 まなざし 』を急いで数冊取り揃えて差し上げた。それから午後6時半ごろまでの1時間、待合室で受付カウンターに背を向け、少し背中を丸めて『まなざし』を読んでおられた。診察室から垣間見えたそのお姿がとても印象に残っている。きっとインタビューする何らかの手がかりを探しておられたに違いない。

 やっと診療が終わって診察室に案内し、あらためて挨拶をかわした。インタビューというか対談というか、そのテーマをうかがってなかったので「今日のテーマは何でしょうか」とお尋ねした。すると何と金光さんは、「先生、『私の人間診断』というテーマで話してください」と言われた。正直、びっくりした。予想もしてないテーマだったのと、人間を診断するなんておこがましくてとてもできないと思った。「いや〜、そのテーマでは〜」と申し上げたところ「質問に答えるだけでいいです」と。そうは言われてもテーマが気に入らない。いまいち納得できない心境であった。
 金光さんが来られるとわかってから、あわてて準備しようとしたが、何しろテーマも聞いてなかったので、何を準備していいのか、かいもく見当もつかない。とりあえず私が浄土真宗に出遇った話がでるだろうからと、細川先生と関先生の往復書簡のコピーだけを準備した。後は出たとこ勝負、日頃の読書会の要領でやる以外にない。

 テーマは変わりそうもないので「二つだけ、お話をさせてほしい」とお願いした。「何ですか」「細川先生と関先生の往復書簡と古井戸の中の旅人の話をさせてほしい」「先生が、お話したいことがあれば、どうぞ話して下さい」と。わずか15分ぐらいの打ち合わせ後、病院の二階に移動してインタビューを始めることになった。この場所は10年来、毎週読書会をやってきた慣れた場所で不思議と落ち着く。

 席に着くと、金光さんはやおらカバンを開けて、録音機を取り出した。手のひらに入るくらいの小さいカセットレコーダーである。デンスケと言われている単行本より大きめの録音機を想像していただけにあっけにとられていると、その小さいカセットレコーダーに立派なマイクを接続され、自分の耳にはイヤホーンをつけられた。録音されているかチェックしながらインタビューするためである。録音の準備をしながら、「先生、横並びで座った方がいいです」「話の途中で参考になる資料など開いてもかまいませんが、話しながら開くとその音が消せませんので、資料を開くときはお話はしないでください」そして最後に「ひとつの宗派にこだわるような名前は出さないで下さい」と言われた。「はいわかりました」と言ったものの、いざインタビューが始まるとたいへんであった。浄土真宗の話をするのに「ひとつの宗派にこだわるような名前は出さないで下さい」と言われたことが脳裏をかすめるものだから、浄土真宗と言ってはひっこめ、親鸞聖人と言っては言い換え、念仏と言っては口ごもり、話ながらことばが曖昧になったりして要領がつかめない。これは難題であった。

 緊張する暇もなく、おもむろにインタビューは始まった。金光さんという方は実に不思議な人である。生き馬の目を抜くような放送界に長いことおられ、沢山の方々をインタビユーする百戦錬磨のなかで、余分なものが抜け落ちていったのであろう。初対面にもかかわらず相手に緊張感を与えない。ひょうひょうとしておられて、まるで構えがない。旧知の近くの親しい田舎のおじいちゃんという雰囲気である。年をとったら、私もあのようになりたいものである。

 金光さんはラジオを聞く方々の立場になって質問をされる。実は何もかもよくご存知である。相当の知識がなければ、宗教に関したインタビューなどできるわけがない。私が日頃の読書会で断片的に話していることを上手に引き出していただいた。金光さんとの出会いがなければ、このような形で自分の思いを話すことはなかったに違いない。時間が経つのも忘れて話し込んでいると、金光さんは時計に目をやりながら、「今日のインタビユーはこれで終わります」と言われた。私はインタビューがいつ終わるのか全くわからない状況であった。しかし、金光さんはプロ、番組の時間の長さと構成を考えながら話を進めていたのである。これぐらいインタビューをして編集すれば、ちょうどおさまるように計算しておられたのである。

 カセットテープを入れ替えたりしながら、10分ぐらいすると、「二日目のインタビューを始めます」と言われ、「昨日は〜」と言って話しだされた。こんな状況で、すぐに二日目のインタビューが始まるのも意外だったし、またほんの10分ぐらいしか経ってないのに、いきなりの「昨日は〜」はおかしかった。仏法の話をすると時間が経つのを忘れてしまう。インタビューされているんだとあまり意識することもなく、二日目分のインタビューが無事に終了した。

 自宅によっていきませんかと、金光さんをお誘いして車で向かった。インタビュー終了後も、車の中、自宅と途切れることなくずっと仏法の話をしていた。今、思い出しても実に楽しい充実した時間であった。お茶を飲みながらお話ししたことで、印象に残っていることがある。「ラジオに出るのは名利心だから、はじめは止めようと思いました」と私が言うと、すかさず金光さんは「先生にとっては名利心かも知れませんが、聞く人にとっては必ずしもそうではありません」と言われた。その言葉が何を意味しているのか、その時はよくわからなかった。後日、インタビューが放送された後、その言葉の意味がよく飲み込めた。

 放送は、約一ヶ月後の10月19日と20日であった。放送の一週間前ぐらいに、金光さんから放送日の連絡があった。「先生、二日目の内容は特によかったです」と言われた。多分私が、インタビュー後に、話の内容に自信がなくて「内容が放送にふさわしくなければ没にして下さい」と言ったので、気をつかっていただいたに違いない。あのインタビューの日は、録音が終了しても仏法の話をずっとしていたので、自分の中ではどこでどんな話をしたのか判然としなくなっていて、どんな内容の放送になるのか見当もつかなかった。

 ラジオの『こころの時代』に出演して放送があるということを、ほとんど人々に知らせなかった。ラジオに出ることを何か自慢しているみたいで素直に言えない。自意識過剰のなせる技である。例の名利心の変形である。しかし直前になって、細川先生や関先生とご縁がある方々、特に九州の方々には聞いて欲しいとの思いがこみ上げてきて、あわてて中山龍三さんにメールを送った。ぎりぎりセーフであった。急なお願いをしてご迷惑をおかけした。

放送されて  

 10月19日の午前4時前、ラジオのスイッチをいれた。ニュースの後、放送が始まった。アナウンサーが「沖縄県具志川市の医師 志慶眞文雄さん〜」と紹介して始まった。緊張するとか、わくわくするとかもなく、まるで他人の放送を聞いているみたいで、放送ってこんなものかなという思いがした。金光さんは、どこにいても旅先だろうと必ず放送は聞かれると話しておられたので、どこかでこの放送を聞かれているに違いない。金光さんのことをなつかしく思い出しながら聞いていた。

 その日はちょうど、大型の台風が沖縄近海にあって、台風情報で放送が中断したりした。暴風雨のため病院は休診になった。おかげで睡眠不足のままで仕事をしなくてすんだ。台風情報を聞くためにラジオをかけていた隣近所の人々も放送を聞いたらしく、後日、思いもよらず知り合いや、患者のご家族から声をかけられた。

 翌10月20日に二日目の放送があった。台風は九州に接近していた。
 10月21日に出勤すると、驚いたことに放送を聞いたという方が病院に訪ねてきていた。それから2〜3日の間に、講演会の案内が欲しい、読書会に出たい、聞法通信『まなざし』を送って欲しいなどと4〜5名の訪問があった。

 全国から電話もたてつづけにかかってきた。本当に放送は全国津々浦々まで届いているんだなと、当然のことに感心してしまった。そういえば、金光さんは自宅で話をしているとき、私が「午前4時は聞かれる人はあまりいないのではないですか」と質問すると、「推定では、2〜3百万人が聞いているはずです」と言われていた。

 最初の日は、戸惑いながらもいちいち電話にでて応対していた。人によっては生死の問題でゆきづまっていて15〜20分も電話を切ろうとしない。子供を二人自殺で亡くしたと苦しい胸の内を語る人、病に冒されていて死と向き合うのが怖いと訴える人。こういう話はどこで聞けるのか、本を紹介して欲しい、聞法通信を送って欲しいなど、話の内容は多種多様であった。時間をかけて応対したいが、診察を待っている患者もいるので落ち着かない。その日は朝から、電話と診察室を往復しながら、何が何かよく分からない状況で一日が終わった。診療が終ったら疲れ果ててしまった。病院の職員は目をシロクロさせて何事がおこったのかと思っている様子。

 診療にさしつかえがあるので、明日からは、放送を聞いた人の電話は直接取り次がないで、診療が終る午後6時以降に約15分間隔で時間を指定して電話をかけ直すように受付に指示した。それから数日間は毎日、午後6時以降数名の方々から電話があった。

 2〜3日すると、北海道から沖縄まで全国から沢山の手紙が届いた。自分の聞いている宗教の本を送りつけてきた方もおられたが、ほとんどは一言でいえば、道を求めている方々からの真摯(しんし)なお手紙であった。最初は浄土真宗の話しを聞いたことのない方々からの手紙が多かった。放送で率直に生死の問題を話したことが響いたらしい。しばらくしてから、浄土真宗を聞法されている方々、各地のお寺の住職の方々などから丁寧なお手紙が届いた。長年浄土真宗を聞いているけど信心、念仏、浄土、本願などが受け取れないという悩みや相談がかなりあった。返事を差し上げた方がいいと思われる方には、できるだけご返事をさしあげた。おそらく50通以上の返事を書いた。そして今も、多くの方々と手紙やメールのやり取りをしている。その後、これまで浄土真宗とご縁のなかった数名の方が、浄土真宗のお話を聞きに足を運ばれたと聞いている。これは本当に嬉しい。金光さんが「先生にとっては名利心かも知れませんが、聞く人にとっては必ずしもそうではありません」と言われた意味がやっとうなずけた。

 煩悩以外にない身である。深くて広い心や慈しみの心など微塵もなく、自己中心の思いしかない。犬も食わない名利心と我愛でしか動かない。これが仏さんのまなこに映る私の哀しい姿。しかし仏まします。仏さんは、その私の煩悩や名利心に仕事をさせ、それを通して自ら真実のはたらきをなす。誠に煩悩具足のこの身がなければ、仏さんも働きようがない。南無阿弥陀仏。

 放送は『こころの時代』の特別番組として、年末の12月31日と2005年1月1日の昼と夜に二回再放送された。これを聞かれた東京の四季社の方が、本を出版したいといって病院を訪ねて来られた。またNHKの放送を『在家仏教』に掲載したいとの依頼があり、2005年の5月号と6月号に全文掲載された。

 10月の放送を聞かれた石川県の「雑光の会」の方から講演依頼があり、2005年5月の末に行ってきた。暁烏敏先生や平野修先生の地元であり、藤場俊基先生、和田稠先生、林暁宇先生の居られる所である。そうそうたる方々の居られる所に、私のようなものがあえて行く必要はないのではないかと躊躇(ちゅうちょ)した。しかし心のこもった、とてもむげには断れない丁寧なお手紙で、何日も手紙を持ち歩いて悩んでいた。しかし近くにある蓮如上人のおられた吉崎御坊には行ってみたかった。どうしようかと決断しかねているのを家内が見て、「多分、皆と同じ話は期待してないと思うよ。行ってみたら。」その一言で決断した。

 石川県に行ったおかげでたくさんの方々とご縁を賜った。依頼されたテーマは『私にとっての南無阿弥陀仏』であった。世間話に仏法をとってつけたような話はしたくなかったので、嬉しいテーマであった。依頼されてから約半年間、仏法のことを考えながら生活した。負担ではあるが、これがまた貴重な日々で、講師が一番得るものが大きいといつも思う。
 小松空港に家内と降り立った。白山にはまだ雪が残っていた。「雑光の会」の方々が5、6名迎えに来られていて、待ちに待った出会いであった。依頼状を書かれた常橋さんは、すでにメールで何回もやり取りしているので初対面という気がしなかった。夕食を取りながら、初めて聞かれる方々もかなり居られるので難しい話でない方がいいということをうかがった。真宗王国と言われ、蓮如上人の居られた土徳のあつい所だからとかなり気合いを入れて準備してきたが、ホテルに帰ってから話す内容を少し変更して、初めての人にも聞けるように『願いが 人をひるがえす』という内容で話すことにした。

 翌5月21日はいよいよ講演会。和田 稠先生がぜひ会いたいと言っておられるとのことで、朝、「雑光の会」の山口さんご夫妻がホテルに迎えに来られた。稠先生はもう90歳を越えておられる。4、5年前に沖縄での講演会にお見えになったことがありそれ以来のご縁で、懐かしい再会であった。先生が「これが最後、おわかれですね」と言われたので、胸があつくなって思わず先生の手を固く握りしめてお別れした。

 仏教講演会は、真宗大谷派称佛寺で午後約2時間、円光寺で夜約1時間半であった。全部で300名近い方々が聞きに来られ、講演会をおこなう本堂に入り切らないで廊下で聞かれた方々もおられた。「雑光の会」の方々の半年間かけてのなみなみならぬ準備のおかげである。私の話がそのご苦労にわずかでも報いることができていたらと思う。

 「雑光の会」は藤場俊基先生のお話を聞かれている方々の会で、行ってみて初めてそれを知った。「雑光の会」の方々は同じ道を求めて歩む御同朋御同行、私と同じ年代の方々が多くすぐに旧知のように親しくなった。俊基先生には沖縄の講演会にも来ていただいたことがある。先生は講演会の合間には控え室にたびたび訪ねて来られ、講演会後の歓迎会も最後まで付き合ってくださった。先生の著書の愛読者のひとりとして、その細かい配慮と親しくお話ができたことがことのほか嬉しかった。

 翌22日は「雑光の会」の方々に蓮如上人のおられた吉崎御坊跡へ案内して頂いた。『御文』に、「多屋内方」とか「吉崎の山上」「吉崎の山中に参詣せらるる」などのことばがでてくるたびに、ぜひ一度は蓮如上人の居られた吉崎御坊跡を訪ねたいと思った。この機会を逃がしたらまたいつ行けるか知れないという気がして、御迷惑をかえりみず案内をお願いした。道元禅師の永平寺も案内して下さった。

 身に余る心づかいをしていただき、感謝の思いを抱きながら帰路についた。次は沖縄で会いましょうと言ってお別れした。この出会いを大切にしたいと思う。7月末には小松からひとり来られて、私たちの読書会に参加する予定である。これから交流が広がってゆくに違いない。

 公の放送に出るなど考えたこともなかったが、放送では、自分のこれまでの遍歴というか、超えられない生死の問題に長いこと苦しんできたことを率直に話した。あまりにも個人的な事ではないかとの思いもあったが、これが私にとって避けて通れなかった一番の問題だということと、他に特別に放送で話さないといけないことも思い浮かばなかったので生死の問題を語った。それが思わぬ反響をひき起こした。世の中には、生死の問題で悩み苦しみ、道を求めている方々が沢山おられるのだと言うことを知った。やはり生死の問題は、釈尊以来かわらずに、万人の問題である。

 放送からもう8ヶ月が過ぎようとしているが、今でも思い出したように、電話やお手紙が舞い込む。きっと長いこと電話をしようか、手紙を書こうか迷っておられた方々なのだろう。視力が弱くテープを繰り返し聞いているという嬉しいお便りもいただいた。本土から沖縄に来られた時に病院に立ち寄る方もおられる。 11月には、山口県の浄土真宗のお寺の門徒さんが団体で沖縄旅行に来る時に、ぜひ病院で話を聞きたいと依頼があった。沖縄の読書会には新しいメンバーも加わった。NHKの放送に出たお陰で、思いもよらない波紋が次から次に広がっている。

 もし仏さんが、私の煩悩に仕事をさせようとしているのなら、仏法のことはどんどんやろうと思う。この浄土真宗のみ教えに遇いえたことを感謝し、できることなら多くの人々と共にこの一道を歩んで行きたいと思う。『仏法弘まれ 僧伽よ興れ』 南無阿弥陀仏
                     (志慶眞文雄:2005年7月)

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