浄土真宗

和田 稠先生との出遇い

石川県の山口喜美子さんから、和田 稠先生の最後のご様子を伝えるお手紙を2006年1月12日に受け取りました。山口さんの許可をえて、ここに全文掲載します。

 前略
 お聞きの事かと思いますが1月1日午後11時40分に和田先生が亡くなられました。89歳のお歳でした。すい臓癌だったそうです。
 12月3、4日が名古屋での最後の講義でした。私が2日にお見舞いにいった時にはすでに左手と足がボンボンに腫れてそれはそれは痛々しそうでした。本当に講義に行かれるのかと心配そうに聞くと「最後のお礼を言うに行かんなん」とおっしゃられました。そしてその時に『今月いっぱいしかおれんぞ』と言われました。私もそう思いました。涙がとまりませんでした。
 その後12日の日には親しくしている同朋ばかりで最後のお話を聞きました。(先生の自宅で)1時間30分くらいでした。つらそうでつらそうで心が痛みました。それでも最後の最後まで「念仏して助かると思っておったら大間違いだ。念仏して助からんもんやと言う事がはっきりする。地獄は一定すみかぞかしと決着するのだ。それが凡夫の誕生だ。だから念仏忘れちゃいかんぞ」(凡夫のいない同朋運動なんてあきがきていかんわいなあ)とのお話しでした。
 1月1日の午後4時にお見舞に行った時はもう目もあけられない状態でした。とてもつらそうでした。耳もとで『先生、先生』と呼ぶと頭をふってうなずいておられました。それが最後でした。
 息つきるまで枕元で聞法をなさっておられました。「世の中安穏なれ、佛法ひろまれ」という願いひとつ残して聞法の生涯を終られたと思いました。

  病む身をば
    病むに任せて現前の
     いのちの問いに生きなんとする

 病床で作られた詩だそうです。お葬式も無事終りましたが、まだ実感がわきません。まだ先生がおられる様な気がしてなりません。
 まずはご報告まで   かしこ



2003年6月に和田 稠先生から、出版ほやほやの著書『除かれたもの』(3月30日発行)が送られてきました。それに添えられたお手紙と本の表紙の裏に毛筆で書かれた先生の言葉を掲載します。貴重な先生の形見となりました。

画像の説明



 和田 稠先生との出会い    

                         志慶眞 文雄

 私が和田先生と初めてお会いしたのは、2000年5月20日、東本願寺沖縄開教本部主催の第37回人生ゼミナールの講師としてお見えになった時でした。先生、84歳の時でした。
 『仏教から見た先祖崇拝とたたり』がその日の講題でしたが、沖縄開教本部が要望した講題だったらしく、「こういうテーマを頂きまして、困ってしまっています。こういうテーマに関連して、私はこのように思いますと言ってみたところで、言わないといっしょでしょう。どうってことはないわけですよね。それで何を話したらいいのか、本当に困りましたな。・・・ 」と、話を始められことがとても印象に残っています。

 講演会は、先生が体験された戦争のお話から始められました。
 3回召集され3回目は南洋諸島に送られ、実に多くの仲間が尊い命を失いました。その事への深い悲しみを込めて、「キリスト教の方が自分達のことをキリスト者という言葉で言われますね、ならば私は真宗者と申しても許されるのではないかな思うのですが、その真宗者として、真宗者でありながらしかもその矛盾に満ちた戦争に従事しながら、その事が、長いことほとんど私の主体的なみずからの課題にならなかった。いったいそれはなぜか。そういうことが改めて問題になってくるわけです。そういうことを思い出しながらこちらへ来たわけです。」と述懐されました。
 靖国問題で先生の名前を知らない方はないと思いますが、 先の言葉が先生が靖国問題に取り組まれた原点、このことを通して信心を問われたということでしょう。

 それから青春時代にバイブルを読んで感動した話がありました。特にイエスの弟子のペテロの話は胸を打ちました。厳しい先生のお姿からはなかなか見えない先生の内面を垣間見たような思いがしました。
 講演の最後に「今、その浄土真宗を生きる者、いわゆる真宗者とは何かが問われていましょう」と問いを投げかけて話を終られました。

 ひょうひょうとした中に芯の通った気迫があり、和田先生のような方にお会いするのは私にとって初めての経験で、いろいろなことを考えさせられました。
 講演会での話を多くの方に届けたくて『まなざし』への講演録の掲載の依頼の手紙を先生にさしあげました。折り返しOKの許可をいただいたので家内がテープ起こしをし、先生に原稿の校正をしていただいて、その年の第20号(12月2日発行)に掲載しました。
 これらがご縁で『まなざし』をお送りし、先生とお手紙のやりとりを何度かしました。
 講演会後、先生の本を取り寄せて読みました。しかし気軽に読める内容ではなく、戸惑いながら立ち止まり考え込みながらしか読めない内容で、講演会で最後に先生が「今、その浄土真宗を生きる者、いわゆる真宗者とは何かが問われていましょう」と言われた言葉の通りでした。
 私たちはえてして講演会を聞いたり本を読んだりして感激して終りがちですが、先生のお話はそれで終らせません。「仏教は目覚めでしょう。感激は単なるあなたの陶酔ではないですか? 恍惚感と信心歓喜を間違えていませんか? 現実を見ていますか?」という厳しい問いがいつもあります。だから先生の本を読むことは必ずしも楽なことではありません。いやむしろしんどいことです。いつも自分が問われます。

 思いもよらず2004年10月にNHKラジオ深夜便「こころの時代」に出演しました。これがご縁で2005年5月石川県で講演をすることになりました。そのことを聞かれた和田先生がぜひ会いたいと言っておられるとの連絡がありました。
 沖縄の地で浄土真宗を聞く場が開かれていることを喜ばれ気にかけ何度か本も送って下さいました。しかし反面、先生の妥協しない厳しさをいつもひしひしと感じていました。かって『まなざし』に対しても、あの記事はどうかと思うという厳しい手紙を下さいました。お会いしたいと同時に何か身の引き締まるのを覚えました。
 2005年5月21日、朝、「雑光の会」の山口さんご夫妻がホテルに迎えに来られ、先生のところまで案内して下さいました。5年前に先生が沖縄の講演会にお見えになって以来の懐かしい再会で、石川県までよく来られたといって喜ばれました。「浄土真宗の土徳の篤い石川県に私が来るのもどうかと思ったのですが」と申し上げたところ、すぐさま先生は「土徳も地に落ちまして」と言われました。先生自らきゅうすにお茶の葉を入れ、ポットからお湯をそそぎお茶を出されました。沖縄のこと、先生の近況や仏法の話をしながら一時間近く居たでしょうか。体調が万全ではないことをうかがっていたので、これ以上長居してご迷惑をおかけしてはと、帰りの挨拶をしました。すると先生は「これが最後、おわかれですね」と言われました。先生の手を固く握りしめ胸にあついものが込み上げるのを感じながらお別れしました。本当にこれが先生との今生のお別れでした。
 宮城しずか先生は『和田稠講話集』の序文の中で「和田先生のその疲れるということを知らないかのごとき情熱と、私が身を護らんとしている薄皮を一枚、さらに一枚とひきはがしつづけてしまわれる厳しさと、その存在は、私にとってまことに『厄介』であります。そしてまことに有難い存在であります。」といわれています。まさしく同感です。
 仏教、浄土真宗が目覚めの教えであるならば、教えを通して自分のありように目が覚めていく歩みを一生涯尽くさなければならないことを、先生は身をもって教えて下さいました。手元に『和田稠講話集』などの著書がいくつも残されました。とぎれとぎれの約5年半の先生との交流でしたが、私にとって自らの仏道の歩みを問う、かけがえのない大きな出会いでした。

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