浄土真宗

和田 稠

「仏教から見た先祖崇拝とたたり」  

                         (2000年5月20日)
                         (講師) 和田 稠

困ったテーマ  

 皆さんこんにちは。ただいまご紹介頂きました和田です。沖縄へは三度か四度ほど来ていますが、久しぶりに来る機会を得ました。
 ご案内にありましたように、「仏教から見た先祖崇拝とたたり」というテーマを頂きまして、困ってしまっています。こういうテーマに関連して、私はこのように思いますと言ってみたところで、言わないといっしょでしょう。どうってことはないわけですよね。それで何を話したらいいのか、本当に困りましたな。今度、実は鹿児島の方まで来たものですから、そこまで来ているならこちらの方までと、声がかかりましたので来たのですが、私の気持ちとしては、こういう「仏教から見た先祖崇拝とたたり」という大仰なお話をしようという気持ちは始めからないんです。(笑い)そういうことを二時間できちっとまとめたいわゆる講義といいますか、大学の授業のようにやってみたところで別にどうってことはないわ〜というかんじですね。じゃー何しにきたんやとなりますね。(笑い)

戦争:真宗者としての主体的な課題に  

 なんと言いますかね、私は我々の予想もつかなかったようなこの二十世紀の初め、一九一六年、大正五年生まれですから、今年八十四歳になります。私が二十四歳の時にですね、学校をでまして、そして翌年第一回の召集令状がありまして、その召集中に第二次世界大戦、大平洋戦争が勃発しました。私は続いて第二回の召集令状、第三回の召集令状をうけまして最後の召集令状は昭和十八年でした。学徒出陣が全面的に始まった年です。その前年の昭和十七年という年にミッドウェイ海戦で日本の連合艦隊がほとんど壊滅状態になった。それを我々国民は全然知りませんでした。そんな中を私は兵隊のままで南方に送られました。そして敗戦、一九四五年、昭和二十年。私どもの周囲の島々はほとんどアメリカの反攻によって全員死んでいった、いわゆる玉砕しましたけれども、私のいた島だけが取り残されました、私たち一万数千人が。戦闘能力のまったくない裸の島へ、重火器一挺ももたぬ部隊を何しにはるばる送りつけたのか。当時はわかりませんでした。
 そのことがわかったのは迂闊にも、戦後五十余年もたった最近のことです。それは沖縄と関係がありますが、日本本土へアメリカ軍が上陸するのを、一日でも遅らせるための時間を稼ぐためだけであった。何の見通しもないただ時間かせぎのために、兵隊はなんぼ死んでもよろしいという軍隊であったわけです。私たちの毎日の訓練といいえば、爆弾を抱いて身体ごと敵戦車の下に飛びこむことだけでした。何にもわからないままにお国のために、お国のためにとやってきたわけです。その「ため」を考えるひまさえ奪われていたのです。
 キリスト教の方が自分達のことをキリスト者という言葉で言われますね、ならば私は真宗者と申しても許されるのではないかな思うのですが、その真宗者として、真宗者でありながらしかもその矛盾に満ちた戦争に従事しながら、その事が、長いことほとんど私の主体的なみずからの課題にならなかった。いったいそれはなぜか。そういうことが改めて問題になってくるわけです。そういうことを思い出しながらこちらへ来たわけです。
 こちらへいこうかな〜という気になったのは、そういう状況を同じく生きてこられた皆様方にお目にかかることは、これが最後かもしれないと思いましてな。

生活のパターンになっている祖霊信仰  

 今回の人生ゼミナールのご案内には、「仏教から見た先祖崇拝とたたり」ということをご一緒に考えてみましょうと書いてありますから、ご一緒に考えて見ることにしましょう。
 先祖崇拝とは、霊の信仰、もっと具体的に言いますと祖霊信仰、先祖の霊を信仰するということでしょう。先程、佐喜真美術館を見せてもらったんですが、その美術館の隣に佐喜真家の大きなお墓がございました。あれは代々の祖霊が祭られていまして、沖縄では、特に祖霊信仰が非常に強いと。その信仰行事が日常の生活の重要なパターンになっておると聞きました。何月何日頃には、又祖霊にまみえる日がやってくると言うようなことが、生活上のパターンになっておるんじゃないかと思うんですね。
 そういう沖縄の人々の生活のパターンにまでなっておる祖霊信仰と真宗とが、どういう関係にあるのかというような事が一つ問題として底辺にあって、「仏教から見た先祖崇拝とたたり」という問題がでてきたのでしょう。真宗と霊の宗教と、それがどこで結びあうのか、全然関係がないのか、関係しておるのか、あるいは矛盾しておるのか、そういう事が一つ一つ問題になってまいります。
 もう一つ言いますと、ひとえに人生の真意義にめざめ、万人共生の世界に生きぬこうとする真宗者としての私と、もっぱら自己中心の安泰、幸福、繁栄を望み、その加護を祈念する民俗の日常性に身を任せている私とがいる。その二つの生き方が私の中でどう折合っているのか。生き方の根本にかかわるようなこの一大事を共にまじめに究めようとしたことがなかった。民族をあげてサボタージュし、先送りしてきた。その民族の問題がそのまま私自身の生きざまだった。
 ところでこれはですね、何も沖縄だけの問題ではないと思うんです。こういう問題をつめていきますと、一体、霊とは何なのかと言う事から始まってまいります。霊とは何なのか、霊というのはあるのかないのか。なぜ祖霊、霊を敬い、それを篤くお祭りをしなければならんのか。それはどういう意味を持つのかと色々、沢山の疑問がでてまいりす。祖霊を祭る人間とは何か。そのような生き方をしておるその人間とは何か、それが本当は問題なのでしょう。

祖霊を祭る人間とは何か  

 祖霊を祭る人間とは何か。それを考えてみましょう。私たちは人間に生まれたということを当然の事にしておりますが、その人間というのは、死ぬべきものとして生まれてきた。ここにおられる皆様方も私も、必ず死にます。これは間違いございませんね。この頃新聞を見ますとね、私も死亡欄がやたらに気になるような歳になりました。死亡欄を見ますと八十歳が多いですなあ。心筋梗塞だとかですね。九十歳余りなると病名がありません。老衰と書いてあり、八十代までは病名が書いてございます。
 私達は、死ぬのが嫌ですから死ぬ原因を無くしようとします。死ぬ原因である病気をなくさなければ、交通事故をなくさなければ、公害をなくさなければと一生懸命です。それらが死ぬ原因だと考えているわけです。
 けれども実は、仏教ではそういうものは死ぬ原因だとは考えません。それを縁と言います。病気で死ぬ、交通事故で死ぬ、災害で死ぬ、戦争で死ぬ。それらは皆、縁で、死の縁、無量です。それらは原因ではない。

死の原因は生まれたこと  

 ではなぜ死ぬのか。死ぬ原因は何か。それは、生まれたからです。生まれた事が、死なねばならないと言う原因ですね。生まれた時から、死ぬべきものとして生まれてきている。したがいまして、我々はあの人は何で死んだ、何で死んだと、死因についてあげつらいますが、それらは本当の原因ではない。本当の原因は、生まれたということなんですね。生まれたことが原因であれば、死を避ける事はできません。これが本当に厄介なんです。
 私は八十四歳ですけれども、父親は八十六歳で亡くなりました。母親は百一歳です。私もうっかりしておると、そんな歳までおるんじゃないかなと思いますが、それは、そうめでたいことではないですね。はっきり言って、実に厄介な事です。生まれたことが原因であれば、死を避ける事はできません。そういう事が、何か私達は解ったようで解らないようで、漠然として、何か靄の中でかすんでいるような問題としてしか意識されない。それが大問題ですね。本当の原因をいつも避けて通る。本当の原因に遇いたくない。死をなくすると言う事はできないと言う事はみんなはっきり知っておるんです。けれども、なるべく死を避けようとする。そういうところから、臓器移植の問題もおきてまいりますし、あらゆる問題がおきて大変な事になってきておる。その原因というものが誤魔化され、誤魔化されて現在の文化の繁栄がある。死の誤魔化しですよ。どういう手を施してみても、我々は死から逃れる、死を避ける事はできないでしょう。
 皆さんご存じだと思いますが、仏教の教えではですね、「生老病死」は、いかなる者も避ける事ができない四つの苦しみというふうに言っております。どのような手を打ってみても、それを無くすることはできませんね。
 今の技術は、例えばハンセン氏病みたいなものを完全に治すことができたと言っておりますけれども、昔なかった難病がぞくぞくと出てきています。だから、病気を全部無くすことも、そのような罹病率の高い年寄りを無くすこともできません。もちろん死を無くすこともできません。では死をなくそうとして、その原因である生まれるということを無くすということができますかな。生まれるという事が、親にとっても、子にとっても不幸だと。だから、生まないでおきましょう。生まない自由。そういうことが盛んに言われております。そう言われてみると、そのとおりだなあと。それで、皆が生まない自由の権利をおおいに行使しますと、やがて人類の終わりの日がやってきます。種の絶滅を招くことになります。そういう厄介な問題を我々が抱えております。我々は生きていると言いいますが、いつも死によって脅かされております。生きておると言うて、生を強調すればするほど無視された死が反撥して、かえって生を不安に陥いれます。
 お釈迦様の時代は、こういうものは避けることのできない苦であると。したがって、人間として生まれたということは、苦悩するものとして生まれた。こういう命題が成り立つわけですね。人間とは何か。生きることが苦悩である。死ぬことが苦悩である。年老いることが苦悩である。病むことが苦悩である。しかも、それを無くする事はできない。そういう事がさらに深い苦悩である。人間は苦悩するものとして生まれてきた。人間とは、苦悩するものである。これは、お釈迦様の時代の教えです。

今の時代は「生の文化」の時代  

 皆さん、こんな事を聞かれてどう思われますか。このような言い分は現代という時代にはまったく通用しないですね。人間は苦悩するものである。そんな事、誰も思っていません。我々は人生を楽しむ為に生まれてきたんだと。できるだけ、人生をエンジョイしましょうと。さらにさらに、我々の技術、科学、知能を磨いていって、今は解決することができないと思われておるような不都合な状況を一つ一つ克服してゆく。
この間そんな話しをしておったらね、もうしばらくしたら人間は死ななくなるかもしれんという話しがでました。とにかく、さまざまな問題を全部克服してゆく。人間の全能力と、全技術をあげて克服してゆく。そういう事が現代のわれわれの常識みたいになっておるんですね。それを、私はですね、今の時代は「生の文化」の時代だと言っております。しかし、幸福を追求したあげく、今、人類は、近代文明のピークに立っ
て、まさに歴史の終焉、滅びの時へ近づいていく危機を感じておるんです。

敗戦の日までは「死の文化」  

 一方、我々の生まれる以前、それから今度の戦争で負けるまで、敗戦の日まで、日本中が「死の文化」を生きてきた。国民をあげて。そう言えるのではないかと思いますね。私達の若い頃には「お国の為に」、ということを言いだすと又大変な問題が出てくるんですけれども、我々の一人一人が生きておるということは、決して手放しで喜べるような事ではないと。恥じ多き人生をのめのめと生き延びるよりも、大いなるものに対する使命として、潔く自分の全存在を捧げよと。「海ゆかばみずくかばね、山ゆかば草むすかばね、大君の辺にこそ死なめ、かえりむぁせじ」と絶唱しました。それが日本国民としての最高の光栄であり美徳であると思い込んでいました。要するにそれが「死の文化」です。
 その「死の文化」が、戦争に負けると同時に、いっぺんに「生の文化」に変わったわけです。ここに非常に重大な問題があるんですが、今は、そのことに詳しく触れる時間がございません。

仏教徒も皆、祖霊信仰  

 結局はですね、人間というものは何だという、一番手短なところがはっきりしないんです。信仰とは何か、霊とは何か、霊の信仰というのは一体何んだ、霊はあるのかないのか、霊を祭るという意味はどういう事なのかと、私たちは一生懸命考えておる。しかし、考えておる当の自分が問題になるということが、ほとんどないんです。これは非常に重大な事だと思いますね。この霊という問題は、結局それを突き詰めてゆきますとですね、人間の問題になるんです。
 祖霊信仰は、人間というものはやがて必ず霊になるんだという一つの宗教ですね。その霊の宗教というのはですね、我々の現実に生きる生き方に対して明確な指針を与える事がない。ということは、教えがないということです。霊の宗教には教えがないんです。生活のパターンとして、我々を規定しておるけれども、教えはどこにもありません。別に沖縄だけではありません。お盆になりますと日本の内地のおきましても、一大民族移動があります。飛行機、JRの全線は超満員になり、何百万、何千万という人達が祖霊を祭る為に故郷に帰る。これは、仏教徒だ仏教徒だと言っておるけれども、実際は祖霊信仰の中に身を置いておるわけですね。祖霊信仰と仏教というのは一緒なんだと。聞きますと、沖縄にも真言宗とか、浄土宗とか、禅宗、臨済宗とか、そういう仏教があるそうですね。ところが、やっとることは皆、霊信仰と言わねばならんようなことをしておると。
 私の生まれた一九一六年、大正五年、あの時分私の郷里である北陸の村では、それこそ森首相が言うように、人々の生活の全領域に神々が満ち満ちておったんです。台所へ行きますと、台所の神がいらっしゃる。御飯を炊くとかまどの神がいらっしゃる。井戸で水を汲むと井戸の神がちゃんといらっしゃる。それらの神々をお祭りして、御飯を炊いたり、水を汲んだり、毎日の生活全体が大きな天地の恵みである、神々恵みであると言って感謝して生きてきたんですよ。浄土真宗の門徒のおばあちゃんなんかも例外なく、お日さまが西の空にかたむくと、パチパチとお日さまに対して拍手合掌をしておりました。おてんとうさまのお陰で今日一日こうして無事に生きる事ができましたと。これも一つの自然霊、霊に対する感謝です。
  この間ですね、真宗門徒で長年、真宗の教えを聞いた方々がですね、色々話し合いをしておられた。それで、人間は死なねばならんが、真宗の教えを聞いてどうそうれを受け取っているかとなったらですね、どうせ我々は死なねばならない身をもっているけれども、例え身体は死んでも、魂がお浄土へ行くんやと、こういう言い方をしておられました。実は、これは霊の宗教ですね。真宗や真宗やと言うとるけれども、実際は、霊の信仰になっておるんです。身体は死んでも、魂がお浄土へ行くんやと。もっとも、この霊という言葉を、ただちに実体的概念だときめつけてしまう私たちの方にも問題はありますが・・・。

鎮魂の儀礼になった読経  

 浄土真宗と言いますけれどもね、例えば、今日は亡き人の十三回忌、あるいは七回忌、あるいは三十三回忌だとかで、ご法事を勤めて、お坊さんにお経をあげてもらう。その時にどう言うかというと、今日は亡くなったおばあちゃんの命日だから、おばあちゃんの為にお経をあげてくれと言う。今日は、亡くなった子供の命日だから、子供のお経をあげてくれと、こう言います。そうするとすれば、亡くなった人の霊を慰め、霊を鎮める、いわゆる鎮魂の儀礼でしょう。
 仏教だ仏教だと言っておるけれども、何もお釈迦様の教えをそのとおり信奉しようと言うのではない。お釈迦様の教えが書いてあるのがお経です。お経は「如是我聞 一時佛・・・」とある。そのとおり音読してもなんも解らんから、それは教えになっとらんですね。ひょっとしたらあげとる方もお経の本当の意味内容など解っておらんかもしれない。お経をあげてもらっている生きているものに解らんのだから、多分これは亡くなった人の為になるんだろうと言う事になります。当たり前の話しです。
 本当はキリスト教であれ、仏教であれ、それは真理を説いた教えであるならば、それを生きている者が聞かなければならんのでしょう。ところが、私のところに時々都会から人がきて、お盆なんかにお経をあげてくれと言う人がある。今日は時間があまりないので長いお経はかなわんから、一番有り難いところをちょっとだけあげてくれと、こういう言い方をします。ということは、お経は、はじめから生きておる者の為だとは思ってないです。亡くなった人の為に何かなるだろうと。役立つだろうと。こう言っておる。お経の利用です。
 しかも、日本ではお経の読み方は独特の漢文の音読です。それは現在の中国語の発音とも違います。今の僕らの読んでいるお経をですね、現代の中国人の発音に直して読むと今の共産主義政権下の中国の人達も「あっ、そうか」と教えを頷く事ができます。ところが、日本でお経をあげておりますのは、現代中国の発音でもないんです。日本語でもありません。どこの言葉でもないんですね。それを、ああして音読してお
るんですから、生きておる者はチンプンカンプン解らん。だから、生きている者は解らんから、これは多分死んだ人のために役立つんだろう。そしたら、死んだ人は何だと。霊だと。霊が喜んでくれる。ああ、ようわしの為にお経をあげてくれたと言うて喜んで、生きておる我等を守ってくださる。そういう意味になるんですね。
 ご法事が終わりますと、笑い話じゃありませんが、真宗の家でもですね「かねてからご法事をしなきゃならんと思っとったのが、皆様方のお力で今日はつつがなくご法事をさせて頂きました。先程から結構なお経をあげてもらって、さぞ亡くなった人も喜んでおるでございもしょう。喜んで、安んじてお眠り下さい」ということになります。亡くなった人が霊として出てくると、生きておる者が安んじて眠る事ができません。それで、亡くなった霊を安らかにお眠り下さい、安らかにお眠り下さいと、一生懸命、子守唄の変わりにお経をあげて眠らせるんです。そうすると、霊が霊としての働きを止めますから、今晩から私もゆっくりと安眠ができます。ありがとうございましたということになっとるんです。どうでしょうなあ。これを仏教と言えましょうかね。もちろん、キリスト教でもありません。教えがないんです。もう話しが中途半端で困っとるんですが、時間ですから休憩しましょう。

霊信仰を否定する根拠は?  

 いっこうに話しがまとまりませんで申し訳ないんですけれども、厄介な問題ですね。ご一緒に考えてみたいと思うんですけれども、今日、一番最初にですね、「先祖崇拝とたたり」という一つの言葉によって、霊の宗教、霊の信仰ということが問題になっとるわけですね。霊を祭らないとたたりがあるが、丁寧に祭ると亡き霊が満足して、ようやってくれたというて我々を守ってくれる。そうすると、我々が幸せになれる。
我々自身の幸福を守るために死者を霊とする。要するに、死者の利用ですね。災いを幸福とする為に亡き人の霊の力を借りる。宗教学の上では、これも一つの宗教形態としてあつかいますが、こういう霊の宗教を本来的健康な宗教と言うわけには参りません。否定的評価しか出てきません。
 その霊の宗教を否定する根拠は何でしょうか。霊の宗教なんてものは何にも意味がない、ご先祖を祭るなんて事はたいした意味はないんだと。それはただ、我々の幸せを守ってもらう為に霊を利用しているんだと。これは宗教の問題であるというよりも、むしろ現代人のものの考え方ではそういう霊なんてものは認められないということでしょう。こういう現代人の常識がですね、否定する根拠になっておるのです。では一体人間は死んだらどうなるのか。現代人の誰もが、暗黙の内に皆承知しているのは、死んだらお骨と灰になるということです。これだけは誰も否定できません。完全にお骨と灰になる。
 皆さんご存じのように、都会の方へ行きますと、もうお墓というものを手に入れる事ができなくなっておるんです。霊を祭るという考え方も、現在、だんだん力を無くしておるんですね。最近では、飛行機の上から散骨したりですね、あるいは船に乗っていって、海の上で散骨したり、自然から生まれたものは自然に帰るのが一番よろしいと、そういう事になっております。そうしますと、もうしばらくしますと、霊という考え方ももう無くなってくるでしょう。これは近代文化が発展するのと同じ速度でですね、霊の信仰というものが、おそらく根っこから崩壊していってしまうのではないかと思うんです。そうなってきますと、もうお墓もいらん。霊を慰めるためのお経もいらん。なんにもいらん。自然から生まれたものは、自然に帰ればいいんだと。一つの自然信仰ですね。
 我々が霊信仰というものを否定する根拠は何かというと、実は近代文明とともに我々の身についた近代的なこのようなものの考え方ですね。それが根拠になっておる。真宗者としての信心が根拠となっとるんではないですね。純粋な信仰の立場から霊信仰というのは、本当の意味の宗教とは言えないと言うのではなくて、むしろ、近代的な科学的常識のうえに立って言っとる。そういう事を我々が区別がつかなくなっておるんですね。
 もう一つ皆さん方と考えたいのは、我々の生命についてです。人間とは何か。それは生命だと。生命というものの秘密を解明しなければならない。人間とは何かという鍵は、生命が何であるかということを解明することにある。
 それで、皆さん御存じのように生命科学、あるいは、分子生物学というような方面から問題にされている生命がある。生命とは何か、人間とは何かということを解明する為に、最近は人ゲノムが全部解明ができるようなった。そしてさらに、神が人間を創ったと言うとったのに、人間が新しい新種の人間を創ることができる。いわゆるクローン人間、そこまできておるんですね。その事を法律で厳重に縛らないと危ない、というところまできておる。そういう事が、今、どんどん進んでおります。
 そして、あまり正確な知識がありませんから、独断になるかもしれませんが、簡単に極めて乱暴に言ってしまえばですね、我々が生命現象と言っておるのは、全部、物質運動に還元されるんだと。遺伝子の問題、DNAの問題、そういうものが皆、物質の運動に還元されてしまう。だから、我々が喜怒哀楽と言っても、結構なお話を聞いてありがとうと言って感動するのも、それは脳のどこかの中枢が刺激され、特定の分泌物がでてきて、その為に恍惚とした状態になるんだと。皆、物質運動なんだとなってくるとですね、結局、精神作用といっても、思想といっても、信仰といっても全部それは物質運動に還元されてしまう。こういう事になりますとですね、一体宗教とは何かと言う問いすら、無意味なことになります。それは、霊宗教、霊信仰というものを否定する一つのポイントでもありますね。

霊信仰を利用する肯定派  

 ところが、一方に於いて、この霊信仰を全面的に肯定していこうという、そういう動きが現在、特に、日本の現代に於いて、復活しつつあるということが、皆さんお感じのとおりであります。この間、森首相が、日本は天皇を中心にする神の国であると言いました。神の国とは、言葉を変えて言えば、霊です。多くの霊によて守られておる。しかも、天皇は、総ての霊を統括された最高の霊的存在である。神権的な天皇
制が象徴天皇制に替わりましたけれども、実際の効果というものはあまり変わっていないんです。天皇は、今でも霊の宗教のおおもとになっています。宮中には賢所と皇霊殿と神殿と三つの神々を祭る施設がありまして、天皇というのは、一年中、天皇家の代々の霊から、日本中の自然霊や民俗の霊を祭って、その霊力の加護によって国家の安泰と繁栄を祈られるというのが、天皇という宗教家の本務です。
 ですから、霊を肯定する人達は、国民が幸か不幸か善か悪かというようなことを、霊によってそれを決めようとしておる。ということは、その霊を肯定する人は、国民の中に定着しておる霊を支配の手段として利用しようする。象徴天皇制といっても、天皇自体は依然として霊の最高司祭であり、最高霊の体現者ですから、その天皇を国家ならびに国民統合の象徴とする日本国は、あの大嘗祭の折に露呈されたように未だに政教未分離の一種の宗教国家への志向を強く保持しているのです。死者を霊として国をあげて祭る事によって、生きておる者のあらゆうる不平や不満を、国のお陰であるといって、それを現実の体制に対する感謝に変えてゆく。そういう意味で、その霊を肯定的に利用しようというのは、民主政治から神制政治への移行傾向をしめすものです。最近、それが表面化してきて、政党の政治連盟というのが問題になってきてるんですね。
 霊を肯定する方も否定する方も両方とも、自分の立場を守るために霊を利用しておるんです。肯定する方は、自分の持っておる人間観、歴史観、世界観というものを正当化するために、それを守るために霊を肯定する。霊を否定する方は、自分の立っておる現代的な知性を中心にした科学的人生観、人間観を正当化するために霊を否定する。どちらにしても、霊というのはそういう役割を持っておるわけですね。
 それに対して、一体、仏教はどう言うのかですね。先程言いましたように、現在、仏教、仏教と言っておりながら、仏教と言っておるものが全部、霊の宗教になってしもうとるんです。お経は何のためにあげるかと言うと死者満足してくれるために、死者が満足すると生きておる者が幸福になる為に。だからお守り、日本の宗教は全部、一口で言うとお守りの宗教です。そのお守りのお陰によって毎日、幸福を確保することができるという感謝です。そういう事が日本人の宗教だと言う事になっておる。

霊の問題は人間の問題  

 先程も言いましたがね、霊というのは宗教の概念である。どうしてそういう霊の宗教しが存在するのかというと、それは結局、人間の問題なんですね。なぜ人間は霊の宗教を必要とするのか。また、なぜ人間は霊の存在を否定するのか。この人間とは何か。こういう事が最も大事な問題ですね。
 しかし、その人間と言う場合にはですね、人間一般というものはどこにもいないんです。それはただイメージとして概念としてあるので、具体的におるものはここにおる私のことです。これが具体的人間なんです。「おーい人間」と言っても誰も返事しません。「おーい和田」と言うと「おっ」と言います。現におるからです。しかし、具体的な人間というものが、いつも我々の問題意識の中から抜け落ちてしまっているんですね。「宗教とは何か」「霊とは何か」とかいう事を一生懸命議論しておるけれども、議論しておる自分が何かということが、いつも抜けてしまっておるんです。
 それで、もう一つだけ言いますと、人間というものはですね、我々がこれが人間だと言って定義できるようなものは人間ではないんです。割り切れない。矛盾に満ち満ちた、我々の価値基準で規定する事ができないものが人間です。人間というものは、こういうものだと思う事は自由ですけれども、それはそれぞれの思いであって人間ではない。我々は、自分の思い込んだイメージを人間だと思っとるだけです。そうでしょう。しかも、その思い込みというのは、我々自身の世界の中での思いこみなんです。これは厄介ですね。私が今、言っておるのは、真宗にたまたま遇うことによって、「あーそうだったか」とようやく眼が開けてきたと言いますかですね、うなずけてきたと言いますかですね、そういうところから言うているのです。人間という場合には、その人間がどういう世界を持っておるかという、世界が問題なんです。ということはね、私達がものを判断する場合には、自分の世界の中でしかできないんです。そうでしょう。この頃、十五歳やら十六歳やらの子供達が僕らの理解できないような事をやると、大人は解らんと言う。それは大人の世界の中で考えたら、解らんのです。我々はものを考える場合に、自分の世界の中でしか考える事はできない。要するに、我々が自分から自由になれないと言う事です。自分から解放されない。経済的な不平等から解放される。病気から解放される。政治的な束縛から解放される。そういう解放を我々は、今までずっとこの近代を一貫してやってきたんです。しかし、最大の問題は、私達を決定しておるのは自分自身であるということです。しかも、その自分自身というものが明確にならない。これが最後の問題ですよね。

先住民族は霊の信仰  

 そして今、ようやく近代が終わろうとしています。近代の終わりはひょっとすると、人間の全歴史の終わりかもしれん。次ぎに来る時代を予想することができません。こんな事は、人間の歴史始まって以来、はじめてのことです。我々が生きておる今がそのときです。今までは、古代の次ぎが中世、近世、近代、現代、こういうふうに歴史が変わってきてると思っておりますけれども、そういうふうに教えられた、しかも、このように歴史を発展史観として教えてきたのは、ヨーロッパ近代におきた一つの歴史観です。世界中が、そう思っとるわけではありません。古代から、どんどんどんどん進歩発展して、現在は発展のピークにあるんだという、こういう歴史観は少なくともインドにはありません。それから、多くの世界中の先住民族にもありません。これは近代ヨーロッパに発生した特定なローカル思想です。それが、大航海時代と産業革命の波によって、世界的に広がっていったので、それでこのような歴史観が真実であるかのように今思っていますけれども、実は世界では、こういう考え方によらない民
族がものすごく沢山おる。それは例えば、未開民族とか、先住民族とかと言われる人々です。
 考えてみますとですね、世界の先住民族と言われるような人達は、全部霊の信仰なんです。ハワイに行きますと、ハワイアンの人達が、天なる父、太陽なる父、それから、大地の母、すなわち、おてんとうさまと大地の恵みによって全てのものが創られ、天の神、地の神、霊と言ってもいいです。彼等の食べておるタロイモ、あれは主食です。その食べ物も又、同じく父なる神と母なる神によって創られた。だから、私とタロイモは兄弟だと。そういう生活感覚を持っております。そうしてみると、世界中の先住民族の人達の考え方をみますと、全部、霊の信仰なんです。私達は、その先住民族とか未開民族と言うと、これは、進歩に乗り遅れた野蛮な民族であって、我々よりも劣っている特殊な民族のように考えさせられてきたけれども、その人たちの宗教は世界中の先住民族を超えて共通する普遍的な信仰と言ってもいいんですね。

世界宗教が差別の根源になる  

 むしろですね、世界宗教、普遍宗教だと言われおる宗教が差別の根源になっておる。世界の戦争は、ほとんどがイスラム教とヒンズ教とか、イスラム教とユダヤ教とか、キリスト教とイスラム教とかの対立で起っている。自分達の宗教こそ普遍性を持っておるんだと言っておる世界的な宗教が、実は差別の根源になっておるんですね。宗教というものが、最大の差別です。なぜか。どの宗教も、私の宗教こそ真実だと言う場合に、必ず他を貶めるからです。自己を絶対化する。その時に、差別の宗教になります。キリスト教が、しばしば差別の根源になる。それは、キリスト教こそが唯一絶対の真実であると強調すればするほど、差別になります。真宗も一緒です。真宗こそ絶対の宗教だと言う事になれば、一つにはなれません。自己を絶対化すると言う事は教条化ですね。イデオロギィーになるんです。自己を絶対化すれば、必ず他は自分よりも劣ったものであると言う事になりますね。そういうところで僕らが常識的に身につけておる考え方と言うものが、逆転してしまうんですね。
 この頃、皆さんご存じか、山折哲雄という宗教評論家が、むしろ先住民族とか、未開民族とか言われる人達の宗教こそが実は、世界的に普遍性を持っておるのだ。それは、大きな自然に対する慎ましい敬虔感覚と、すべての存在を支えている生命源に対する深い感謝がある。しかも、それは個々の民族を超えるておると。それで、我々は世界宗教とか普遍宗教とか言っているものの性格を逆に考え直さなねばならんのではないかと。こういうことを言っていらっしゃいます。そういうことが問題にまでなっているんです。
 そうすると、一体真宗とは何でしょうかね。特に仏教とは。どうも仏教とはね、ヨーロッパの人達が考えておる宗教という概念に当てはまらないんです。彼等から見ると、仏教というのは、皆、無神論に見えます。神を認めない。そんな宗教は、宗教ではない。そういうのは近代になってから、ずっと今も問題になってますね。

青春時代にバイブルに感動  

 イエス・キリストの教えはいわゆるバイブルの四つの福音書という記録になって残っておりますね。マタイ福音書、マルコ福音書、ヨハネ福音書、ルカ福音書という四つの福音書。あれは、イエス・キリストがその時その時、臨機応変に具体的な問題をとおして、人々の要求に応えてゆかれた。生き生きとした言葉なんです。だから、私なんかはね、寺におってお釈迦様の教えを聞こうと思っても難しく、漢文で書いてあるからさっぱり解らんのですよ。それで青春時代にバイブルを盛んに読みました。そして、非常に感動しました。たくさん話しはあるんですけどね、その中で一番大きな問題は、人間に生まれたということは一体何だと。一体人間とは何だと。これが最大の問題でした。そうすると、昔から、あらゆる思想、あらゆる信仰が人間とは何かということを証明しょうとしておる。僕らは、人間が宗教というものを証明するんだと思っとるんです。そうではないんです。人間を証明するものを宗教と言うんでしょう。その場合の宗教というのは、教義とか教学とか教条ではありません。イエス・キリスト
には、神学というものはなかったんです。ただ、その時その時、人々の深い要求に応じて、生きる事の意味を語ってきたんです。
 バイブルを旧制中学校の三年の頃読んで、非常なショックを受けました。それは何かと言うと、私が大正五年に生まれてですね、それからずっとこの日本という特殊な社会の中で育って、文部省検定の特定教科書で授業を受けて、そしてそれがいつのまにか自分の常識になってしまっておいたのです。それを疑った事がない。人間とは一体何か。そういう事を私はバイブルによって初めて知らされたんです。
  イエスはユダヤ人ですね。だから、他の言葉は話せません。だから、イエスのお説教を聞いたのもユダヤ人だけです。だから当時は、イエスの言う事も、あれはユダヤ教の一派だと皆が思っとりました。ところが、そのイエスの言った事が、やがて民族を超えて広がってゆくんですね。一番先きに広がったのは、あのガリラヤの地方を当時、占領して軍政を引いておったローマの軍隊、そのローマ軍の兵隊が、イエスの言葉を聞いて、民族を超えて感動したんですね。パウロというイエス・キリストが亡くなった後のお弟子がいました。パウロはローマの市民権を持っておりましたから、ローマの言葉も自由に話せます。そのパウロの大伝導によって初めて、イエスの言ったことが、アフリカからイスパニア一帯まで、地中海を中にして世界宗教として広がっていったんです。
 そのパウロの書いた各教会にあてたパウロ書簡という手紙があります。その中の一節にですね、「私はこのことは人間としてはやってはならない事だと言う事を、日常生活の中でいくつか確かに知っておる。しかし、現実の色んな問題にぶつかるとついそれをしてしまう。それから、この事は人間としてしなければならん使命だという事を、頭では知っておるけれども実際には何一つ実行できない。私はなんと惨めな存在であろうか。」こういう事を言っておるんです。その言葉が十五、六歳の北陸の少年に強く響いてきました。そして、今まで私が自分の常識で考えておった人間というものが、まったくひっくり返ってしまったんです。

ペテロは激しく泣いた  

 もう一つ、確か最初の福音書にでてきたと思いますが、ペテロというイエスのお弟子の中で一番重んぜられていたお弟子がおるんですね。イエスが同じ仲間のユダヤ人から異端視されて、こんな者はユダヤの教えに反すると批判された。これをどうするか。ローマ提督のピラトというのがですね、お前達ユダヤ人の事はユダヤ人で決めろと責任逃れをした。それで、皆どうするかと言ったら、十字架にかけろ、十字架にかけろ、死刑にしろという声が大きくなって、とうとうイエスが死刑になる。それで、ゴルゴダの丘というところで、十字架にかけられる。で皆さん、ヨーロッパの絵などでご存じかと思いますが、イエスが自分が磔になるあの重い十字架をこう担いでですね。そして、これは人間の王様だそうだと言って、王様なら冠をかぶせてやろうと言って、イバラで編んだ冠をかぶせてゴルゴダの丘へ、引っ張ってゆくんですね。
 その時に、イエスはどうなるんだろうかと心配して、ペテロが群衆の中におったんです。誰かがペテロを見つけてですね、「あの男は、いつもイエスと一緒に行動を共にしておったイエスの仲間だ」と言った。そしたらペテロがですね、「とんでもない、私は、あんな男を知らない、私は全然関係ない」とこう言った。やがて列が進んでいって、丘の中腹ぐらいになった時、又、誰かが「あの男は、イエスの一味だ」と言った。同じようにペテロが「私は、あんな人と関係はありません」というような事を言った。ゴルゴダの丘の頂上近くに行った時に又、別の人が「あいつはイエスと一緒だ」言っ
た。同じく「わたしは関係ない」と三辺同じことを言った。その時に、夜がうっすらと明けてきて、コケコッコーと一番鶏が鳴いた。その一番鶏の声を聞いて、ペテロは「激しく泣いた」と書いてあるんです。バイブルはおもしろいですね、それだけです。なんの詳しい説明もありません。ただ「激しく泣いた」と。何故かと言いますと、実は前の晩に、イエスがペテロに向かって「あなたは、明日、一番鶏が鳴くまでに、私を三辺裏切るだろう」と言われた。その時は、「へんなことをおっしゃるなあ」と思って聞いておったのが、それが現実になった。私はイエスなんか知らないとまさしく三辺、イエスを否定した。その時一番鶏が鳴いた。「ペテロは激しく泣いた」と。その言葉が田舎の中学生の僕の魂に雷鳴のように響いたんです。
 それはなんだったんだろう。何故私は感動したのだろう。今まで、そういう人間観というものを聞いた事がなかったんです。人間というものは、悪い事をするな、善い事をしなさい。一生懸命頑張りなさい。そして、ますます立派になりなさい。そんな事ばっかり聞いておったんです。ところが、ペテロはですね、私はイエスを裏切ることなんか絶対ない、いのちにかけて信頼しておりますと、思い込んでおったんです。その思い込んでおった私がですね、現実の問題で自分の身に危険が降り掛かってきたその時に、一辺ならず三辺までも私はあんな男を知らないと言って、イエスを殺した。その時に「ペテロが激しく泣いた」と言うんです。ということは彼自身が、今まで思いもしなかった自分というものの正体に出会ったんでしょう。思いもしなかった自分というものの、全然今まで見えなかった正体が露呈したんです。その事に初めて眼がさめた。こういう意味があると思います。これは、多分仏教的な解釈ですけどね。眼がさめた。眼からウロコがおった。それと同時に「あなたは、明日一番鶏が鳴くまでに三辺私を裏切るだろう」と前もって言い当てた言葉にこめられたイエスの深い深い配慮と、そのような自分をどこどこまでも見捨てず、その目覚めを期待するという、おおきなイエスの愛を感じたにちがいない。大きなイエスの愛を感じつつ、それなればこそ一方に於いて、それに背きつづける自分を感じた。実に矛盾した事ですね。しかしその事が、人間というものがどういうものであるかという人間の構造、構造そのものを明らかにしておる。
 実は、それが信仰宗教の智慧というものです。宗教というのは、神様や仏様がはっきりとするのかと思うたら、実は自分というものの存在構造そのものが、根本から明らかになる。本当の自分に今、初めて出会ったという驚きですね。

日本人の宗教は利益信仰  

 宗教というと、日本人にとってはほとんどご利益信仰です。お正月になると、初参りに何千万という民族移動が起こります。「あなたは何をお願いしましたか」と言って、NHKがやってきて、ひとりひとり念入りに聞きます。そうすると、「家の息子が今年高校の試験の時だから、なんとか合格しますように」とお願いしましたと。「ああそうですか」と。誘導尋問みたいなことをやる。NHKというのは僕は、一番
始末におえんことをやっておると思うんです。全部、霊の信仰者に仕立て上げねば承知しないという、そういう事をやっておるんですよね。しかも、誰もそれを宗教問題だとは思ってない。だから、「激しく泣いた」というような感動はないんです。自分というものに遇うたことがない。そういう事ですね。
 我々は、我々はというのは真宗者は、親鸞の教えに立つ者は、霊の信仰を肯定もしません、否定もしません。ないとは言えません。何故か。その霊の宗教に依って、現に生きておる人がたくさんいらっしゃるんだからないとは言えない。そうでしょう。何千万という日本人を動因するだけのパワーを持っとるんですからね。それを、ないとは言えません。霊の宗教は、それに生きておる人のあるところに厳然としてある。これは否定すればよいというものではない。そんなことを軽々しく現代の科学的知識の上に立って否定したって意味がない。それなら肯定するのかと言ったら、肯定もしません。霊が守ってくれる幸福こそが、私が人間に生まれてきた所詮であり、その事で私は満足ですとはならないでしょう。

人間は自分を一歩も出れない存在  

 人間は、自分で自分を変革することもできないし、人を教育によって教化することもできない。今の総理大臣、危ないですね。教育に熱心な、あれは危ない。自分が教育される事は、全然考えてない。自分は、教育されるものではない。国民を教育してやろうと思ってるんです。とんでもない話しです。親鸞の立場に立ったら、人間が人間を教化することはできない。自分で自分を変革することもできない。そうするとね、こんな事は学校では教えられません。現代の教育の基盤が全く違うんですから。そうでしょう。勉強して、賢くなって、能力を伸ばして、そして、ますます理想に向かって進んでゆくのが人間だと。それが近代的な常識です。真宗は、まったくその常識と反対の事を言っておるんです。人間の歴史の全体の過程を見れば、無限に進歩、発展するなんて事は妄念妄想である。人間はこの世にでて已来、今日に至るまで自分の世界というものを一歩も出ることができない。だいたい僕らはね、自分で自分の世界を創ると言っているけれども、僕から言わすと、生まれた時から自分の世界を持って生まれてきたのではないですか。どうでしょうね。一卵生双生児の金さん銀さんであっても世界が違うんです。生まれてから違うようになったんではないんです。生まれた時から自分の世界を持って生まれてきたんです。そう言った方がいいですね。現代的に言うとどうなりますかね。遺伝子の中に刷り込まれておったと言うんですかね。ともかく、そういう一つの認識ですね。我々の存在そのものが、我々の知的理解で覆えるようなものではないんだと。その事実に眼を開く。

人間の弱さ愚かさに目が覚める  

 仏教というのは、幸福を与える宗教でもなければ、不幸を排除する宗教でもない。どちらかに頼らねばならない程、人間というものは弱い存在、愚かな存在であると言う事に目が覚める。覚める宗教、自覚の宗教です。だから北陸の真宗門徒の人は「ああ、眼が覚めた。眼からウロコが落ちた。」「どうや、夜明けができたか。お前の人生に夜明けがあったか」といつも、そういうことばっかり話し合っておりました。人
間というものは、本当の自分に目覚めるということが最大の問題である。しかも、その目覚め、一個の人間の目覚めは、一切のいのちを生きる全ての者の目覚めが信頼されない限り、自己の目覚めはないんだと言う事なんですね。
 それがこの頃また、真宗の側に立つ人が自分を絶対化し、真宗を絶対化して、正義派になって、自分意外のものは正義に反すると主張する。これこそが差別の宗教です。常に、そういう危ないものを持っておるんですね。その事に根っこから目覚める。目覚めるのは、自分で自分に目を覚ます事はできない。覚めたと思うことが、夢の中かもしれない。そんな経験がありませんか。オシッコがしたくてしたくて、おろおろしとるんだけれども、皆が見とってする所がない。やっとする所が見つかったと思って、やれやれと思って、ジョジョーと言って眼がさめた。覚めてみたら、ふとんが温かかった。覚めたと思うのが夢の中。我々は、そういうところにおるのではないのか。

真理は我々に呼びかけ、我々を問い続け、  

 我々を言い当て続ける働き

 この人間が本当に呼び覚まされる真理というのは、向こうに掲げておいて、それを目指して進むのではない。真理というのは働きなんです。我々に呼びかけ、我々を問い続け、我々を言い当て続けてくる働きを言うんですね。その生きて働く、働きに遇うことによって、初めて自分というものが知らされてくる。
 だから、親鸞は、浄土真宗に遇う事ができたと言うんです。わたしどもは、浄土真宗を理解できたと言うておるんです。とんでもないことです。私どもの理解の枠に入るようなもので、私が救われる事は絶対ない。浄土真宗は理解するか、しないかではなくて、遇うか、遇わないか。遇い難くして、今遇うことを得た。聞き難くして、すでに聞くことを得た。一体どうして遇いえたか、どうして聞きえたか。それは、真宗の教えに生きた人々の歴史があり、その何万、何十万という人々が、その教えを届けてくれたということでしょう。その永遠にして無限のはたらきを「アミダ」と申します。
 今、その浄土真宗を生きる者、いわゆる真宗者とは何かが問われていましょう。(終)

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