浄土真宗

平等の地平

 平等の地平  

    生を支えているものは
    死をも支えている

 人間が人間であることの特質は、「見る自分」と「見られる自分」に自己が分裂し、自分やものを対象化して二元的に見る存在であるということであろう。
 おそらく人間の前頭葉と側頭葉が異常に発達したことに起因しよう。
 日頃、小児科医として子供達に接していると、本来私たちは「見る自分」と「見られる自分」が今だ分裂してないひとつの世界、一元的世界に生まれあわせていることがよく分かる。喜びも悲しみも自己そのもの、いのちそのものである。
 しかし三歳ごろ、ひとつの自分は「見る自分」と「見られる自分」に分かれる。自我のめばえであるが、同時に苦悩の始まりでもある。
 人間は、ものを二元的に見るすることによって意識は引き裂かれ、自らが本来的に生きている一元的世界を見失い自らの思いに翻弄される存在となる。
 対象化によって二元的世界で苦悩する人間と、人間以外のものを同一に考えることはできない。人間には人間としての特質があり、別に論じなければならない問題がある。
 しかし今日は、人間と人間でないものとが存在する平等の地平を考えてみたいと思う。

 私は小さいころから、「もののあることの不可思議」に心を奪われてきた。
 そのことは 長年自分の心にしまったままであった。しかし最近、この根源的な問いをぬきにしては仏教は語れないと思われるようになって、機会あるごとに話題にしている。
 「もののああることの不可思議」へのこだわりは私の業かもしれない。
 ここで表現の都合上「ものがある」と言わざるをえなかったが、それは「もの」が実体として存在すると言っているのではない。
 存在する一切のものは、無自性、空である。無常であり、無我である。
 表現を変えれば、実体としてはないが、現象としてはあるということである。
 はたらきとして存在するといってもいい。
 あるいは縁起として存在すると言ってもいい。
 そういう意味で、ここで言う「もの」とは、「いのち」も「いのちでないもの」も含む存在のありようである。
 だから私にとって「もののあることの不可思議」は、「いのちの不可思議」と「いのちでないものの不思議」を含むもっと根源的な不思議である。
 何をもって「いのち」とみなすかは、なかなか難しい問題であるが、辞書には「いのちとは、人間や動物などが生きて活動するささえとなる、かけがえのない力」とある。
 この「いのち」の特徴は「自己保存」と「自己複製」のはたらきをもつと一般的に考えられている。だから「いのちでないもの」とは、「自己保存」と「自己複製」のはたらきを持たないものと考えておこう。
 「宇宙のあることの不可思議さ」は言うまでもないが、私には目の前にある「机」「グラス」「本」など、存在する一切が「ただ不可思議」としか言いようがない感覚が抜きさしがたいものとしてある。
この感覚はなかなかことばで表現しがたい。あえて言えば「ものがあるってこれ何?」「なくてもよかったのになぜあるの?」という、言うに言われぬ感覚である。この感覚はなかなか表現できなく、自らのなかに長年封印してきた。

 私たちは「物質」「もの」というと、「いのち」より一段下の何かどうでもいいようなものと考えてしまいがちであるが、存在する一切が「ただ不可思議」という感に打たれるたびに、そういうものの見方に何か違和感を覚える。
 本当にそうであろうか。そういうものの考え方に問題はないであろうか。それは私たちの偏見ではないのか。
 たとえば、私たちの身体は四大でできていると言われる。四大とは「地・水・火・風」である。現代的にみると「地」は「大地」、「水」は「水」、「火」は「太陽」「風」は「空気」である。「大地」「水」「太陽」「空気」は「物質」でしかない。しかしその「もの」でしかない「大地」「水」「太陽」「空気」は「いのちあるもの」にとっては必要不可欠なものである。そのどれ一つが欠けても「いのちあるもの」は生きていけない。
 「いのち」がはたらきをもつように「いのちでないもの」もはたらきを持つ。
 そして「いのちあるもの」は「いのちないもの」によって支えられているのが事実である。
 「いのち」が尊いのはもちろんである。しかし「いのちでないもの」も同様に尊いものではないだろうか。そう思えた時、「いのち」はさらに輝きをまさないだろうか。

 『唯信鈔文意』に、

仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちてまします。すなわち、一切群生界の心にみちたまへるなり。草木国土ことごとくみな成仏す、と説けり。

とある。

 微塵とは、微塵切りということばがあるように非常に微細なものということであり、群生とは、多くのものがむらがり生ずることである。
 仏の本性は如来であり、この如来は、非常に微細なものが集まった宇宙全体に満ちあふれている。すなわちすべての生きとし生けるもののこころに満ちている。だから、草木も国土もすべてが本来仏と成れるものであるというのである。(「草木国土悉皆成仏」)
 また、「有情非情同時成道」ということばもある。 有情とは、心の働きや感情を持つものという意味で生きているものをさす。
 非情とは、心の働きを持たないもの、草木・山川・土石などの精神作用のないものを言う。心の働きをもつものも、持たないものも成仏できるというのである。
 このように仏教には「草木国土悉皆成仏」「有情非情同時成道」という視点がある。
 「いのちあるもの」も「いのちのないもの」もとに一如から存在せしめられたものである。
 だからこうも言えよう。
 「いのち」を支えているものは「いのちでないもの」も支えている。「人間を支えているもの」は「他の動植物もささえている」と。
 
 私たち人間は、「生」に執着するがゆえに「死」を忌み嫌う。
 人間が精神的存在であり、「死ぬ自分」と「死ぬ自分を見ている自分」に引き裂かれた対自的存在であるがゆえに、人間には苦悩と悲しみがつきまとう。
 しかしながら、冷静に思いをめぐらせば、「生を支えているもの」は「死をも支えている」と言えよう。
 「生」も「死」も如来の表現である。
 人間死んだら火葬されて「灰」になる空しい存在であると言う。しかしそれに対して、藤原正遠先生は、「灰仏になるんですよ」と言われた。「灰」もまた成仏する。
 何と澄んだしかも温かいまなざしであろうか。さらに藤原先生は、猫は猫仏、犬は犬仏、木は木仏、石は石仏と一切のものを仏と仰がれた。
 まさしく「草木国土悉皆成仏」「有情非情同時成道」の的確な身近な表現であろう。

 「もののあることの不可思議さ」は、私にとって「宇宙のあることの不可思議さ」と同じであった。その事を知りたくて一時期、素粒子物理学の実験研究にかかわっていた。
 科学的研究は、その現象がどのようにしてそうなるのかという問いかけである。英語でい言えば「HOW」である。
 「HOW」は「HOW」で、知的な好奇心を駆り立てとてもエキサイティングである。今でも天文学、素粒子物理学や脳科学の本を読む。天文学や脳科学の進展は凄まじいいきおいである。ハッブル望遠鏡で宇宙の銀河などの写真を目にするにつけ、この時代に生まれ合わせたことの幸運を思う。

 私が長年抱いた「もののあることの不可思議さ」という感覚は必ずしも「HOW」ではなかった。
 なかなかことばで表現しがたいが、「ものはなくてもよかったのになぜある?」「ものがあるってこれ何?」という感覚である。
 英語で言えば「WHY(なぜ?)」あるいは「WHAT(何?)」であろうか。
 では「HOW」を積み重ねていけば「WHY」や「WHAT」に到達できるのだろうか。私はできないと思う。
 なぜなら「WHY」や「WHAT」は、存在せしめられていることへの不可思議であり、「HOW」は、存在せしめられているもののその有り様への問いであるから。問うている次元が違うと言っていい。
 「HOW」は知性の領域であり、分析、分別を手段とする。
 「WHY」や「WHAT」は分析、分別では答えられない丸ごとの問い、智慧の世界、無分別の世界の問題である。
 「WHY」や「WHAT」は、「不可思議」という問いであり同時に応答である。それはいのちを支えているものは、いのちでないものも支えている。
 人間を支えているものは、人間でない一切のものも支えている。生を支えるものは、死をも支えているとのなずきである。

 小さいころ抱いた「もののあることの不可思議」をたずねたずねてきて、今開かれた世界は、いのちといのちでないもの、人間と人間でないものとが重々無尽に織りなす、ひかり輝く平等の地平である。

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