如来に信ぜられ、如来に愛せらる
「如来に信ぜられ、如来に愛せらる」
「わたしには子がいる。わたしには財がある」と思って愚かなる者は悩む。 しかし、すでに自分が自分のものではない。 ましてどうして子が自分のものであろうか。 どうして財が自分のものであろうか。
これは「ウダーナヴァルガ(感興のことば)」の中にある、釈尊のことばです。
「自分が自分のものではない。」数ある釈尊のことばの中でも特にこころの琴線に響くことばです。
私たちは自分自分といって、あたかも自分は自分の所有物であるかのように生きています。髪の毛一本、自分でつくったものは何もないにもかかわらず、あたかも自分で自分を生み出したかのようにいのちを所有化して生きています。
この我愛と高慢さこそが、「生ききれない、死にきれない」私たちの苦悩の因でしょう。
「自分が自分のものではない。」このことばは、私たちの迷妄と錯覚をいっぺんに振り払うような鋭いことばです。
「自分が自分のものではない。」
「自分が自分のものではない。」
「自分が自分のものではない。」
そうです、私たちは因縁恵まれて存在せしめられているのです。
生も死も超越し、生死を貫いている大いなる力、大いなるはたらきがあればこそ、私たちは尊いいのちを賜って現に今、存在しています。これは動かしようのない根源的事実です。
『教行信証』行巻に「他力というは如来の本願力なり」とあります。親鸞聖人のことばです。他力、如来の本願力とは、私たちを存在せしめている自然(じねん)なる大いなる力です。その如来の本願力によって、私たちは皆、絶対的に受容されてこの世に生まれてきました。
如来に信ぜられ、 如来に敬せられ、 如来に愛せらる、 かくて我々は、 如来を信ずることを得る
と曽我量深先生は言われました。わたしたちは、如来に信ぜられ、如来に敬せられ、如来に愛せらて誕生したのです。その如来の心こそが大慈悲心です。
「仏心とは大慈悲是れなり(『観無量寿経』)」
『大無量寿経』の讃仏偈には、法蔵菩薩の衷心からなる願が表明されています。
「一切恐懼 為作大安」(一切の恐れおののいて生きているもののためにおおきな安らぎをとどけたい)
この言葉に初めて触れた時、私は身の震えるような感動を覚えました。
親鸞聖人の正像末和讃の「如来の作願をたづぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」ということばを思うたびにこころをうたれます。
藤原正遠先生は「私たちはこれから救われるのでなく、救われて生まれてきたんでしょう」と言われました。私たちは皆、如来に絶対的に受容されて生まれてきました。私たちは、如来に愛せられて如来まします世界に生まれて来ました。
そして現に今も、如来に絶対的に受容され、種々にその大いなるはたらきをこうむってその大悲の中を生かされています。そのことを『教行信証』証巻には「弥陀如来は、如より来生して報・応・化種々の身を示現したもう」とあります。森羅万象、仏の姿なきところなしです。
『教行信証』信巻には「大慈悲は是れ仏道の正因なるが故に」とあります。
曽我先生は「仏から信ぜられている――絶対に――何もかも承知の上で信ぜられている、このことが一番大切で、本願だの念仏だの、その後の問題です。仏から信ぜられているということが信ぜられないのを難信と申します」と言われました。如来の大慈悲への感動と感謝なくして語られる仏法は、単なる観念の操作に終わるということでしょう。
思えば、『教行信証』教巻は、如来の大慈悲心の表明であります。
「弥陀、誓いを超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れみて、選んで功徳の宝を施することをいたす。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群盲をすくい、恵むに真実の利をもってせんと欲してなり。」
我執におぼれ、生ききれない、死にきれないと苦悩している愚かで哀れなわたしに、弥陀と釈迦の大慈悲心なくして仏法がとどく手だてはありませんでした。
ただ念仏して、あるがままを受け取って一切を法界に流す。
南無阿弥陀仏。
2007,4