浄土真宗

藤場常清

「 首里城からの出発 」  

                            2006年(平成18年)3月12日
                            講師:藤場常清(石川県石川郡野々市町) 


はじめまして   

 ただ今ご紹介頂きました藤場でございます。
 思いがけず、志慶眞先生より、話をせよと仰せつかりまして、深い感動をもってこの場に立ちました。
 何分にも、突然の仰せでございますので、考えもまとまらないまま、思い付くままに少しばかり何か述べさせて頂きます。

六十一年前、ソ満国境から沖縄へ  

 今から六十一年前になりますが、先の第二次世界大戦の時、私は首里城下におりました。  
 それまでは、中国東北部(ソ満国境)におりましたが、サイパン島が玉砕しましたので、 サイパン島を奪回する為の部隊に選ばれて、一九四四(昭和十九)年六月中旬、釜山港を出発したのです。  
 連隊での本職は、無線通信で部隊の神経の中枢を扱う役目をしていましたから、戦況の様子もよく分かりました。ですから、内心では、玉砕した島を取り返すなんて云うことは 出来ないと思って釜山港より出発しました。  
 米軍の主力は沖縄を占領して、本土と南方を遮断する戦略を取ると云う情報が入りました。それで、六月の暑い時でしたが、那覇港から沖縄に上陸するように命令が変わったのです。
 それまでいた、ソ満国境は六月と云えども温暖でしのぎ易い気候でしたので、那覇港に上陸した途端、その暑さに兵隊さんが次々と熱射病で倒れるのには驚いてしまいました。  
 私達の連隊本部は首里城にあったのですが、その城の下に陣地を構築すると云うことになり、近くの西浦小学校の校舎に陣地構築まで厄介になりました。  
 私は将校でしたので、兵隊さんとは別に、宮城康太郎さんと云う酒屋さんの家に泊ることになりました。 宮城さんの家に、勉さんとおっしやる私と同じ年代の息子さんがおられ、その息子さんも戦争に行っていると云うことでした。そんなことで、宮城さんのご主人は、息子の代りだとおっしやって私を非常に可愛がって下さいました。  
 米軍が、十月八日に沖縄に上陸すると云う情報を聞いておりましたが、その時までには まだ地下壕が完成しそうにもないので、非常に気にしておりました。 ところが、情報だけで米軍は来なかったのです。これがやはり戦術とでも云うのでしょうか、構えておったら来なかった。ホッとしてまた陣地構築の仕事を始めました。 油断していたら二日後の十日に来たのですよ。 朝の七時から夕方の五時まで、那覇市一帯が爆撃でやられました。  
 那覇港の半島に「波の上神社」と云う神社があり、そこに第一大隊本部がありましたが、爆撃のため電話線が寸断されてしまい無線を配置しないと連絡が取れません。そこで、無 線一個分隊を連れて大隊本部まで行くことになりました。その時、私は初めて爆撃の下をくぐる経験をしたのです。  
 那覇市街は爆撃で破壊され、あちこちで火災が起き、その中を死傷者が運ばれて行くと云う悲惨な状況も私は初めてこの目で見、身振るいしました。  
 民間の人は、身を隠すために掘った穴へ逃げ込むのですが爆弾が落ちますとですね、身 体が半分にちぎれる人もいるんです。また、手や足の吹き飛んでいる人、そのような姿で死んでいる人を初めて見てね、言葉には現わせない悲惨さでした。

玉砕命令  

 五日後の十月十五日、「軍司令官の命令伝達があるから、将校命令受領に出頭せよ」と云うことで、私が命令を受領に行きました。  
 それは「玉砕宣告」と云う命令でした。命令を聞いたとたん私の胸はドキンとしました。  
 その玉砕命令と云うのは、「一人で米兵を五人倒して、後は全員決死の覚悟で最後まで戦え」と、云う命令です。  
 本土とは既に遮断されている状況ですから、弾薬や食糧は手持ちの分だけで補給の見込 は一切ないのですから、後は、鉢巻きをして突っ込むより方法はないのです。これは、死の宣告と同じです。  命令を受領して帰る時、天皇陛下の菊の紋章の入ったタバコと日本酒を数本もらって帰 りました。中隊に帰って命令を伝達し、最後に酒を分け合い、タバコを一本づつもらってのんだことを覚えております。  
 おかしな心理状態になるもので、戦争に行っても自分だけは死なないと思うものです。そうでないと、戦争なんかできないと思います。しかし、今度だけは、そうは思いませんでした。と、云うのは、回りは海ですから軍艦に囲まれてやられたら絶対に勝つ見込はないからです。「ああ、これで最後かなあ」と、思いました。  
 今となっては笑い話しのようですが、切腹をする講習も受けたのです。 しかし、とても軍刀で切腹できるような根性はないので、最後はピストルで一発バーン とでもやって死ぬか、さもなければ、最後の連絡を果たして、敵の中へ突っ込んで血を流して死ぬことだろうと想像しておりました。   私は、一日の仕事も済み夕暮れになると、よく首里城に登り、そこで一人涙を流していた記憶があります。  
 あの辺り一帯、今は立派な城もでき観光地になりたくさん樹も植えてありますが、当時は、古い守礼門と本殿があり、一部分古い建物があっただけで辺りは大変広かったような感じがしています。 そこには、「尚王家」の最後のお方と云われる、おばあ様がおいでたのですが、めったに会うことはありませんでした。私はたった一度でしたが、遠くから拝見することができ ました。  
 首里城には、首里高等女学校、県立の工業学校、師範学校と三つもの高等教育の場があ ったのです。  それらの学校の生徒さん達も、上級生は授業はしなくて皆戦争協力に駆り出されていたのです。後に、(ひめゆり学徒隊)に参加した生徒さん達も私達の陣地を作る手伝いに駆 り出されていました。可愛いらしいとしか言いようのないモンペ姿でスコップを持ち、労 働をしていた姿が今も目の前に浮かんでくるわけです。

二つの願い  

 玉砕宣告を受けて、私は生れて初めて『死ぬ』と云うことを考えるようになりました。 そうして、仕事を済ませて夕方また首里城へ上がって眺めると、真っ赤な夕日がケラマ群 島の向こうへと沈んでゆくのです。夕日が沈むと辺りが夕闇に包まれてしまいます。そう するともう自分のおり場所がなくなり、言うに言えない寂しさが押し寄せてくるのでした。  
 そんな時、決まって目の前に浮かんでくるのは母親のことでした。  
 父は四十二才、私の二十才の時に亡くなったので、母は残された四人の子育てと、二人 の年寄りの面倒を見なけれぱならないことになり、大変な苦労をしたわけです。  
 私の生家は後に寺とはなりましたが、当時は下寺という道場でしたので布施も少なく、それに頼って衣食住をまかなえる状態ではありませんでした。それで、母は年寄り二人と 協力して養蚕や糸紡ぎ、それに雑穀などを作って生計の足しにしていたのですが、なかなかやり繰りが大変だったわけです。そんな母の姿を見ながらも、当時は何一つ深く感じることもなく親孝行などはした覚えがなかったばかりか、親不幸ばかりしておりました。  
 そんな私ではありましたが、玉砕命令を受け、初めて死を意識した時に浮かんできたの は、おっ母さんのことでした。その時思ったことは、帰れるものなら、もう一度故郷の我 が家へ帰り、おっ母さんの前に手を付いて「おっ母さん、長い間ありがとうございました」 と、お礼を言いたかったんですが、本土への通信はもう既にできず、夢にも母に会うことのできない状態に追込まれていました。  首里城に上がる度に思ったことは、万に一つ命があったら、成しとげたい願いが二つあったのです。  
 それは、親鸞様の教えて下さってある(信心を頂き)自分の死ということを解決したいと云う願い。もう一つは、おっ母さんに孝行をしたいと強く思いました。  
 しかし、玉砕ですから、もう可能性がありません。望みはないのです。ないと分かると 尚更胸が痛みました。
 

感激・感謝、宿縁の地沖縄に再び  

 その首里城。かって涙を流した場所に昨日立つことができました。  奇跡としか言いようがなく、感無量でした。ただ(ナムアミダ仏・ナムアミダ仏)と、念仏が申されてきて、再び首里城で熱い涙が溢 れ出てきました。     
 一度は玉砕をしなければならない戦場にいた私が、今、こうして皆さんとお会いできたことは、本当に奇跡としか言いようがないのです。     
 と、言いますのは、実は、米軍が沖縄に上陸するという直前になって、今度は台湾に上 陸するのだという情報を上部が聞いたわけです。それで急速、私の所属していた連隊を含む一部分が貨物船で台湾守備のために輸送されたのです。ところが米軍は、私達が台湾に輸送された直後に、やはり沖縄に上陸したわけです。 と、いうことで、私は、あのすさまじい沖縄玉砕の最後には台湾におり、そこで、終戦 を迎え、その年の十二月無事故郷へ帰ることができたのです。
 私が、お釈迦様の教えに遇いたい、親鸞様の教えに出遇わせて頂きたい、という大きな発心というか、そういう心を起こして下さった起点が沖縄です。首里城です。だから、涙 を流しながら、ナムアミダ仏ナムアミダ仏と手が合わされたご縁の地がこの沖縄なんです。    
 その場所に、昨日再び立たせて頂き、『仏様、有難うございました』と、あらためて手 を合わさせて頂くことのできた感激は今日も続いております。  
 此の度は、江野さんご夫婦のお陰様で、杖も必要とせず連れて来て頂きましたが、私も、 もう八十八才になりましたから、これで沖縄には二度と来られないと思います。  
 こうして、志慶眞先生ご夫妻や皆様方にお会いすることが出来、本当に、『仏様ありがとう』でございます。
 沖縄の方は、皆さんご先祖様を大切になさり、お墓も立派なものがん見られました。私 達の連隊は、その立派なお墓を機関銃の陣地に使う計画でおったのです。  
 ただ、当時沖縄には宗教としての仏教の姿はあまり感じられませんでしたが、こんなこと等いろいろな経験を踏まえていまして、たまたま最近になり、江野さんや息子夫婦から初めて志慶眞先生のことをお聞きしたわけです。  
 そうして、強く感じましたことは、「ああ、沖縄にも仏法の華が開いたのだ」と云う感謝 感激の思いでした。その仏法の華、浄土真宗の功徳に引き寄せられ、感謝の思いに押し出 されて、今度老骨を引っ提げて六十年振りに私のお念仏の故郷に来ることができました。
 今、皆さんの中で咲いたお念仏の華は、他力自然に実を結ばせて頂くのですね。こんな 尊いところに今来て仲間入りをさせて頂くことができました。  
 本当にありがとう。本当にありがとう。それしかありません。  

ただ、念仏への歩み   

 私は、家庭の事情もあって、仏教を学ぶ大学を卒業することは出来なかったのです。  
 また、将来坊さんになるつもりもなかったのですが、首里城に立って死を考えさせられ たご縁によって、いつの間にか、仏教で説く一番大事なことは何か、ということを学ぶ切っ掛けになったのです。
 私の先生から学んだのですが、仏教で一番大事なこと、これを第一義諦と言います。 特に、聖道門である禅宗の方ではやかましく言うそうです。
 浄土門の方では、このことを『ただ念仏』と言います。
 到達点は『ただ念仏・ただ念仏』これがお釈迦様の説かれた根本義、第一義諦であり、 浄土真宗なのです。  
 浄土真宗には現在八派がありますけれども、最後に帰着するところは、『ただ念仏』であるのです。よく、他力、自力と言いますけれども、浄土真宗は絶対他力でその反対を自力と言いますね。その自力を、とことんやるのが聖道門であり、禅宗なんかもそうですね。
 幸い私は、(長谷川真龍先生)と言いまして聖道門の禅寺、永平寺で修行をなされた方ですが、どうしてもその修行の結果に納得がいかず、とうとう弥陀の本願念仏に深く帰依な さっていられた方でした、そんな方にも不思議なご縁で学ぱせて頂き、聖道門、浄土門の区別なく、仏教というものの根本を縦にスーと教えて頂きました。  
 先生は常におっしやっていました。
 『仏教は、聖道門を極め尽くして初めて浄土門に入ることができるのですよ。だからこそ、七高僧の説や、法然さん親鸞さんの説に真実があるのですよ』と。  
 また、先生は、
 『聖道門で、なぜあのような厳しい修行をさせるのかと云うと、人間は自分の力で仏になれると思うのです。自力ですね。自我ですね。これを降参させるためです。降伏と言って もいいです。無条件になるまで降伏させるために修行をさせるのです。  
 人間は、それを言葉で教えても降参しないので、禅宗では修行と云う行動を通して、その事を気付かせるのですよ』と。  
 私は修行などなんにもしていないくせに、早く仏法が分かりたくて焦るものですから、そんな私に先生は、
 『まあまあ、そんなに慌てなくても、仏法の真髄は(ただ、念仏である)と云うことに、 そのうち気が付きますよ』と、このような調子のお付き合いが続いていました。  
 また、  
 修行を積んでも経典をどれだけ字んでも頭の下がることはないのです。ところが、親鸞 聖人というお方は、一字も読めないような田舎のおばあちゃんやおじいちゃんを、ムシロの上であぐらをかいたまま法話をすることにより目覚めさせたのだと知ることによって、 凄いお方だと感じ、即座に真宗に依ったのだと申しておられました。  
 だから、いろいろな都合もあって私の姿は禅僧に似ていますが、心の中は浄土門に帰依 しているのだとおっしゃられていました。  
 当時、禅僧の方が『ただ、念仏です。これしかないんですよ』と、説かれたのが、非常に印象深い言葉と聞こえ不思議にも思えたのです。  
 ところがね、なかなかそうはなれないのですね。そうでしょう、人間には(我)という厄介なものがあって、どこまでも理屈をこね、自分が合点しなければ「うん」とはいえないのですよ。先生の元でお話しを聞いている時は分かるような気がするのですが、家に帰ると 元の木阿弥になってしまい、仏法が生活と結びつかない。教えは教え、生活は生活、というように完全に離れているんです。仏法がどうしても身体にくっ付いてこないから、何も分からないのです。

 その後、いろいろな疑問を抱えながら、先輩様のおじいさんやおぱあさん達とのお付き合いをしていると、(ああこの方達、仏法を身体で受け取られ、納得なさっているのだ)と いうことが、少しずつ感じられるようになってきたのです。  
 優しい言葉で言えば、  
 (ああ、そうか、そうだったのか)と、事実を受け止めて生活をされている先輩様の姿に出遇い、私の思い、分別が百八十度転換されていく世界のあることが分かったのです。  
 仏法では、この転換を「廻心ということ、ただひとたびあるべし」と、大変大事にするところです。
 最初、何でも分かって覚えようとすると、大先輩であります、高光かち代先生は、『藤場さん、またすぐ勉強して覚えようとしていますね』と、笑いながらたしなめられた 記憶も忘れられません。  私は、学校の先生をしていましたので、その癖がなかなか抜けないのです。だから、聞 いて覚えて、分かればどうかなれると思ってしまうのです。また、頑張りさえすれば分かってどうかなれると思うのですが、いくら頑張ってみても頑張ってみても「ああそうか、 そうだったのか」というようなことにはなれないので苦悩しなければならない。  
 その内、チャランポランとしていて、仏教などなんの関心も無さそうな家内の方が、私を飛び越えて仏法に感動し出してきたので、私もいささか慌てました。  
 こんな苦悩を抱えながら、三十年余り長谷川先生にお育てを頂き、不思議な不思議な教 えをお聞きしている内に、お釈迦様の説法には、禅宗とか真言宗とか浄土真宗とかいう区 別のあるはずのないことが、だんだん私にも頷かれるようになってきたのです。
 と、言いますのは、どの方便から入ったとしても、行き付くところは(弥陀の本願を信 じ念仏申す)以外にはないことが、私の中にも徐々に明かになってきたのです。  
 私達は、(ああなりたい、こうなりたい。ああなったら、こうなったら)の妄念を追って 夢ばかり見ております。こんな妄念妄想では、『ああそうか、そうだったのか』の転換は 無理のようですが、このことは、とても大事なことなのです。  
 人生の中で思いがけない事に出会い、当てが外れていき詰まる。その時が仏法に出遇えるチャンスです。そのチャンスを逃がさず本当の教えに出遇ってはしいんです。そんな時 新興宗教のさそいに乗ったら大変なんですが、乗り易いのです。  
 本当のよき師に出遇って真実の教えが頷けた時、『ああ、そうか、そうだったのか。大きな思い違いをして今まで生きておった』と、その時、妄念妄想の苦しみが破られ、現実に足を着けて生きていけるのですが、これを私は自分の分別で分かろう分かろうとしていても分かるはずがなかったのです。  
 現実に目が覚めると、『ああそうか、そうだったのか』と、自分の人生を有りのまま受 け止めて生きてゆけるのです。そうすると、今までなかった智慧も湧き生活の工夫もでき るのです。  
 親鸞様は、二十九才の時に法然様にお遇いして廻心されています。そうして、親鸞様は、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界はよろずのこと、みなもってそらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」と、歎異抄の中に、唯円 様が聞かれたお言葉として残して下さってあります。  
 「火宅無常の世界」というお言葉に出遇った時、私は、経験した戦争のむごたらしさのことが思い浮かびました。
 「よろずのこと、みなもってそらごとたわごとまことあることなきに」のお言葉から、上官の命令は、神である天皇陛下の命令だと信じ切って、人間と人間とが悲惨な殺し合いをすることを正当化していた愚かさを思い出したのです。
 死後、浄土に生れることを「往生成仏」と言います。親鸞様の説かれた往生は「往生浄 土」ですから、死んでからのことでなくて、『今、浄土往生』の道にをたせて頂くことですからね。人間には「往生」が二度あることになるのです。
 妄念妄想で生きている人間に、往生浄土の道を、今、明かにさせて下さった不思議なは たらきが阿弥陀さんの本願力です。
 妄念妄想に徹底して思い悩みながら、仏法を聴聞していけば必ず阿弥陀さんの方から転 換の廻心をさせて頂けるのです。

高光かち代先生  

 私は、この方こそはと思うお年寄りに出遇う度に、色々とご信心の話しを聞かせて頂き に行きました。その中の一人に高光かち代さんと云われる方で、お寺の坊守さんがいらっしやいました。もう既に亡くなられましたが、この方の処へは始終お伺いしてお話しを聞 かせてもらいました。
 ある時のことでした。お茶の入っている湯飲み茶碗を指さされて『藤場さん、この湯飲み茶碗の中へ、このやかんのお茶を入れてごらんなさい』と、おっしやるのです。私は不思議なことをおっしやると思いながら、
 (先生、こんな一杯人っているところへお茶は入りませんよ)と、言ったら、先生は、
 『だから、入れてごらんなさいよ』と。     
 (先生、そんなこと出来ません)     
 『考えたらわかるでしょう』と。      
 私は、いくら考えても分からなかったのです。すると先生は、     
 『先に入っている茶を、ここへ捨てたら新しいお茶が入るでしょう。学問やら、常識やら 覚えたことなど、なんやかやと一杯入っていると仏法は入らないのですよ』と。      
 このお言葉は、私の状態を言い当てて下さっているのですが、それが、また、なかなか納得できなくて、先生から聞いた言葉を、また、覚えてどうかなろうとするんですね。      
 聞いて覚えたことや、自分なりに分かったことは、なかなか捨てられないものですよ。 これを、執着とでも言うんでしょうかね。      
 また、ある時私が、     
 (仏様に遇いたいと思うのですが、なかなか遇えないのです)と、申しましたら、     
 『そうですか、本当に仏様に遇いたいですか、そんなら遇わせてあげますよ』と、かち代 先生は、自分の茶碗のお茶を飲まれて空っぽにされ、   
 『この中に仏さんがおいでるから、仏さんに遇えたら私の処へ言うてきなさい』と、言われて、知らーん顔をして境内へ草取りに行ってしまうわけです。  
 私は帰るわけにもいきませんし、こんな茶飲み茶碗のどこに仏さんがおられるか分からない、ほとほと困りました。そのまま、ほって置かれるのですよ。どれだけ考えても分かりませんので、(先生分かりませんよ)と、申しに行きましたら、『ああ、そうですか』と、草取りを止めて部屋に入って来られて、いろいろ聞かせて頂いたのです。
 その時、こう聞かれたのです。
 『この茶碗の中で、一番仕事をしているところはどこですか』と。
 そこで私は、陶器のところをあちこち指さして(ここですね)と、答えると、
 『ああ、そこが仕事をしますか、そうですか、そうですか』と、不満そうな顔をするばかりで『そうですよ』とはおっしゃらないのですね。
 そこで私は(やはり底がないと座っとらんから、ここですかね)と、言い変えるのです。 『ありゃー、それじゃないんですよ。茶碗にとって一番仕事をするところはどこですか、 それが見付かれば、そこが仏様のはたらきをするところですよ』と、言われるのです。 私は(ここでないですか?あこでないですか?)と、いろいろ答えたのですが、どうしても 『そうですよ』と、いう答えが頂けないのです。
 とうとう降参してしまい(先生、分かりません。教えて下さい)と、たのみましても、答えは言われないで、あれこれたくさん言わされるのですよ。
 最後に先生は、茶碗の中の空っぽのところを指さして、
 『ここがなければ、茶も酒も入りませんよ。ここが茶碗の一番大事ところ、一番はたらく ところですよ。確かにそうですよ。分かりますか。この事が大事ですよ』と。続けて、
 『あなたの身体は茶碗の陶器のところです。中は仏様の入るところです。これが分からなければ仏法の話しは分かりませんからね』と、おっしゃるのです。
 その後、禅僧である長谷川先生の教えと照し合わせてみて、 (ああ、かち代先生のあの 時の茶碗の空っぽのお話しは、般若心経に説かれてある【空】ということを気付かせるた めのことでったのだなあ)と、自分なりに納得したようなわけです。
 沖縄で頂いた死の覚悟の経験より発した、私の仏教に対する関心はこのようにして、その後、七十年の人生の大きな課題となったのです。そうして、今でも、むたむたとしてい ますが、その間に、お念仏の姿のおじいちゃんやおばあちゃんに多くお遇いできました。 また、忘れられない素晴らしい先生方にもご縁を頂きましたが、その殆どはもう既にお浄 土に還られました。

長谷川 真龍先生との出遇い   

 仏法を問くご縁の中で、本当に長い間ご縁を頂いて導いて下さった師匠様が、禅僧の長谷川先生と申すお方でした。
 最初は、禅僧でありながら、阿弥陀さんの本願念仏に帰依なさり、親鸞様を尊敬なさっている、とても不思議な方だと思っていましたが、お話を伺っている間に、そのような疑問も融けてきたのです。
 その思い出は尽きることかありませんが、思い出すままに、とりとめもなく話させて頂 きます。
 長谷川先生に初めて出遇いましたのは一九五三(昭和二八)年十月、托鉢僧のお姿をした 旅僧の方が、一夜の宿を請われてお泊めしたのがご縁でした。
 禅宗だとおっしやるのに、托鉢僧、それに髪を長く伸ばしていられるので、なんとも不思議な方だっのです。
 先生のお話しによると、白山山麓には浄土真宗のお寺は多いいんですけれども禅宗やと 言うと、何処も泊めて下さらないんですよ。それで困っておりましたら、郵便局長さんが、 桑島の藤場さんの寺、常讃寺へ行けば誰でも泊めてくれるから行ってみたら、と云うことで、私の寺へ来られたそうです。
 托鉢僧の姿をした方が玄関にパッと来られ、目の前に立たれた姿が、大きな岩に何か線が繋がっているような感じがし、(今まで泊めた方とは、この方ちょっと違うぞ)と、思ってね、家内と(ちょっと違う感じのお方やなあ)と、話していたのです。  お泊めした最初の晩、先生は突然幽霊の話を事細かに始めたんですよ。  
 幽霊は化け物のように思っているでしょうが、あれは、そうでなはなくて自分の内心を 現わしているんです。私も貴方も心の中は妄念妄想です。これが幽霊なんですね。
 五十年前のお話を今思うと、こんな事を具体的に具体的に教えて下さったのです。
 毎晩、十二時頃まで、私が聞いたこともないような仏法の詳しい話を、熱心に語り続けて帰っていかれました。
 三泊四日いらっしやったのですが、家内は気持ち悪がってあまり出て来なかったのですが、後年、家内は、私以上に先生をお慕いし育てられたように見えます。
 先生が亡くなられて十年になりますが、家内は在りし日の会話の録音テープを今も枕元から離さず、暇さえあれば涙を流しながら関いております。
 それでもその当時私は、この方を師匠として仏法を聞いていきたいと云う心は起きませんでした。ところが、それから数年して(隣の勝山市に講演に来ましたので)と云うことで、上り下りの峠を超えて、十五キロ余りの道のりを歩いて(どうしておいでますか)と、 私の所へひょっこり見えられたのです。私はびっくりしました。
 上がって頂き、いろいろ話を伺っている内に、私のことを心配して来て下さったのだということがおぽろげながらも分かってきたのです。それから心が引かれまして、この先生に聞いてゆこうと心が決まったのですよ。   
 その頃、私は未だ学校に勤めていましたから、土曜日曜や春や夏の休みに暇を見付けて先生の自坊へおじやますることの繰り返しでした。
 その頃は車もありませんから、白山の山奥から金沢駅まで出て、電車に乗り、木之本で下り、タクシーに乗って磯野の先生の寺へ尋ねて行ったのです。先生は六十五・六才でしょうか、私は四十才過ぎの頃でした。
 初めてお伺いした時は、又、驚いてしまったのです。
 寺と云いましても、大きな古い民家そのままで、本堂も庫裏も区別もつかない建物でした。経済状態も厳しいようにお見かけしたのです。およそ文化的な物とは縁遠く、古いテレビと電話、ガスこんろ以外は昔のまま、そんな生活の中で、お世話をして下さるご婦人と二人、悠々と心豊かな暮らしをなさっていられました。
 先生は、自分の人生はあまり語りませんでしたが、お話の端々から察するに、そうとう 波乱万丈の人生のようでした。若い頃は、思想的にも当局に目を付けられて一切を無くしたと、笑いながらおっしやってもいました。  
 私が尋ねて行きますと、外に待っていて下さって、まるで我が子が尋ねて来たかのように喜ばれて招じ入れて下さいました。
 私は、入り口で手を付いて、
 『どうか、これから教えて下さい』と、お願いしました。
そうしたら先生は、
 『あなたの師匠になると云うことは出来ませんけれども、二人で仏様を探し当てると云うことならできるかも分かりませんね』と、おっしゃられたのを覚えています。
 座敷謙本堂の、はだか電球の下、机をはさんで、私には座布団を敷いて下さったのですが、何故か先生は座布団無しでした。
 最初の頃はいつも私一人でお伺いしました。一・二泊させて頂いたのですが、その間殆ど世間話はしません、食事の最中も茶碗をもったまま、あきもせず仏法の話ばかりでした。 私は、それを聞きながら、一生懸命にノートを取っていたのです。
 後年、家内と二人車でお伺いするようになった時、よく家内に言われました。
 『おじいちゃん、ちょっとその、ノートとペンを離して聞いたらどうや』と。
 それでも、どうしたことか、ノートは離すことが出来ない私でした。  
 度々お伺いして、段々話を進めてゆくんですが、先生は、
 『分かることも大切です。覚えることも無駄ではありませんが、やはり、ご本願が凡夫の の身に成就することが大事ですよ。初めは、仏教を間いて、覚えて、分かって、自分がどうかなって助かろうと思うんですよ。親鸞様も聖道門の人も、あらゆる人が皆このコース をたどるのですよ』と、おっしゃるのです。
 先生の持論は、『聖道門と浄土門は別々の道ではないのです。聖道門を極め尽くすと必ず浄土門に入るの です。浄土門に入れないような聖道門なら邪道であり邪禅ですよ。だから権化の方便だと 親鸞さんは説かれてありますね。あれですよ』でした。
 また、『科学や共産党の前にペッシヤンコになって、自信喪失するような仏教なら、金剛堅固とは言えないですよ。(そうか、そうか、科学もやっとそこまで来たか)と、特に、宗教を否定している共産思想の人達に頷かせることのできるような、確かな根拠を持った仏教でなければ社会に貢献できませんよ』とも常々おっしやっていました。
 四十年余りご指導を頂いた中で、業力自然の娑婆世界のこと、その中の宇宙のこと、科学的なこと、政治のこと、思想のことなどなど、また、願力自然の不思議な本願の世界のこと等、本当に沢山なことを教えて頂きました。
 そんなお話の中には、こんな事がどうして南無阿弥陀仏と関係があるのだろうかと、その真意はなかなか理解することはできず、時々いらいらして聞いていた事もありました。
 それでも、今になって(ああそうか、そういうことだったのか)と、少しずつ頷かせて頂いておるような始末です。
 ある時のことです。先生が私に、
 『ちょっとお聞きしますが、先生(私のことを呼ばれる時はこのような敬称で呼ばれる方でした)は、どうして今ここにおられるんですか』と、尋ねられたのです。
 どう返事したらよいのか分からないまま私は(山奥の村から、バスに乗って、電車にのって、木之本からタクシーに乗って来て、ここに座っています)と、申し上げたらニッコ と笑われるんですよね。そうして、それは、小学生の言う答えで、仏者の答えとは違いますねと言われるんですよ。これは一体何を言わんとされているのか、長い間の疑問でした。
 今もこの問の答えがはっきりと出ているわけでもないのですが、よくよく考えてみると、私達は本当は両親の因縁をご縁として、この世に出させていただいたのです。この華もこの葉っぱも、皆さんも私も因縁によっていのちを頂き、その頂いたいのちに対して、根源の世界から願いがかけられてあるわけですね。
 その願いに押し出されて私は木之本の先生のお宅まで伺うことができているのが事実なのですが、それを、私は自分の金で、自分の目で、自分の足で、自分の意志で仏法を聞きにきたように思っているわけです。
 その傲慢さを気付かせようとなさって、こういう事を聞かれたのだと云うことを、後年になって思い知らされました。
 科学なども発達し科学万能、また、人間が学問をして少しばかり賢くなり、経済が発達して思うことが叶うようになり、皆、自分の力で生き、幸せになれるように錯覚して、どこまでも、競争競争に駆り立てられて、幸せどころか苦しみを背負っていくことをつくづく感じますね。こんな時代をお釈迦様は予言なさって末法の時代と説かれたのでしょうね。 こんな自分の愚かさに気付かさせて頂く教えが仏法なのですよ。

阿弥陀の本願界へ  

 皆さんもご存知のように、釈尊のお悟りの中に【縁起の法】というお言葉がありますね。 『この世の総ては縁起の法の条件が整ってそうなっておる』と、云うことをはっきりと系 統付けて説かれたのが釈尊(仏陀)です。
 皆さんと私が、今、ここにこうしてお遇いしていますけれども、不思議なご縁と云うことでしょう。不思議と云うことは、人間の思慮分別を超えて、今、ここにこう存在していると云うことが業力自然の不思議であり。その中でもがいた末、仏法のご縁を頂けたことが、願力自然の不思議と云うことでしょう。
 目には見えないけれども、不思議なはたらきを用といいます。清沢満之先生は これを妙 用と云うお言葉でおっしやっていますね。これは【空】というはたらきのことをおっしやっているのですね。
 私は読んだことも目を通したこともありませんが、この【空】を説くのに【大般若経】 六百巻を費やしてあるそうです。
 お釈迦様の説かれた教を、中国の玄奘三蔵という方が、今から千三百年程前に印度に渡って経典を運んで来られたのです。
 玄奘三蔵は、シルクロードを歩いて、そしてヒマラヤ山脈を超えて印度へ行き、世界で最初の大学であるナーランダ大学で学び、先ず印度の言葉を覚え、サンスクリット語を勉強されて後、仏陀の説かれた経典を学び、何を釈尊が説かれているかということの確信を得て、その経典を命がけで中国に運んで帰って来るまでに十九年もの歳月を費やしたそうです。
 私も印度へ行き、そのナーランダ大学の跡地を見てきました。今も、昔の門がそのままあります。レンガで出来ているアーチ型の門で、奥行きがほぽ六メートル程もありました。
 講堂も教室もレンガ作りだったのでしょう、上の方は無いけれどその跡も分かりました。
 玄奘三蔵がこの門をくぐられた時はさぞ感激されたことだろうと思いながら、壁を撫でて私は深い感動を覚えたのです。
 十九年後に自分の国へ帰って来た玄奘三蔵は、経典の翻訳に取り掛かったのです。
 中国には、民族が多く方言も様々ですから、なるべく多くの民族に通用するような言葉 に翻訳しなければならなかったから、私達の想像を絶する苦労をしたと思います。
 浄土真宗のお坊さん方から(阿弥陀さんの本願は、そのままのお助けや)と、言うことを、よく聞かれると思いますが、これが、また、分からないのです。しかし、こんな言葉も最近はあまり聞けません。他力自然のご本願の法則と云うことでしょうか。
 玄奘がサンスクリットの経典を翻訳した時代、中国には仏教が広く伝わり多くの高僧方がお出ましになりました。そうして日本に伝わり、実相とか真実と云う仏語となりました。
 この【実】と云う言葉が、総ての人間を救うことのできる、不可称、不可説、不可思議な、仏のはたらきの事実を言い当てられてある言葉なのです。
 今、石川県の小松で仏教の話し合いをするお講があります。
 そのお講の場で、無分別智のことを話合っているんですが、皆さんもご存じのように、この『智』と、この『知』は違います。
 この『知』は人間の知恵、この『智』は仏の智慧のことなんですね。人間の知恵をいくら努力して磨いても、仏の智慧に届くことの出来ないことを、私の師匠は何時も説いて下さいました。
 無分別智といいますと、人間の知恵、知識、分別を超えたはたらき、それを簡単に言います【無条件のお助け】と、云うことですが、私達は、(ああしたら、こうしたら助かるのではなかろうかと)この愚かな脳味噌で仏智を分別して助かろうとするんですよ。【無分別智】それは、人間の知恵の計らいがなくなった時頂けるのが仏様の智慧ですよ。

 お釈迦様は、シッダルタというお名前の王子様であった頃、巷へ出て人間の生・老・病 ・死の事実を初めてご自分の目で御覧になって、その解決のために発心なさいました。
 先に道を求めていられた修行者の方々の中に交じって、六年の間一生懸命難行苦行の修行を積んで完成し最高のところまでいかれました。
 ところが、難行苦行では、ご自分の目的を完全に達成することは出来なかったのです。と、云うことは、生・老・病・死の根本的な解決は出来なかったと云うことで、修行を止めて山を降りられましたね。そうして、遂に一切衆生と云いますか、総ての大衆が助かることの出来る【弥陀の本願界】の法【本願を信じ念仏を申すせば仏になる】法を明かになさって下さったのです。
 この、絶対他力の法が、一般大衆の中まで浸透するためには、釈尊が世にお出ましになってからも、多くの高僧方の努力と、長い年月を費やしたのです。
 選択本願として、他力の救済を明かにして下さった方が法然上人様であり、実際にその道を歩かれ、私達愚か者が成仏させて頂ける確かな道として届けて下さったが親鸞様です。
 共に、今、このご縁に遇うことのできた本願界のご因縁を尊び、いのち尽きるまで称名念仏の光の中で暮らさせて頂きたいものです。
 飛び飛びの話になりましたけれども、時間もまいりましたので、ここでお話をするご縁を終わらせて頂きます。
 どうも、ありがとうございました。

   首里城からの出発
   どうかなる事かと思い
   どうかならねばと迷いました
   一切合切大悲に納めとられて
   ナマンダブツ ナマンダブツ

                                  ( 2007年12月末 校正完了)


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