浄土真宗

第91〜100回 案内文

『なるほど!! 仏教連続講座』の案内文  

第91回 2014年9月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(41) 》

萌え出ずる新芽も不思議
舞い落ちる枯葉も不思議

堅い殻の闇の中で

生ける屍となって空しく過ごした日々

腐る以外ないと思えた身に

かけられていた誓願の不思議

如来の御いのちには分断された生も死もない

生きるも如来の御いのち

死ぬるも如来の御いのち


第92回 2014年10月11日 台風で中止  

講題:《 歎異抄に聞く(42) 》

マルティン・ブーバーの「世界は二つある」という、衝撃の語録『我と汝』は、次のことばから始まる。

 世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。
 人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。
 根源語の一つは、〈われーなんじ〉の対応語である。
 他の根源語は、〈われーそれ〉の対応語である。
 したがって人間の〈われ〉も二つとなる。なぜならば、根源語〈われーなんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われーそれ〉の〈われ〉とは異なったものだからである。

〈われーそれ〉の〈われ〉が生きる世界と、〈われーなんじ〉の〈われ〉が生きる世界は違う。だから世界は二つとなる。仏教は〈われーそれ〉の世界を穢土、〈われーなんじ〉の世界を浄土と表現してきた。


第92回 2014年11月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(42) 》

私が《なんじ》と呼ぶに先立って

私が《なんじ》と呼ばれていた驚き

《南無阿弥陀仏》と無始以来

私を《なんじ》と呼びつづける声があった

私の誓いに先立って
私が誓われていた驚き

「たとい我、仏を得んに、

国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」と

私が三悪道を超えるまで

仏にならないとの誓いがかけられていた身の幸

お念仏ひとつで開かれる世界


第93回 2014年12月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(43) 》

  如来の御一日を生きさせていただきます。 
  如来の御いのちを生きさせていただきます。 

 この仏教塾は、釈尊や親鸞聖人の教えを通して、生死の問題を中心にともに仏教を学びたい方に開かれた場です。平成5年(1993年)から仏教講演会と仏教読書会を開催しています。
 仏教は本来、人間の思い込みや偏見を照らす智慧の教え、「なるほど !!」とうなずかれる大きな広い真実の世界を届ける教えです。仏教の教えに耳を傾けてみたい方、生死の問題で悩まれている方、身近な友人知人をさそって気軽においで下さい。


第94回 2015年1月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(44) 》
 
生きている虚しさにあえいできた
死んでゆく身であることに心乱れてきた
自虐的にしか生きて来れなかった
あーしかし、こんな我が身にも
生きていける死んでいける道が開かれるとは
予想だにしなかった
何という世界を賜ったのだろう
南無阿弥陀仏


第95回 2015年2月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(45) 》

 念仏は嘘も本当もない。念仏ははじめからまこと、或は真実のものといえば念仏より外にない。念仏はたとい疑って称えても、我々の思いで称えても、念仏そのものはその為に減った訳でも変化した訳でもない。本当とか本当でないとかいうのはわれわれの思いであるから、念仏そのものに本当も嘘もあるものでない。変らんものは念仏よりない。念仏以外のものといえば我々の思い、思いは妄想であっても念仏はまことである。本願がわれわれに呼びかけている言葉である。(安田理深先生のことば)


第96回 2015年3月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(46) 》

 戦後の日本社会において、人々は高度成長期を中心に日常をいかに享楽するかに邁進し、「死」についての話題を避けてきました。
 しかし今や、老齢人口が増大し介護、無縁死、孤独死が大きな社会問題となり、迫り来る「死」にどう向き合えばいいのか、人々の不安や苦悩は深まるばかりです。
 哲学者の田中美知太郎先生は、「死の自覚は、生への愛だ」と言われました。自らの死を自覚する生き方なしに、充実した人生はないという指摘でしょう。それなのに、相変わらず経済至上主義、人間中心主義などが横行しています。


第97回 2015年4月11日  

講題:《 歎異抄に聞く(47) 》

 大浦湾の美しい自然を破壊し、戦場に直結する軍事基地を造ろうとする正気とは思えぬその傲慢さ。この国のかたちは、あまりにも哀しい。ネイティブアメリカンの大首長シアトルの言葉 (寮 美千子・編訳)が胸に突き刺さる。
 
「父は空 母は大地」  
 ワシントンの大首長(アメリカ大統領)が土地を買いたいといってきた。どうしたら 空が買えるというのだろう?
 そして大地を。
わたしには わからない。
風の匂いや 水のきらめきを
あなたはいったい どうやって買おうというのだろう?
 すべて この地上にあるものは
 わたしたちにとって 神聖なもの。
松の葉の いっぽん いっぽん
 岸辺の砂の ひとつぶ ひとつぶ
 深い森を満たす霧や 草原になびく草の葉
 葉かげで羽音をたてる 虫の一匹一匹にいたるまで
すべては わたしたちの遠い記憶のなかで
 神聖に輝くもの。


第98回 2015年5月9日  

講題:《 歎異抄に聞く(48) 》

 南米ウルグアイの前大統領ホセ・ムヒカは貧困家庭に生まれ、元左派ゲリラ活動家でした。1972年に逮捕され、軍事政権が終わるまで13年近く収監されていました。2009年11月の大統領選挙で当選し、大統領の報酬(約123万円)の9割近くを社会福祉基金に寄付し、豪華な大統領公邸には住まず、小さな農場で夫人と愛犬とで質素な生活を送っていました。
 そのムヒカ大統領のリオ会議(2012年)でのスピーチは世界中の多くの人々の琴線に触れました。
「ムヒカ大統領の心にしみる名言」  
 貧しい人とは少ししか物を持ってない人ではなく、豪華な暮らしを保つためだけに働き、次から次へと物を欲しがる人のことを言うのです。
 私は、消費主義を敵視しています。現代の超消費主義のおかげで、私たちは最も肝心なことを忘れてしまい、人としての能力を、人類の幸福とはほとんど関係のないことに無駄使いしているのです。苛烈な競争で成り立つ消費主義社会で、「世界を良くしていこう」というような共存共栄な議論が、はたしてできるのでしょうか?


第99回 2015年6月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(49) 》

 前回は『歎異抄』第12条でした。この第12条には大きな二つの柱があります。

  ①「他力真実のむねをあかせるもろもろの聖教は、
   本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、
   なにの学問かは往生の要なるべきや。」

  ②「われもひとも、生死をはなれんことこそ、諸仏
   の御本意にておわしませば〜」

 つまり、②「生死の迷いの世界を解脱することが、諸仏の本当の御こころである。」 その「生死の迷いの世界を解脱する」とは、①「本願他力の救いが真実であるということを信じて念仏申すならば必ず仏になる」という事であると。
 私たちは、本願が立てられた生起・本末を聴き開き、念仏こそが浄土往生の道であることを感得しなければなりません。
「自己への目覚め」と「法への目覚め」が道を開きます。


第100回 2015年7月11日  

 沖縄で共に浄土真宗の教えを学べる場として『まなざし仏教塾』を1993年(平成5年)に開設し、2006年(平成18年)に毎月聞法できる機会の必要性を感じ、「なるほど!! 仏教連続講座」を始めました。台風等で開催できないこともありましたが、基本的には毎月1回、2時間の講演を継続し、今回で100回目を迎えます。沢山の方々に支えられての年月でした。感謝の思いを込めて、100回記念の講演会と記念パーティーの開催を思いつきました。講演会でお会いしてもなかなか交流が持てないのがいつも残念でしたが、この記念パーティーが交流を深める場になればと思います。いつもの方々も久しぶりの方々も参加されて、会を盛り上げていただけると嬉しく思います。

     100回記念 :  講演会「お念仏を生きた人々」(1時間)
              パーティー(1時間)

関連項目  

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