浄土真宗

第81〜90回 案内文

『なるほど!! 仏教連続講座』の案内文  

第81回 2013年11月9日  

講題:《 歎異抄に聞く(31) 》

 仏教では、私たちが生きている世界を穢土(エド)と表現します。穢土とは、人間の自己中心の思いによって汚された世界という意味です。人間が行くところ、宇宙の果てまで穢土に成らない所はありません。そこは人間の自我によって汚されてしまいます。資源欲しさの対象となった月を、人間はすでに穢土にしてしまっています。
 穢土とは、私たちがダブル・スタンダード(二重基準、double standard)で生きている世界です。仏教の言う「二枚舌」とはそのことでしょう。同じ悪いことをしても、自分は許すが他人は徹底的に批判します。厚顔無恥としか言いようがありませんが、その自覚もないのが自我が自我たるゆえんです。自己を知らないが為、善人づらをして生きています。
 仏教は、穢土に対して浄土をあきらかにします。浄土とは、人間の自己中心の思いによって汚されてない世界です。そこは、シングル・スタンダード(単一基準、single standard)の世界です。選ばず、差別せず、嫌わず、見捨てない世界です。それを如来の摂取不捨、如来の無縁の大慈悲といいます。私たちを根源的に支えているその働きを「他力」と言います。


第82回 2013年12月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(32) 》

 仏道とは「生死を超える道」ですと言うと、「生老病死」が問題だと思ってしまいます。しかしそうではありません。生苦・老苦・病苦・死苦は、正確に言えば私の生苦・私の老苦・私の病苦・私の死苦で、その「私」を問題にするのが仏道です。「生老病死」は事実そのものです。思いどおりにならないと誰が苦悩しているかというと、この「私(自我)」がです。ですから「生死を超える道」とは、真理(法・ダルマ)によって「自我を超える・迷いを超える道」です。
 私は10歳のある日、自分がいずれこの地上から消えてしまうという恐怖感とむなしさに襲われ、誰か助けてくれという悲鳴をあげながら過ごしていました。1981年、縁あって浄土真宗の聞法を始め、1993年一つの往復書簡に遭遇し、思いもよらず生死が見渡せる視点が開けました。
 それがきっかけで、生死で苦悩されている人々が語りあえる場として「まなざし仏教塾」を開設しています。
 皆さんと共に生死の問題を考えてみたいと思います。


第83回 2014年1月11日  

講題:《 歎異抄に聞く(33) 》

『早春の微風(びふう)』(毎田周一さんの言葉)

   死ということを
   しっかりと踏まえて
   釈尊はやさしい目差(まなざし)で
   地上の人々を見てゆかれた

   なくなった人を悼(いた)むものも
   またなくなってゆく
   笑うものも 怒るものも
   やがて跡形もない

   あまりにもいかめしく
   きわどく やかましく
   人生のことをいうのは
   滑稽(こっけい)以上の何ものでもない

   この世の一切はさらさらと
   又ふっと過ぎてゆく
   庭先の桑の枯葉が
   早春の微風に揺れている


第84回 2014年2月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(34) 》

  如来の
    御(おん)いのちを
       生きさせていただきます。
  如来の
    御(おん)一日を
       生きさせていただきます。
  
 自己中心の思いで生きている私たちは、この《いのち》、この《一日》を私のものとかってに所有化しています。しかしこの《いのち》もこの《一日》も私が作ったものではなくすべて賜ったものです。この尊い《いのち》と《一日》を、私に恵む根源のはたらきを仏教は「如来(にょらい)」と表現してきました。
 尊い《いのち》《一日》を賜っていることを感謝し、その尊い《いのち》《一日》を私の煩悩で汚していることを懺悔(さんげ)する。「ありがとうございます。申し訳ありません。」それを「南無阿弥陀仏」といいます。


第85回 2014年3月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(35) 》

   目を閉じて感じてみよう
   こうして存在することの不思議を

   存在って何だろう
   庭に咲く小さな花も
   緑の木々も
   吹きわたる風も
   青い海も
   太陽も
   一切が不思議

   人間を支えているものは
    人間でないものも支えている
   生命を支えているものは
    生命でないものも支えている
   生を支えているものは
    死も支えている
   これは私たちの置かれている世界の根源的な事実

   無条件に許され
   一切は賜ったものであると思えたとき
   ちっぽけな心に
   尽きることのない喜びの泉が湧き出る

   嬉しい時
   悲しい時
   苦しい時
   つらい時
   さびしい時
   不思議の真只中で
   いのちの根源ヘ南無して生きる


第86回 2014年4月12日  

講題:《 歎異抄に聞く(36) 》

ゆるぎない自己の思いや考え方に依ることが
自己の主体性の確立だと思ってきた

長いこと

しかし 自己の思いは煩悩のこころであり

その心根(こころね)は自己愛である

人間の思いや考えは迷妄そのもので

自己のどこにも依るべき根拠はなかった

それを照らし出してくれたのは真実である

真実は誓願となり

誓願は南無阿弥陀仏として届いた

自己の主体性の確立とは

阿弥陀に依ることである
阿弥陀を根拠に生きることである


第87回 2014年5月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(37) 》

如来は

念仏する衆生を

真実の世界に必ず生まれさすと誓願され

如来のすべてを本願念仏に託された

本願念仏は如来の自己表現である

如来は

絶対無条件に

凡小愚鈍な私を受容する

無量の智慧と無量の慈悲である

この如来のまごころに遇わなければ

ちっぽけな分別知で生死に往来し

ついに人生を

愚痴と怨念の闇のままで終ったであろう

本願念仏を賜ったということは

如来のすべてを賜ったということである


第88回 2014年6月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(38) 》

生まれるということの不思議

生きているということの不思議

死ぬということの不思議

    

釈尊は、その不思議に耳を澄まし 心を集中し

生死を貫く

大宇宙の真理(ダルマ)に目を見開いた

それは今から 2500年前

あけの明星がまたたく夜明け前の出来事でした

一切は因となり縁となり

つながり合って重々無尽の

ただ事でない世界を織りなし

生きとし生けるものにはたらきかけ呼びかける

仏法不思議

現に今、私達は

その不思議なはたらきに生かされ

そのダルマの呼び声を南無阿弥陀仏といただく


第89回 2014年7月12日  

講題:《 歎異抄に聞く(39) 》

100%煩悩の身は
わが身に執着し わが思いに執着し

ただただ わが身可愛さで生きている

四六時中愚痴で波立つ

怒りの波
貪欲の波

名利の波


果てしなく波立つ煩悩

なんの根拠もおけないわが身

あー しかし

わが思いに汚されない仏まします
 
 この身を卑下せず
 
 この身に落ち込まず
 
 この身を言い訳せず
 
 どうせこれが私よと居直らず

仏のまなざしに照らしだされて

この身の事実を生きる

申し訳ありません 有り難うございます

南無阿弥陀仏


第90回 2014年8月16日  

講題:《 歎異抄に聞く(40) 》

本来のありようから逸脱しているため

自分で自分を受け取れない

「いま、ここ」を生ききれない

それを人生の空過という

今のいのちを未来への期待で浪費し

今のいのちを過去への後悔でいじめ殺す

それを内なる殺生という

人生の空過の内実は今のいのちの殺生

この悲惨きわまりない私を必ず救済すると

法蔵菩薩は誓われた

その誓いの真実に触れることがなかったら

私は内なる殺生をしつづけて

空しい一生を終えたであろう

関連項目  

 

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