浄土真宗

第71〜80回 案内文

『なるほど!! 仏教連続講座』の案内文  

第71回 2013年1月12日  

講題:《 歎異抄に聞く(21) 》
  新年明けましておめでとうございます

 - 仏教は発明したのでなく、発見されたのである。-

 「仏教は釈尊が考えだしたものでしょう。」
 「いいえいいえ、違います。釈尊が考えだしたものではなく、人間の思い込みを超えた眼(まなこ)で釈尊が見出した自然の道理です。それを釈尊の悟りといいます。釈尊はそれを『ダルマが至り届いた』と表現しました。ダルマとは、宇宙の真理、一切の存在を生かしめている真実のことです。」
 私たちは、自分中心のエゴの視点でものを見るために、ものの真実の有り様がわかりません。仏教ではそれを無明と言うのですが、そのわからないままにその上に人生を築いています。無明を無明と気づかせる教えが仏教です。無明を無明と気づいたところから、新しい人生が始まります。人生において、これほどの一大事はないのではないでしょうか。

第72回 2013年2月9日  

講題:《 歎異抄に聞く(22) 》

 人間は愛を讃美し愛を求めます。家族愛、夫婦愛、異性愛、師弟愛、地域愛、人類愛・・・。愛なくして一日も生きられません。しかしその愛ゆえに人間は深く傷つき苦悩します。私の思いに叶うものは愛するが、叶わないものには憎しみさえ抱きます。人間の愛は、条件によっては見捨てる残酷な愛です。それ故に世間は修羅の巷(ちまた)と化しています。仏教は人間の愛を貪愛(むさぼる愛)、我愛(自己中心の愛)として問題にしてきました。
 人間の思いを超えた真実の愛を「如来の大慈悲」といいます。それは一切のものを無条件に受け入れ捨てない愛です。「私(如来)は決してあなたを見捨てない。私を根拠に生きてくれ!」と、如来に呼びかけられている存在、それが人間です。その呼びかけを「南無阿弥陀仏」という。人生の一切が阿弥陀の御手の中と気づいたとき、人間中心の世界を超えた世界が開けます。

第73回 2013年3月16日  

講題:《 歎異抄に聞く(23) 》

  「生と死」
     私にとりまして / 生と死
     同意語と肯けます

 42歳で乳癌と診断され、47歳で亡くなられた鈴木章子(あやこ)さんの詩です。癌の宣告で苦悩されましたが、親鸞聖人の教えに導かれて生死を超えた広い世界を見出し、多くの詩を残してゆかれました。

  「無題」
     治っても / 治らなくても / 御手の中
     如来(あなた)まかせの / この気楽さよ
     ナムアミダブツ / ナムアミダブツ

  「生死」
     長いいのちの歴史の中に
      今 私があることに気づかされたら
     生死のきれめが見えなくなりました


第74回 2013年4月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(24) 》

 前回から『歎異抄』第5条です。そこには、
  
  親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏申したること、いまだ候はず。

とあります。《念仏》は如来より回向された如来の行で、私がはげむ善行ではありません。ですから《念仏》をあたかも私の手柄であるかのように、父母の追善供養のために申すことなどないというのです。ここには、親鸞聖人が受け取った《念仏》とは何かが明確に語られています。
 一方、祖先崇拝が日常のしきたりになっている沖縄では、祖先の追善供養は当たり前のことです。追善供養のために親戚一同が会することもよくあります。そういう風土の中で、どう生きていくべきなのか? そもそも祖先の追善供養などできる存在なのか?
 沖縄の地で、『歎異抄』第5条からこのような問いを突きつけられながら私は《念仏》に向き合ってきました。


第75回 2013年5月11日  

講題:《 歎異抄に聞く(25) 》

 『歎異抄』第5条には、「念仏を回向(えこう)して〜」ということばがあります。その「回向(廻向)」は、浄土真宗を理解する上で最も大切なことばです。
 聖道門では、自分の善行の結果である功徳を他に廻らし向けるという自力回向を意味しますが、浄土真宗では、如来がその徳を衆生に廻らして救いのはたらきをなす他力回向を意味します。
 親鸞は『教行信証』に「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。」と記しています。衆生が浄土に往生してさとりをひらく往相も、浄土に往生した人が再び穢土に還ってきて衆生を救う還相も、すべて阿弥陀仏から衆生に差し向けられた本願力によるものであるとし、「衆生の側からの自力による回向の否定」=(不回向)によって、回向とは如来回向であることを明確にしました。


第76回 2013年6月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(26) 》

 今回から『歎異抄』第6条です。そこには「親鸞は弟子一人ももたずそうろう」という有名な言葉があります。私は機関誌『まなざし』にこんな詩を掲載したことがあります。

   わが子、わが妻、わが師、わが友
   どこまでもつづく「わが」
   この「わが」に問題はないであろうか
   「わが」が所有になってないであろうか
   釈尊は言われた
    『自分が自分のものでないのに、どうして子供がわがものであろうか』と
   親鸞聖人は言われた
    『わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細     なり。親鸞は     弟子一人もたずそうろう」と
   「わが」に問題はないであろうか
   「わが」が所有になってないであろうか
    この「わが」が念仏を所有してないであろうか 


第77回 2013年7月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(27) 》

  神よ、私たちにお与え下さい。
  変えることのできないものを受け入れる冷静さと、
  変えることのできるものを変える勇気を。
  そして、その二つを見分けるための知恵を。

 これは1943年にマサチューセッツ州の小さな教会でラインホールド・ニーバー牧師が初めて唱えた祈りのことばと言われています。その後、多くの人々の琴線に触れ、世界に広まっていきました。
 「変えることのできないもの(不如意)」、「変えることのできるもの(如意)」という思想は、古代ギリシャの哲学者エピクテタスの語録にもあります。1898年、結核で喀血をくり返し死を目前にして苦悩していた宗教者・哲学者の清沢満之は、『エピクテタスの語録』の如意・不如意という思想に深い感銘を受け、「生死は如意」との錯覚・迷妄が破られ、「生死は不如意」と目覚め、生死を貫く絶対他力に落在して生死を超えたと言われています。
 この世には人生を転換させる、深いみ教えがあります。耳を傾けてみませんか。


第78回 2013年8月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(28) 》

 今や、世界中が利潤・利益を上げることに血まなこになっている。その結果、貧富の差は拡大し弱者は切り捨てられ、人と人との親しい関係は寸断され、環境と固有文化の破壊は進んでいる。こういう世の中はどう考えてもおかしい。景気が回復すればすべてが解決するというのは幻想である。そもそも、私たちのものの考え方そのものに問題がある。

   名聞:世俗の名声に執着し追い求めること。
   利養:現実的な利潤追求をむさぼること。
   勝他:他の者や他の国に打ち勝つこと。
 この三つの欲望「名聞(みょうもん)・利養(りよう)・勝他(しょうた)」が、私たちを暴走させ、生きてゆく方向を見失わせると仏教は指摘する。これらに根拠をおいて生きているかぎり、人生は空過する以外ないと説き、人生の空過を超える道を明らかにしてきた。
 人生を意味あらしめたいと願う者は、自らの価値観を転換する必要に迫られている。


第79回 2013年9月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(29) 》

 本来の宗教は、私たちの欲望や迷いを明らかにし、真実の世界を届ける教えです。
 しかし世の中には、私たちの「欲」につけ込んでその欲望をかなえることを目的とする、本来の宗教とは似ても似つかない擬似宗教が沢山あります。どの宗教も自分たちは真実だと主張していますので、どれが本来の宗教かを見分けるのはなかなか難しいことです。また宗教の話を聞くと洗脳されてしまうのではないかと、世間の人々は不審感や恐怖感をいだいています。とんでもないオカルト宗教などに取り込まれないためにも、それはある意味で人間の健全な感覚だと思います。
 しかしながら、私たちはすでにして生まれてから今日まで、自らの独断と偏見で作り上げた価値観を生きています。その人間中心主義の偏狭な価値観にマインドコントロールされていることも気づかないほどにマインドコントロールされて生きています。
 釈尊や親鸞聖人によって開かれた宗教は、そのマインドコントロールから人間を解放します。そのとき自分の迷妄が照らし出され、生きとし生けるものが光り輝く真実のいのちの領域が明らかになります。


第80回 2013年10月12日  

講題:《 歎異抄に聞く(30) 》

 なぜいのちが存在するのか?
 生まれるとはどこから生まれるのか?
 死ぬとはどうなることなのか?
 時間や空間や物質などはなぜ存在するのか?
 
 これら諸々の「なぜ?」に翻弄され、さらに「生まれても結局は死んでしまう人生に何の意味があるのか?」と、虚しくてやりきれなかった青春時代。素粒子物理学ならこれらに答えを出せるかもしれないと研究生活を始めた。
 しかし、ものを対象化し分別する方法はHow(どういう具合に)は研究できるが、全ての根源を問うWay(なぜそうなのか?)には答えは出せないことを知った。もともと切れないもの(一如なるもの・無分別なもの)を、人間の計らい(切断・分別)で知ることなど不可能である。これらの問題に、釈尊が「無記」と称して沈黙を通したのも、その限界ゆえであったに違いない。
 行き詰まっていた時、縁あって人間の計らいの限界・闇を知らされ、その限界を超えたこの世の真実を伝える他力の仏教に出遇った。一切の迷いの「なぜ?」は、「不可思議」という感動へ変った。


関連項目  


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