浄土真宗

第61〜70回 案内文

『なるほど!! 仏教連続講座』の案内文  

第61回 2012年3月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(11) 》
 仏教を含めて宗教は、人間の罪悪を問題にします。『歎異抄』第1章にも、「老少善悪」「罪悪深重」ということばが出てきます。
 なぜ罪悪が大切な問題かというと、自覚のない罪悪は、私たちの生き方を台無しにするからです。
 辞書には、「罪悪とは、道徳や法律や宗教上の教えにそむく悪い行い」とあり、道徳的罪悪、法律的罪悪、根源的罪悪と大きく3つに分類できます。
 自らに道徳的罪悪や法律的罪悪がないと思っている間は、私たちは自らを善人と錯覚していますが、実際は、かた時も偏愛(かたよって愛すること)と瞋憎(いかりや憎しみ)を離れることができない存在、つまり自我的存在です。根源的罪悪とは、この自我的存在という人間の本性をさします。
 仏法は人間の根源的罪悪を明らかにすることで、私たちを支える真実の世界が開かれてあることを明らかにします。

 

第62回 2012年4月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(12) 》
 私たちの人生には二つの課題がある。
 生活の「生」と「活」である。「活」はどのようにしてパンを手に入れるかという問題で衣食住に関係するが、「どうせ死んでしまうのにパンを食べるのにどんな意味があるの」とは、生きることや死ぬことの意味を問う「生」の問題である。「生」の問題は、どう生きるかということに決定的影響を及ぼす大事なことである。
 「活」と「生」は密接に関係しどちらも大切であるが、質的に次元が異なる問題である。「活」では「生」の根本的解決はできない。私は長いことそのことに気づかず、「活」の解決を計り充実させることのみで「生」の課題を乗り越えようと不安で眠れない夜を重ねてきた。
 その「生」の問題に真っ正面から取り組んだのが釈尊や親鸞であった。

                【琉球新報2011年コラム『落ち穂』より掲載】

第63回 2012年5月12日  

講題:《 歎異抄に聞く(13) 》
 5月の連休も終り、梅雨の晴れ間、初夏を思わせる陽気が続いています。いかがお過ごしですか。
 《歎異抄に聞く》は、今回から第二章に入ります。
 今から750年以上も前の飢饉,疫病、戦乱の時代、親鸞に往生極楽の道(生死を貫く真実の道)を問い聞くため、北関東から命がけの旅をして京都までたずねてきた人々がいました。
 その人々にたいして、「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。」と親鸞は率直に語りかけます。そこには、煩悩具足の身の自力では救われない自己への目覚めと、絶対他力(如来真実への目覚め)でしか人間は救われないとの確かなうなずきがありました。
 我が身の生死の問題を解決するため、命がけの求道をしてきた先人の歩みは、表面の世相のみで流される私たちの日々の生活の有り様を問い直します。


第64回 2012年6月9日  

講題:《 歎異抄に聞く(14) 》
 仏教は、無量寿(無量のいのち・慈悲)、無量光(無量の光・智慧)、つまり永遠無限なるものの私たちへのはたらきかけを説きます。そのはたらきかけへの目覚めが私たちの生き方を180度転換し、空しく過ぎることのない人生を開きます。
 そのことをスイスの精神科医カール・グスタフ・ユングは、次のように指摘しています。
 「人間にとって決定的な問いは、〈お前は無限という状況にかかわっているかどうか〉である。それが人間にとって基準となる。無限の重要さを知っているときには、私は自分の関心を不毛で無意味な事物に向けることはできない。もし人がすでに自分の生涯の中で、自分が無限なる状況に接したと感じ、かつそれを理解したならば、その人のもろもろの願望や心がまえも変化する。人はただ人生にとって本質的なるものを把握したときのみ有効な生活を送れるのであって、もし本質的なるものをもっていない場合にはその人の生涯は台無しになる。」


第65回 2012年7月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(15) 》

 親鸞聖人が、日本国の救主として尊敬された聖徳太子の『十七条憲法』の十条を紹介します。
 「心のなかの怒りをたち、表情にでる怒りを捨て、他人が逆らっても激怒してはならない。人にはみなそれぞれの心がある。その心には各々こだわるところがある。彼が正しいと考えることを、私は間違っていると考え、私が正しいと考えることを、彼は間違っていると考える。私がかならずしも聖者であるわけでもなく、彼が愚者であるわけでもない。どちらも共に凡夫にすぎない。正しいか間違っているかの道理を、誰が判定できよう。賢者であることと愚者であることは、金の輪にどこという端がないようなものである。このゆえに、他人が怒っても、むしろ自分のほうに過失がないか反省せよ。自分一人が真理をつかんでいると思っても、多くの人の意見をよく聞いて行動せよ。」(意訳)
 仏教がもたらした人間への深い洞察です。そのすべてをお念仏のこころで受け取って歩ませてもらいます。


第66回 2012年8月11日  

講題:《 歎異抄に聞く(16) 》

 仏教では、宇宙万物の真実なる姿を一如・真如といいます。「如」とは一切のものが自他差別のない平等寂滅なる様です。
 その真如の中にありながら、自らの我愛・執着のために優劣、損得、自他など差別の世界に沈んで苦悩しているのが煩悩具足のわれわれ衆生であります。
 一如・真如は、迷いの世界で流転する衆生を本来的世界に回復させる願いと働きをもっています。そのことを『大無量寿経』などの教典は、色も形もない真如法性から姿をあらわし法蔵菩薩と名のり、誓願を立て浄土を建立し、願いを成就して阿弥陀仏になったと説きます。
 この阿弥陀仏の衆生救済の誓願こそ宗教の主体です。仏教が目覚めの教えであるとは、自らの迷妄に目が覚めて、われわれのいのちの帰依所である誓願を自覚する道だからです。
 その阿弥陀の誓願を抜きにした人生は、単なる人間の思いこみだけの人生でしかありません。


第67回 2012年9月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(17) 》

 今回から、「善人なほもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや(善人ですら往生をとげる、まして悪人が往生をとげられないことがあろうか)」という悪人正機で有名な『歎異抄』第3章です。
 しかし、私たちは日頃「悪人なほ往生す。いかにいはんや善人をや(悪人ですら往生をとげる。まして善人が往生をとげられないことがあろうか)」を常識として生きています。いかにも正しそうな主張です。そう主張する時、自らは悪人でなく善人であるという視点でものを見ていませんか。世間は善人だらけです。
 本当に私たちは善人でしょうか?
 私のなす善悪すべての行為に、自己中心の毒がまざり、貪愛におぼれ、怒りに身を焼き、わが身かわいさでしか生きてない煩悩具足の凡夫ではありませんか?
 如来の真実の光に照らしだされた時、自らの正体があきらかになります。そこで「私は善人です」と主張できる人がいるでしょうか?


第68回 2012年10月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(18) 》

 「すべてのものが本来的に平等であることに順ずるを善といい、それに背くを悪という」と経典にある。
 「すべてのものが本来的に平等である」ことに背かないで生活している人がいるでしょうか。自己の存在のあり様への自覚が深まると、自己の力によって善をなすことのできない者、つまり自らを悪人としか言いようがないことに目が覚める。(だから善人とは、いまだ自分の正体に目が覚めていない者のことと言える。)
 「善人なほもつて往生をとぐ、いわんや悪人をや」(悪人正機:『歎異抄』第3章)は、悪人こそが仏の救済の対象ということである。そのことを青木敬磨は「浄土教は、ただ堕ちるものを救う」(『念仏の形而上学』)と端的に表現した。
 自らの身のふるまい、言葉のやりとり、心に思うことなどのすべてが自己中心の毒に汚染されていて、自分で自分を救えないと目が覚めた悪人を往生させることが阿弥陀仏の誓願である。「往生」とは、生死を超えたさとりの領域、真実の「いのち」の領域に生まれさせていただくことである。


第69回 2012年11月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(19) 》

 経典『涅槃経』は父親を殺して王位についた阿闍世(あじゃせ)について詳しく記していますが、親鸞聖人はその部分を『教行信証』に大切に引用しています。
 経典は「王舍城に阿闍世という王がいた。その性質は凶悪で、好んで殺生をおこない、乱暴な言葉づかいをし、二枚舌を使い、嘘をつき、きれいごとを並べ、心は貪りと怒りと愚かさが激しく盛んであった。悪い仲間にしたがい、この世のさまざまな欲望にとらわれ、楽しみにふけ、罪もない父の王を非道にも殺害した。」と書いています。しかしやがて阿闍世は、父を殺したことで後悔の念にさいなまれ「今の私は、魚が陸に打ち上げられているようなものだ」と苦悩のことばを口にします。誰の言うことも信用しなかった阿闍世が、はじめて耆婆(ぎば)の勧めを受け入れて釈尊を訪ねます。そこで阿闍世の人生が大きく転換します。
 これは、今から2500年前にインドであった事件です。今回はこの事件を、じかに原典である仏教経典に触れながら、人間が大きな世界に出るとは、あるいは人間が救われるとはどういうことかを考えてみたいと思います。


第70回 2012年12月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(20) 》

 毎月のこの講演会も、皆さんのおかげで70回目を迎えます。参加くださる多くの方々が、仏教を聞く人生と聞かない人生では、人生の意味が変ってくることに気づかれたからだと思います。共に歩んでまいりましょう。
 
 《仏教とは何か?》
   私が立つ大地と
   その大地に立つ私を
   明らかにする教えである
   これは人生の一大事である
   われわれは目があればものが見えると思う
   しかし目があっても光がなければものは見えない
   光とは智慧である
   智慧の光は
   無始以来の私の闇を一瞬にして照らしだし
   私が立つべき広い天地を恵む
   仏教とは
   私を照らす智慧の教えである 


関連項目  


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