浄土真宗

第51〜60回 案内文

『なるほど!! 仏教連続講座』の案内文  

第51回 2011年5月  

講題:《 歎異抄に聞く(1) 》

 今回(第51回)から講題を《 歎異抄に聞く 》と改め、親鸞の教えを『歎異抄(たんにしょう)』を通して尋ねてみたいと思います。
 『歎異抄』とは、親鸞没後ほぼ20数年して、その教えに異なる解釈が生まれてきたことを歎いた直弟子・唯円(じきでし・ゆいえん)が、自身が聞いた親鸞の言葉にもとづいてその教えを明記した書物です。その『歎異抄』に私自身は生きるのに四苦八苦していた32歳のとき出遇いました。それがその後の私の人生の方向を決定づけました。約30年前のことです。
 かねてからこの『仏教連続講座』で『歎異抄』を取り上げたいと思っていました。浄土真宗とあまり縁の深くない沖縄で、これまで連続して参加された方々は良しとしても、初めて参加される方々が毎回おられる中で、どこまで『歎異抄』を頂けるか、試行錯誤しながらの歩みになると思います。


第52回 2011年6月  

講題:《 歎異抄に聞く(2) 》

 6月4日(土)に小山一行先生(筑紫女学園大学教授)の仏教講演会を開催しました。新聞の『落ち穂』欄での案内もあって予想以上の参加者でした。院内の椅子をかき集め、講師控えの和室も開放して何とか80数名は入場できましたが、申し訳ないことに入れなくて帰られた方も多数おられました。沖縄でこれほど関心を抱いている方々がおられることに感激し勇気をもらいました。
 仏教講演会に参加されたことがご縁となって、ひとりひとりが仏道の歩みをさらに深められることを心から願っています。仏道は我が人生を解決する道です。しかしながら仏道の成就はそう簡単ではありません。なぜなら、日頃の私たちの物の考え方の延長線上には仏道はないからです。知識で見る世界でなく、智慧で見る世界が開かれる必要があります。また仏法を理解すには、自分の正体を知る事が重要ですがそれも容易ではありません。覚悟を決めて急がず、焦らず、休まず継続するしかありません。必ず道は開けます。


第53回 2011年7月  

講題:《 歎異抄に聞く(3) 》

 『歎異抄(たんにしょう)』は、多くの人々に読み継がれてきた書物です。この書物に出会って、苦悩や困難を超えて生きていける道を見いだした人が沢山います。
 しかしながら、親鸞の教えのエッセンスが語られている『歎異抄』は、容易にうなずける内容ではありません。第一章はその教えの極みですが、「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と始まります。私たちの日頃の思いでは理解できないことばです。それは、私たちの自己中心の物の考え方の限界を超えた真実の世界を指し示したことばだからです。
 一切の偏見や予見や独断を持たず、虚心に教えに耳を傾けて、生きる確かな意味を一緒に尋ねてみませんか。


第54回 2011年8月  

講題:《 歎異抄に聞く(4) 》
 8月13日(第2土曜日)は旧盆のため、第3土曜日に延期しました。


第55回 2011年9月  

講題:《 歎異抄に聞く(5) 》

「死の自覚が生への愛だ」
 これは田中美知太郎先生(哲学者)のことばです。どういう意味でしょうか。
 もし自分の余命が後1ヶ月と知ったとします。あなたはどうしますか?
 どうせ死ぬからと自暴自棄になりますか、死んだら灰になって無になるだけとあきらめますか、それとも限られた時間を大切に生きようとしますか。
 もちろんどう「死」に向き合うかは、ひとりひとりの自由です。ただここで明らかなことは「死」の問題は、実は今をどう生きるかという問題だと言うことです。ですから「人は、生きたようにしか死ねない」とも言えます。
 死すべき身であるという自覚、100%与えられて存在しているという事実が、今、実は生きていることが限りなく貴重で不可思議だという感動と感謝を生み出します。「死の自覚が生への愛だ」と言えます。


第56回 2011年10月  

講題:《 歎異抄に聞く(6) 》

 自己とは何か?/自己を取り巻く世界とは何か?/それらを正しく領解(りょうげ)する道はあるのか?
 なぜこんなにも寂しいのか?/なぜこんなにも満たされないのか?/なぜこんなにも世界は悲惨なのか?/何が問題なのか?

 八宗の祖と言われる龍樹菩薩(150〜250年)は、「日頃の私たちの物の考え方は妄念妄想で、真実の世界に至る事はない。常に迷いの道を往来するだけである。この迷いを出る正しい道(仏道)がある」と言われた。
 仏教の開く生も死も超えた世界は、私たちの日頃の物の考え方の延長線上にはない。私たちの考え方を根底から転換しなければうなずけない目に見えない世界である。覚悟して仏法を求めて初めて開かれる世界であるから、中国の善導大師(613〜681年)は「今こそ迷いの世界から出よう!」と渾身の力を込めて万人に呼びかけた。


第57回 2011年11月  

講題:《 歎異抄に聞く(7) 》

 「他力本願ではだめだ。自力で頑張らないと。」
 このように世間では、「他力本願」を「他人の力をあてにする」といった誤った使い方がなされています。
 本来「他力本願」は仏教用語で、この「他力」とは「仏力」のことです。ですから「他力本願」とは、「生きとし生けるものを苦悩から開放したいという阿弥陀仏の本来の願い」を意味するのです。
 私たちは生まれながらに自我を発動して、心身を煩わせ悩ませる妄念(煩悩)に苦しんでいます。つまり物には実体がないという本来の有り様(無我・一如・空)に背を向けて、一切を実体化し自らの偏見と独断で分別し執着し苦悩しているのです。私たちは、本来の在りように帰るまで心の安らぎは得られないと呼びかけられている存在です。その呼びかけの象徴的表現が南無阿弥陀仏です。阿弥陀仏の私たちにかけられたその願いをまことと受け取り、妄念妄想の世間の中を「ただ南無阿弥陀仏」と生ききり、遂に迷いを超えた真実の世界(涅槃・浄土)に出て欲しい。それが「阿弥陀仏の本来の願い」です。


第58回 2011年12月  

講題:《 歎異抄に聞く(8) 》
2011年 東日本大震災
大津波が田畑を家屋を人を
愛しい我が子を夫を妻を失った深い悲しみ
残された者の癒し得ぬ寂しさ
心のよりどころを失った喪失感
さらに放射能が追い打ちをかける
世界中からの温かい支援
人の世にぬくもりあり

しかし無常の現実に刀折れ矢尽き
立ち尽くす人々の慟哭が聞こえる
これが夢であったら これが夢であったら
親鸞もまた飢饉、地震、疫病、戦乱に涙した
涙の中に生死を超えて
私たちに呼びかける
如来の祈りのことばを聞き取った
人の世にまことあり


第59回 2012年1月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(9) 》
 新年明けましておめでとうございます。

 「戦争で地獄さながらの体験をした沖縄の人々に、仏教の開くすばらしい世界を届ける場を開きたい」と、この地に『まなざし仏教塾』を立ち上げて、今年は20年目の節目の年です。思えば、試行錯誤の連続でした。しかし今、沢山の方々に支えられています。
 私は10歳のとき、自分がいずれこの地上から死んでいなくなるという恐怖に襲われ、その死の恐怖に向き合いながら生きてきました。何度も行きづまり挫折しながら、ついに出遇ったのが仏教(釈尊・親鸞)でした。
 その教えによって、長年私を苦しめていたものの正体は「我執・我愛」だと知りました。生死の問題に向き合える視点が初めて開かれ、そして生死を超えた世界に触れた感動が、その後の私の生き方を大きく変えました。
 今年も、皆さんと共に歩んで参りたいと思います。


第60回 2012年2月18日  

講題:《 歎異抄に聞く(10) 》
 仏教徒は、「仏・法・僧」の三宝に帰依します。
 釈尊在世の当時は、仏(ブッダ)と言えば釈尊であり、人々は釈尊・仏(ブッダ)を通して法(ダルマ:真理)を学び、そして僧(サンガ:仏教徒の集団)を形成しました。それが仏教徒の生きる大地でした。
 実在の釈尊に会えない釈尊亡き後の仏教徒は、法(ダルマ)と僧(サンガ)を通して、仏(ブッダ)に遇うということになります。そこで初めて、「仏(ブッダ)とは何か?」が問い直され、その本当の意味が明らかになってきます。
 もちろん仏(ブッダ)とは釈尊自身でもありますが、釈尊亡き後の人々が感得したのは、釈尊自ら述べているように「如来(釈尊)が居ても居なくても、それに先立ってある真実のはたらき」、つまり釈尊を釈尊たらしめている法のはたらきでした。その法のはたらきは、「南無阿弥陀仏」と名のり、自己中心の人間の迷いを破り、限りないいのちの中に人々をおさめ取ります。


関連項目  


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