浄土真宗

第111〜120回 案内文

『なるほど!! 仏教連続講座』の案内文  

第111回 2016年6月11日  

講題:《 歎異抄に聞く(60) 》
 目を閉じて感じてみよう

  こうして存在することの不思議を
  存在って何だろう

  庭に咲く小さな花も
  
  緑の木々も

  吹きわたる風も
  
  青い海も

  太陽も
  
  一切が不思議

  無条件に許され

  一切は賜ったものであると思えたとき

  ちっぽけな心に

  尽きることのない喜びの泉が湧き出る


第112回 2016年7月9日  

講題:《 歎異抄に聞く(61) 》

 「難信易行(なんしんいぎょう)」……お念仏(南無阿弥陀仏)を称(とな)えることは易しい。しかし「ただ念仏」を信じることは難しい。世間を超えた法(ダルマ)である「ただ念仏」を、世間心で理解することは不可能だからである。

 仏道は世間を超える道(出世間道)である。出世間の真実の世界への出遇いを「ただ念仏」という。

 「ただ念仏」以外の念仏は、人間の功利心が雑ざった自力の念仏である。


第113回 2016年8月13日  

講題:《 歎異抄に聞く(62) 》

 私たちは、人間が何か行為をすることを自力(じりき)と思いがちですが、単に何かをすることを自力というのではありません。「我が身をたのみ、我が心をたのみ、我が力をはげみ、我がさまざまの善根をたのむ」ことを自力というのです。私たちの行為そのものを自力と誤解するから、浄土真宗の話を聞けば聞くほど、手も足も出ない、何も出来ないなどと閉塞的になり、無気力になるのです。実は、これこそが自力の心です。
 しかし、その自力の心を自力で離れることはできません。唯一可能な道は、仏法の教えにあい自力無効と目が覚めて、自分の思いを根拠に生きる生き方から阿弥陀さんに南無して生きる生き方に転換することです。その鍵は、仏法を聞きひらくことにあります。


第114回 2016年9月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(63) 》

 仏法は不可思議(ふかしぎ)を説きます。不可思議とは、ことばで言い表(あらわ)したり思いはかることのできないことをいいます。私たちが生かされている世界は、人間の思議(しぎ)(計(はか)らい・分別(ふんべつ))を超えた不可思議の世界です。
 本来(ほんらい)不可思議の世界に居ながら、それに気づかないで自らの計らいや分別を根拠(こんきょ)に生きています。仏教は、その自らの計らいや分別がいかに独断(どくだん)と偏見(へんけん)に満ちているかを明らかにし、人間の分別を超(こ)えた大いなる世界に南無(なむ)して生きることが、空過(くうか)なき人生を実現すると説きます。


第115回 2016年10月8日  

講題:《 歎異抄に聞く(64) 》

 生きるとは生活することです。その生活を「生(せい)」と「活(かつ)」に分けると、人生には「生」と「活」という二つの大きな課題があることがわかります。
 「活」というのは、衣食住、健康、財産などの問題で、ひとことで言えばパンをどう手に入れるかということです。私たちの日常生活はこれに費やされています。これはこれで大切です。
 しかし、どの人もパンを食べても一〇〇%死にます。 「パンを食べても死ぬのに、何の為に生きるのか?」それが「生」の課題です。人生においてとても大切なこの課題を、ともにたずねてみませんか。人生の新しい視点が必ずひらかれます。


第116回 2016年11月12日  

講題:《 歎異抄に聞く(65) 》

 仏教は「生老病死」を課題にするというと、「生老病死」そのものが仏教の課題だと思ってしまいます。しかし、仏教を聞いても老いてゆき、病気になり、死を避けることはできません。「生老病死」は私たちの身におこる現象です。
 城を捨てたゴータマ・シッダルタ(釈尊)の最初の課題は確かに「生老病死」そのものでした。しかし悟りを開いた釈尊が解決したのは現象としての「生老病死」ではなく、「私の生老病死」の「私」でした。釈尊に至り届いた「法(ダルマ)」は、生老病死を超えて生きていける死んでいける自然(じねん)の世界を開く目覚めの教えでした。
 ご一緒に仏教に耳を傾けてみませんか。


第117回 2016年12月10日  

講題:《 歎異抄に聞く(66) 》

 ふる里沖縄で、仏教を多くの人々と共に学びたいと「まなざし聞法道場」を開設して24年目になります。
 思えば仏教の教えを人生の指針として生きていくことは、容易ではありません。それは仏教が難しいというより、私たちのものの考え方に問題があるからです。日頃、私たちが行きづまっている世界を世間といいますが、仏教は人間の自我の論理で構築した世間の限界を明らかにし、それを超える出世間(しゅっせけん)を説きます。出世間は「自己への目覚め」と「法(真理)への目覚め」によって明らかになる世界です。ここに迷いの人生を解決する道があります。共に仏教に耳を傾けてみませんか。


第118回 2017年1月14日  

講題:《 歎異抄に聞く(67) 》

 親鸞聖人の『御消息集(ごしょうそくしゅう)(お手紙)』に「義(ぎ)なきを義(ぎ)とすと他力をば申すなり(訳:他力とは、私たちの分別・計らいを離れることを本来の大切な意義とする)」とあります。
 私たちは、生まれながらに損得、優劣、勝敗、好き嫌いなどの分別・計らいで苦悩し、優越感や劣等感で心が引き裂かれ、争いを繰り返しています。これが万物の霊長と言われる私たちホモサピエンス・人間の哀しい現実です。仏教はこの人間の分別・計らいを超えた本来の世界を届け、空過なき人生をひらきます。だから仏法(他力)は大切なのです。


第119回 2017年2月18日  

講題:《 歎異抄に聞く(68) 》

 最近『逃げるは恥だけど役に立つ』というTVドラマが話題になりました。そのタイトルから『分別は末通らないけど役に立つ』を思いつきました。なぜ分別が役に立つかというと、私たちが分別する身を生きているからです。私が役に立つと思うのは、私の分別に合致しているからです。しかし、分別は人それぞれ違いますから、分別は苦悩の元・争いの元です。『分別は役に立つけど末通らない』と言えます。仏法は、人間の虚妄分別を超えた末通る真実の世界を明らかにします。


第120回 2017年3月11日  

講題:《 歎異抄に聞く(69) 》

 仏法は「自他(じた)一如(いちにょ)」「生死(しょうじ)一如(いちにょ)」を説きます。「一如(いちにょ)」とは、如来のまなざし(分別を超えた真実の智慧)によって見いだされた、事物のあるがままのすがたのことです。
 しかし私たちは、心でも身体でも、自己と非自己を識別してしかものを見ることができません。各自の知識や体験などによって色づけされた当てにならない分別で、損得、好き嫌い、敵味方などを峻別し自ら苦しんでいます。その私たちに語りかけるため、如来大悲は『南無阿弥陀仏』ということば(分別)にまでなって下さったのです。人間の分別は「虚妄(こもう)(うそいつわり)」ですが、如来の分別は「方便(ほうべん)(手だて)」です。


関連項目  

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