浄土真宗

多田富雄 先生

  多田富雄 先生
                  志慶眞 文雄

 叫ぼうとしても声は出ず/訴えようとしても言葉にならない/渇き で体は火のように熱く/瀝青のような水は喉を潤さない/そこは死の世界なんかじゃない/生きてそれを見たのだ/死ぬことなんかたやす い/生きたままそれを見なければならぬ/よく見ておけ/地獄はここ  だ/遠いところにあるのではない/ここなのだ

 これは免疫学者の多田富雄先生が四年前に脳硬塞で倒れて、左の言語脳を障害され言葉を失い右半身を麻痺され、快復した時にワープロで初めて左手で書いた言葉である。  二〇〇五年十一月にそのドキュメンタリーがテレビで放送された。ご覧になった方もおられると思う。脳硬塞で倒れ、さらに前立腺癌を 告知されるという重い現実にもかかわらず、先生の真摯な生き方に多 くの人々が感動したに違いない。私もそのひとりである。
 広島の原爆慰霊碑を訪れた時、一人の科学者として申し訳ないと、 ことばを失って嗚咽している姿を見て、かって広島に住んでいなが ら、被爆し多くのものを失った広島、長崎の人々の深い悲しみや痛み を私は受け止めようとしただろうか?人々の痛みを共有しきれないで仏法をいただくということがあるのだろうか?今、その問いの前に立
たされている。
 先生と面識はないが、私にとって忘れることのできない方である。一九九八年の一月から三月までNHKテレビの人間大学で先生の『免 疫・「自己」と「非自己」の科学』の講議があり、毎回、食い入るよ うに見ていた。一流の免疫学者でありながら能にも造詣が深く、自ら新作能も創作される。蝶ネクタイをされたダンディーな先生が語られ
る現代免疫学は驚きの連続であった。
 第一回の講議が『脳の「自己」と免疫の「自己」』であった。免疫 とは「自己」と「自己でないもの(非自己)」を識別して、「非自 己」を排除して「自己」の全体性を守るという機構であり、現代免疫 学は「自己とは何か」「非自己とは何か」の問題にまで迫ろうとしているというお話は、現代の唯識学を聞く思いであった。自分の行動様式を決定する脳の「自己」と、身体の全体性を監視している免疫系の 「自己」が共存しているという。簡単にいえば、いくら私が頭(脳) で自己中心を否定しても、身そのものは自己を立てているのが私達だ というのである。

 「我が身可愛さのみで生きている」
 「煩悩に名前をつけたのを私という」南無阿弥陀仏

 2005,12

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