浄土真宗

西教寺シンポジウム『生死を超える道』

西教寺シンポジウム『生死を超える道』  

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2011年 西教寺秋彼岸会講演会 釋水鷦の会2周年記念シンポジウム

2011年9月24日〜25日の秋彼岸会は、水鷦(すいしょう)の会2周年を記念して、沖縄から志慶眞文雄先生におこしいただき、長ノ木本坊と三津田支坊で講演会、蔵本通支坊でシンポジウムを開催しました。
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水鷦の会とは、前川たえこ(法名釈水鷦、西教寺衆徒、文筆家)さんを囲んでの交流会です。水鷦さんは離婚、恋人の自死、癌で三度死線をさまようなど、さまざまな人生苦にあいながらも、仏法と出遇われて今を力強く生きておられる方です。また、志慶眞先生は、水鷦さんを支え続けてこられた方で、水鷦さんにとっては大恩人。沖縄で小児科医院を開業される傍ら、同所で浄土真宗の聞法道場「まなざし仏教塾」を主宰されています。そして今回、シンポジウムのコーディネーター(進行まとめ役)を買って出て下さった佐田尾信作(当時『中国新聞』洗心面担当、現文化部長)さんは、お二人の共通の友人です。二人を引き合わせ、水鷦さんが後に得度して僧侶となった時も、またそれが縁となってできた水鷦の会も支え続けてくださっています。

(佐田尾) 本日は「生死を超える道」という題でシンポジウムをしますが、まず志慶眞先生にお話をお願いします。

(志慶眞) 私は十歳の時、自分がいつかこの世から消えてなくなるという死の恐怖におそわれ、それ以来何をしても虚しくてどうしたらいいのか分からない苦しい日々を送ってきました。
 そんな中、大学時代のある眠れない夜、ふと今のこのままの状態で千年万年、いや永遠に死なないとしたらそれこそ地獄ではないか、死ぬことも虚しいが、今を生きれないことが私の一番の問題だと気づきました。しかし、だからといってどうしたらいいのかわからず悩んでいました。

 ■ 生死を超えるとは迷いを超える

 本日は「生死を超える道」ということがテーマですが、仏教からいうと生死(しょうじ)には迷いという意味があります。迷わせているのは私の自我、我執ですから、生死を超えるとは迷いを超えるということになります。どうしたら迷いが超えられるか。それが大きな課題です。
 京都大学の田中美知太郎先生は、「死の自覚が生への愛だ」とおっしゃっていますが、それは死すべき生を生きている事の自覚は、生かされてある今の尊いいのちに目が開かれるということです。生死を超えるとは、今をどう生きるかという問題に直結しています。

 ■「越える」と「超える」

 私は「こえる」に二種類あると考えています。世間一般で考える「こえる」は「越える」でしょう。「人生とはどうせこんなもんだ」と自分の思いを固めて越える。
 しかし仏教の「こえる」は、法(ダルマ・真理)によって正しく「超える」です。これによらなければ迷いは超えられません。生死の解決はつきません。どう生死を超えてゆくか、釈尊も親鸞聖人もこのことを課題とされて仏道を歩まれました。生死を超える道は仏教の眼目です。

 ■ 生と活

 私たちは生活をしています。そこでその生活を「生」と「活」に分けて考えてみます。一つは「活」。私達の衣食住の問題です。端的に言えば、パンをどう手に入れるかという問題です。朝から晩までほとんどここにかかずらっています。もう一つは「生」。これはパンを食べても死にますよという問題です。つまり「活」が満たされても死ぬという問題は残ります。その「生」の問題が、生死を超えることに関わる問題です。

 ■ ただ念仏して

 「活」のレベルでは、地位も名誉も財産も健康もないよりあったほうがいいでしょう。しかし、絶体絶命になったとき、ないよりあったほうがいいというものでは「生」の解決はつきません。つまり生死は超えられません。ぜひともなければいけないものに遇わなければ解決はつきません。
 仏教は何かを信じ込むことでも、単に世の中でどう生きたらいいのかを教える処世術でもありません。我々の我執を超えた真実の世界を明らかにする智慧の教えです。死すべき生を生きていく希望とは何か。
 それはどうしてもなければいけないものにであうことが大切です。しかし私達は、世の中を自分のエゴを中心に、「活」だけの視点でいのちを切って見るので、生き死にを超えた大いなるいのちの世界がなかなか見えません 
 私たちを生かしめている、その大いなるいのちの世界に目が覚めたときに「生」の問題は解決します。本願念仏は、生死を貫く大いなる世界の呼びかけです。「歎異抄」には「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」とあります。「ただ念仏」、往生浄土の道が生死を超える道です。

 ■ 不死がえられる

 釈尊は釈迦族の王子として生まれ、地位、名誉、財産など「活」には恵まれていました。しかし「活」では、生死の問題が超えられなくて行き詰まり、29歳のとき城を出ました。そして5年後、35歳で悟りをひらきました。そのとき「ダルマ(法)が至り届いた」「不死が得られた」との言葉が伝えられています。不死が得られたとは、無量寿のいのちに目が覚めましたということでしょう。言い伝えられている「天上天下唯我独尊」とは、ちっぽけなエゴの世界に目が覚めて、大いなるいのちの世界に南無して生きる人生がひらかれ、二度と迷いの世界には帰らないという感動の言葉でしょう。それを浄土真宗では即得往生といいます。
 ともに仏道を歩んでいました謝花勝一さんは、2008年12月、52歳で亡くなられた。その歩みを通して、具体的に人間が生死を超えてゆく姿を私たちに教えて下さいました。(略)

(佐田尾)水鷦さん、志慶眞先生との出会いを聞かせて下さい。

(水鷦)以前の私は、ほとんど寝たっきりで、何のために生きるのかわからず、追いつめられてお先真っ暗でした。その時『中国新聞』で志慶眞先生の記事を見て連絡、手紙のやり取りで少しずつ仏法への目を開いてもらいました。全くの闇夜に先生は光を照らし続けて下さった。動けるようになって広島仏教学院に行くことを決心しました。そこで岩崎先生と出逢いました。
 お医者様は、元気に動いてきることが不思議とおっしゃっています。確かに今でも数値は悪いんですが、きっと眠っていた細胞が応援してくれているのだと思います。
 志慶眞先生は私に「念仏ばあさんになりなさい」とおっしゃいました。私もそうなりきりたいと思います。そして、ひとりでもふたりでもあなたの話を聞いてよかったよと、お役にたれてばと思います。私は、生きているべき人間ではありませんでした。でも多くの人達に育てて頂いて、その人達のエネルギーを注いでいただいて今があります。
 悲しいときにそのことを受け入れ大丈夫、仏さまがいてくださることを忘れないようにしています。

 ■ 悪い性格は直りません

(佐田尾)お二人がやりとりした手紙の中身について聞かせていただけますか?

(志慶眞)たえ(釋水鷦)さんからの最初の手紙は、「病気になるのは性格が悪いからだと人に言われ、自分もなんとかしたいと思っています。どうしたらその性格が直るんですか。」という内容でした。私は「悪い性格は直りません。(笑)」と返事しました、私自身、身に沁みて思います。「その悪い性格を仏さまに懺悔するのが浄土真宗です。」と書きました。私の中に煩悩があるのではない、百%の煩悩の身に名前をつけて私と言っているのです。だからこそ、仏様に南無して生きていくのです。

(水鷦)そう言われても、仏法を知らなかった私には意味が全く分かりませんでした。だから色んな疑問をそのままぶつけました。

(佐田尾)志慶眞さんは、水鷦さんに「念仏ばあさんになりなさい」とおっしゃったそうですが。その意味を教えて下さい。

 ■ 念仏ばあさんになりなさい

(志慶眞)それはまた,私自身へのことばでもあります。先程申しましたように、「活」のレベルで念仏を称えるということは、ないよりあった方がいいというレベルの念仏です。それでは生死の問題、死んでゆくという問題は超えられません。「念仏ばあちゃんになりなさい」と言うのは、「念仏者」、「ただ念仏」を生きる身になりなさいということです。
 石川県の和田稠先生によると、北陸の方では昔は「もう夜が明けましたか」と挨拶したそうです。「生の問題の解決がつきましたか」と言う意味でしょう。これが一番大切なことです。
 たえさんは、いろんな事を経験されてきました。お念仏をいただいて、自分の領解したことを話すだけで多くの人の救いになります。それを自覚して念仏ひとつで立ってほしい、念仏者になってほしいと思います。私もそのことを自分の生涯を通して、この身で証していきたいと思ってます。

(佐田尾)沖縄は祖霊信仰の強いところと聞きますが。

 ■ 沖縄から親鸞へ

(志慶眞)私は小学校から大学まで、死ぬ虚しさをどうにもできずにもがいていました。広島大学で『歎異抄』にであいました。それまでの自分は、あれが悪いこれが悪いと、周囲のことを変えて生死の問題を解決しようと必死になっていました。「歎異抄の会」に初めて参加したとき、『歎異抄』から「そう言っているあなた自身が問題ではないのですか」という問いが聞こえてきました。そこで初めて、私は仏道のスタートに立たされました。
 その後広島で六年間聞法を続け、浄土真宗が分かった気になっていました。しかし沖縄に帰ると、先祖崇拝のしきたりの強いところで、お念仏をいただくことがどういう事なのか途方に暮れてしまいました。自分が問題だということは分かっていましたから、聴かなかった昔には戻れません。てもどう歩めばいいのか分かりませんでした。何らかの手がかりを探して、親鸞聖人流罪の地・居多が浜も訪ねてみました。
 沖縄に帰る時にある先輩が「志慶眞君、沖縄の厳しい現実の中で分かるまで聞き抜いてくれ」と言う言葉をかけてくれました。その言葉がしきりによみがえり、沖縄に帰って5年目、原点に戻ってもう一度お念仏の話を聞くために、病院を開業するとき二階に聞法道場をつくる決心をしました。それでだめだったら浄土真宗をやめようというぎりぎりのところにいました。
 翌年、細川巌先生と関真和先生の往復書簡を手にしました。それが私にとって大きな転換点で、思いもよらず溢れでる涙のなかで、初めて浄土真宗の念仏の教えを受け取りました。
 沖縄は特殊だ特殊だと思っていました。しかし考えてみれば、仏教が伝わる前、インドではバラモン教、ヒンズー教、中国では儒教、道教、日本では神道がありました。つまり仏教は何もないところに伝わったのではなく、何らかの宗教があるところに伝わってきた。これが仏教の歴史でした。祖先崇拝の沖縄も特殊な状況ではないと気づいたとき、新しい視野が開けて力が湧いてきました。
 いつの時代でも、どの地域でも、誰にでも生死の問題は共通の課題です。仏教講演会も最初は数名の参加者でしたが,次第に増えて毎月40名前後の方が参加されます。

(質問) 私には出口の見えない中で生きている家族がいて、私に何が出来るかも分からなくなっています。

 ■ 私自身が仏道の場

(志慶眞) 『観無量寿経』では、阿闍世が父を殺し母韋提希も幽閉します。一般社会では、その息子をいかに改心させるかを問題にしますが、『観無量寿経』は悩み苦しんでいる韋提希あなた自身が問題なんですよと、韋提希を問題にします。阿闍世は阿闍世で『涅槃経』で問題にされます。私たちは、自分のことをさておいて相手を何とかしようします。向き合う方向が間違っています。私を問題にして歩むことがとても大切です。
 仏法を聞いたら世の中の全てが解決するということはない。起こるべき事は何でも起こります。仏法を聞くとは、その起こったことにどう向き合って生きていくかというその視点が恵まれるということです。「問題は常にある、問題は常に内にある」です。よく世間は仏道の場だと言いますが、世間をつくっているのは私の思いですから、私自身が仏道の場だと言えます。日々おこるさまざまな出来事を通して、仏法を頂き仏道を歩むことが大事なことでしょう。私も息子の問題で行き詰まった時、ともに限られたいのちを生きているその尊さを思った時、生きていく姿勢が変わりました。
                      (『西教寺報』掲載:修正加筆)

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