浄土真宗

生死を超える道としてのビハーラ活動

生死を超える道としてのビハーラ活動  

『自照同人』掲載(2013年) :志慶眞 文雄

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(1)ビハーラ医療団への参加  

 ビハーラ医療団に参加したのは、16年前、田代俊孝先生(同朋大学教授)から声をかけていただいたのがきっかけでした。

 今では毎年、全国のビハーラ医療団の仲間と再会するのが楽しみであるだけでなく、私の浄土真宗の学びにおいても大きな励みになっています。

 最初は、ビハーラ活動というと終末期医療・緩和医療などのイメージが強く、一小児科開業医とビハーラ活動は縁がないのではないかと思っていました。

 大きな病院の勤務医の時は、難病の子や亡くなる子を看取ることもありましたが、そうしたこととはかかわりのなくなった状況で、どうビハーラ活動と向き合えばいいのかわかりませんでした。

 それで、これまでのビハーラ活動やキリスト教のホスピス活動を知ることからスタートしました。

 田代俊孝先生や柏木哲夫先生(淀川キリスト教病院名誉ホスピス長)の著書、キューブラロスの『死ぬ瞬間』などの書物を取り寄せ、ビハーラという名前の由来、その活動内容や欧米のホスピスの現状、日本におけるホスピス活動の内容などを学びました。

 はじめて手にしたキューブラロスの『死ぬ瞬間』には驚きと感動を覚えました。

(2)あなた自身が問題ではないのですか?  

 私が浄土真宗の聞法を始めたのは、自らの病気とか医療の問題などに直面したからではなく、生ききれない死にきれないという自らの生死の問題に翻弄され、ゆきづまったからでした。

 十歳のある日、自分がいずれこの地上から消えてしまうという恐怖感とむなしさに襲われ、その日を境に生きていくのがつらくなり、誰か助けてくれという悲鳴をあげながら過ごしてきました。

 人間はいずれ必ず死にます。人類だって未来永劫、永遠に存在するわけではなく、いずれ絶滅します。

 そうであるならば、私たちが生きている意味とはいったい何だろうか。

 自分に死があっても人類が滅亡するにしても、なおかつ生きてよかったと言える世界が本当に開かれるのだろうか。

 それがないのならば、生きることは無意味でむなしいことではないのか。

 そのようなことを考えながら生きてきました。

 小学・中学・高校時代、生きるのがむなしいのは死があるからだと思っていましたが、大学時代のある日、ではもし千年、二千年、いや永遠に死なないとしたらむなしさを感じないで生きていけるかと問うたとき、今を生ききれないまま永遠に生きつづけるとしたら、それこそ永遠の生き地獄だと身震いしました。
 
 死があるのも確かにむなしいけれども、今を生ききれないことが自分の最大の問題だとはじめて気づきました。

 これは今から思えば仏道に直結するとても大切な気づきでしたが、ではどうしたら生きてよかったと言える世界が開かれるのかはわからないままでした。

 それで、どうせ死ぬ人生なら、小さい頃から興味を抱いていた「もののあることの不思議」を研究して死にたいと広島大学大学院に進学し素粒子研究を始めました。

 しかしいくらHow(どういう具合に)を研究してもWhy(なぜそうなのか)は解明できません。

 結局むなしさは深まるばかりで研究生活にゆきづまり退学しました。

 路頭に迷っている時、友人・知人の勧めもあって広島大学医学部に三十二歳で再入学しました。

 合格発表のあったその日に、真宗の教えを聞いていた妻に勧められて細川巌先生(福岡教育大学名誉教授)の「歎異抄の会」に参加しました。

 『歎異抄』そのものの話は難しくてわかりませんでしたが、ひとつ、はっきりしたことがありました。

 これまで大学院に行けば何とかなるか、医者になれば何とかなるかと、やるべき対象を変えることで生死の問題の解決をはかろうとしてきましたが、「あなたが生ききれない、死にきれないと苦悩しているのは、やるべき対象に問題があるからでなく、あなた自身に問題があるからではないのか」という問いを、私は『歎異抄』から聞きました。

 それは外に向いていた目が内に向く大きな転換点で、浄土真宗の教えを聞くきっかけとなりました。

 どう生死を超えるか、それが私の最大の課題でした。

(3)生死を超える道としてのビハーラ活動  

 
 終末期医療・緩和医療などの医療活動としかうつらなかったビハーラ活動は、私が直面していたこの生死の問題とは質の違う活動ではないかと考えながら、第一回ビハーラ医療団研修会へ参加しました。

 それから現在までの十六年間、生死を超えるという課題とビハーラ活動がどのように関わるのかを模索しながら実践してきました。

 この二つの関係をつなぐ大きなヒントになったのが「スピリチュアル」という概念でした。

 日本語で「霊的」と訳されることもありますが、必ずしも適切ではないということでそのまま「スピリチュアル」とカナ書きされています。

 人間の苦痛は「全人的苦痛(トータル・ペイン)」、つまり「身体的苦痛」だけではなく、「社会的苦痛」、「精神的苦痛」、「スピリチュアルな苦痛」などが複合したものであると言われます。

 「社会的苦痛」とは経済的不安、仕事を失う不安、家族の生活の不安など、「精神的苦痛」とはうつ状態、いらだち、病気が治らないかもしれない不安などです。「スピリチュアルな苦痛」とは、生きる意味への問い、死んだらどうなるのかなどの死の恐怖、自責の念などと言われます。

 私が長年翻弄されて来た「生ききれない死にきれないという生死の問題」はスピリチュアルな苦痛と言い換えることができます。

 多くの人にとって、病気になって身体的苦痛、社会的苦痛、精神的苦痛に直面してからスピリチュアルな問題に苦悶するのが一般的でしょうが、私は十歳の時から激しいスピリチュアルな苦痛に押し流されて来たというのが実感です。

 このスピリチュアルな苦痛にどう対処するかを考えながらビハーラ活動に取り組んできました。

 もちろんスピリチュアル以外の苦痛を軽減する手法を軽視しているわけではありません。

 たとえば「身体的苦痛」には「肉体の痛み」「呼吸困難」「嘔気・嘔吐」「全身倦怠感」などの苦痛症状がありますが、「肉体の痛み」ひとつとっても、おろそかにできない問題です。

 私の知人は、その父親が癌になり、優しい父親でしたが癌の末期、病棟中に響きわたる苦痛の叫びをあげながら亡くなったと無念の思いを語っていました。

 「肉体の痛み」の緩和がなければ、人はその苦痛で押しつぶされてしまいます。ですから苦痛を軽減する医学上の技術的な問題はとても重要です。

 諸外国のようにモルヒネなどで苦痛のコントロールをする方法が広く一般的に行われることを切に願っています。

 ただし、「身体的苦痛」だけではなく、「社会的苦痛」、「精神的苦痛」などへの対処は、スピリチュアルな問題、つまり「生死を超える」という仏教の根幹をなす視点の中で行われるべきであると、私は考えています。その意味することを考えてみましょう。

 「ビハーラ医療団」設立の「趣旨」には、

 我々、仏教を学んできた医療関係者は「ビハーラ医療団」を結成し、それぞれの場で、仏教精神にたって医療活動を行い、自ら学び、人をして教え信ぜしめるという「自信教人信」の立場で聞法し、交流、協力して社会に貢献していきたい。

とあります。

 ここで大切な視点は、医療活動の一部として仏教精神が必要だというのでなく、仏教精神にたって医療活動を行うということです。

 しかし現代の医療活動は、宗教精神(仏教精神)に立たない医療活動がほとんどでしょう。

 人間の理性や知識でもっていのちを対象化しての医療活動、つまり病気を診て人を見ない医療になっています。死は敗北としか見なされませんから延命第一の治療にならざるをえません。現代の医療活動が直面している矛盾や課題の一つの大きな原因がここにあります。

 一方、人間の苦痛を「全人的苦痛(トータル・ペイン)」ととらえるのはいいのですが、「スピリチュアルな苦痛」を「身体的苦痛」「社会的苦痛」「精神的苦痛」と並列的に考える姿勢に私は疑問を感じています。
 
 「スピリチュアルな苦痛」を他の医療活動と同じレベルで考えると、それは医療を円滑にするための一手段になってしまいます。

 しかしこれでは人の生老病死にかかわる大事な活動が、医療者や患者が自身を問う教えにはなりません。

 「スピリチュアルな苦痛」、つまり宗教の問題は、人間が生きていく上でもっと根源的な問題です。

(4)たもつところの他力の仏法なくは、なにをもてか生死を出離せん  

 では仏教精神にたっての医療活動とはどういうことでしょうか。

 どの人も死すべき生を生きていて、しかも死はいつおとずれるかわかりません。
 ですから「スピリチュアルな苦痛」、つまり「生死を超える」という課題は、死や病気に直面したときだけでなく、現に今、すべての人にとって大事です。
 ここにビハーラ活動は、癒しや療法の枠を超えているという深い意味があります。

 親しくしていただいた金沢の藤場常清先生(常讃寺前住職)から、かつてこういうお話をうかがったことがあります。
 北陸では人が亡くなりそうな時、お寺の住職が呼ばれて臨終説法をしますが、念仏がわからんと言っていた人でも浄土真宗の話を聞いてきた人は、いよいよとなった時「お念仏だけですよ」と言うとうなずいて往かれると。
 しかし、これまで仏法にご縁のなかった者は、いくら「お念仏だけですよ」と言ってもうなずくことができず不安なまま亡くなられることが多いと。
 日頃からお念仏に触れていることが大切ですと話されていました。

 『口伝鈔』の一節が思い出されます。
 『口伝鈔』とは真宗本願寺三世覚如上人の著で、かって本願寺二世如信上人から口伝えに聞いていた親鸞聖人の言行二十一ヵ条を弟子乗専に口授して筆記させた書です。

 十七条「凡夫として毎事勇猛のふるまい、みな虚仮たる事」に、仏法をいただく上でこれまで私が大切にしてきた言葉があります。
 親鸞聖人の生きておられた当時、世間一般では、愛着に引かれて死んでゆく者が悪道におちないように、妻子や親族など愛着の深い者を臨終のそばに近づけたり見せたりしてはならないと、引き離す習慣があったようです。
 しかしどんなに引き離して近づけなくしても、「たもつところの他力の仏法なくは、なにをもてか生死を出離せん。」とあります。
 現代語訳すると、「死んでゆくものが、他力の仏法を心に深くたもつことがなければ、なにによって生死の迷いを離れることができようか。」となります。

 この「たもつところの他力の仏法なくは、なにをもてか生死を出離せん。」という視点は、お念仏をいただきながら医療活動を行う私たちのビハーラ活動の原点でしょう。
 この視点がビハーラ活動の中心に据えられてはじめて、ビハーラ活動は生死を超える道、つまり生老病死を縁として医療者も患者も自分の有り様に目覚め、私たちを生かしている法に目覚めさせさせる仏道となります。

 二十年前に小児科医院を開院するとき二階に聞法道場をつくり、仏教講演会、仏教読書会などを開催しています。
 こうした活動を基盤としながら日常の医療活動をして行くことがそのままビハーラ活動であると私は認識しています。

(5)沖縄に帰っての模索  

 
 医学部卒業と同時に沖縄に帰りました。
 しかし、祖先崇拝がしきたりになっている日常生活の中で、浄土真宗の教えをどう受け取ればいいのか戸惑うことばかりでした。
 そのとき繰り返し聞こえてきたのは、広島を去るとき先輩が私にかけたひとつのことばでした。「志慶眞君、沖縄の厳しい現実の中でわかるまで聞き抜いてくれ。」このことばがよみがえる度にいつも、一歩を踏み出さなくてはと思いました。

 沖縄に帰って五年目(一九九二年)、小児科医院を開業するとき、二階に四、五十人ほどが入れる聞法道場を作ることにしました。
 これから十年間聞き続けて、生死が超えられないなら、親鸞の教えは自分に届かない教えだからやめるつもりの最後の決断でした。

(6)関真和先生と細川巌先生の往復書簡  

 開院翌年、日常の診療を終えて郵便物に目を通しているとき、私が広島で話を聞いた細川巌先生と、小学校の教師の関真和先生(五十六歳)の往復書簡が掲載された聞法通信を手にしました。
 その往復書簡は、関先生が癌で亡くなる一か月前に細川先生へ書かれた手紙と、細川先生からの返書でした。
 これを読んであふれるように涙がでてきました。
 その涙は、十歳の時からむなしくて生ききれない死にきれないと苦しんだ私の我執の喘ぎを洗い流し、はじめて生死を超える視点を開きました。

 この往復書簡との出あいがなければ、念仏の教えを今も聞いていたかわかりません。

 二〇〇四年NHKラジオ深夜便「こころの時代」に「生死を超える道へ」というテーマで出演したとき、この往復書簡を紹介しました。
 生死の問題で苦悩している多くの人々の琴線に触れたのでしょう、放送後、往復書簡が欲しいとの問い合わせが沢山よせられました。

 往復書簡はまさしく、『口伝鈔』の一節、「たもつところの他力の仏法なくは、なにをもてか生死を出離せん。」の具体例です。
 
 この往復書簡は、死に直面して苦悩している多くの人々に、これからも生死を超える視点を恵むに違いありません。
 そして、ビハーラ活動にたずさわっている人々にとっても、おおきな道しるべになることでしょう。

 ここに往復書簡の全文を紹介します。まず関先生が細川先生へあてた手紙です。
 

 合掌 先生、長い間ありがとうございました。このことばは何度いってもいい尽くすことができません。福岡学芸大学時代、本校で先生にお遇いし、仏法にあわせていただき、大きな世界のあることを知らせていただきました。あの当時二年制で教員になることも可能でしたが、四年制課程で本校に行けたことがいかに大きなことであったか、今にしてつくづく思います。先生にお遇いできたことが、最大の収穫でした。
 その後、卒業以来も久留米を中心に仏法を語っていただき、時に父のごとく、時に教育者ともなり、私を育んでくださいました。
 前後しますが、大学四年の時父がなくなり、その時先生にいただいた「日輪没する処、明星輝き出ずる如く、人生の終焉は永遠の生の出発である」ということばは、その当時私の大きな救いとなりました。そして、今、病床でこのことばをかみしめています。
 以来三十数年、先生のみ教を通し、夜晃先生、親鸞聖人、七高僧、釈尊と連綿とつらなる深い歴史観を頂きました。
 このことは私の人生をいかに豊かにしてくださったことでしょうか。また、教育をしていきます上でも大きな励みとなりました。
 お念仏「南無阿弥陀仏」をいただいた故に、生きることができ、お念仏いただいた故に死んでいけます。もし、お念仏におあいしていなかったら、今ごろこのベッドの上でのたうちまわっていると思います。肉体的にはたいへんきついです。すわるのもちょっとの時間でしかできないくらいです。でも、心は平安です。
 先生を通して、たくさんのお同朋をいただき、にぎやかです。
 先生、本当にすばらしい人生をたまわりましてありがとうございました。
 最後の一呼吸までは生きるための努力を続けます。
 先生、本当に長い間ありがとうございました。
 先生は、病気回復期ゆえ、どうかお体お大事になさってお同朋の大きな光となってください。
 ことばは尽くせません。ありがとうございました。
         平成五年六月二十四日        関 真和

 
 それに対して同じく癌を患っていた細川先生が、二日後の二十六日に返事を書かれます。

 関君、いよいよ大事な時になったなあ。
 この病気は後になるほど痛みが増すと聞いているが、君もさぞたいへんだろう。 
 慰めようもない。南無阿弥陀仏。
 南無阿弥陀仏におあいできて本当によかった。
 これが人生のすべてであった。
 私は昨年十二月以来入院して、このことをいよいよ知った。君も同じだと思う。本当に良かった。南無阿弥陀仏。
 人間、最後の場に立ったとき、心に残るものが二つあるという。
 一つは死んだらどうなるのかという問題。
 一つは残った者はどうなるのかということ。
 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向
 如来の至心回向によって、われらは信心念仏を賜わり、願生彼国と生きていく方向を知り、即得往生 住不退転 ここが浄土の南無阿弥陀仏となる。
 死ぬも南無阿弥陀仏、生きるも南無阿弥陀仏ただこのこと一つ。
 残った者は私の死を見て、何かを得て、それぞれの人生を歩む。
 私は願う、どうか良い縁を得て、この道に立ってくれよ、南無阿弥陀仏、と。
 このこと一つを願い、このこと一つを南無阿弥陀仏に托して歩んでゆく。
 すべてを如来におまかせして進むとは、この事である。
 こうして念仏道に立つ者には、残る問題は一つもない。
 関君、学芸大学時代から、田川、飯塚と、本当に長い間、よく聞法してくれた。有難う。君が一生かけて如来実在したもう証明者として生きてくれてうれしい。
 私の方が先に浄土に行っていると思ったが、君が先かもしれぬ。
 しかし、あともさきもない。皆、南無阿弥陀仏を生きゆくほか道はありえない。 
 よかった、よかった。君の人生、苦労もあり、誤りもあり、思うようにならなかったことも少なくなかったと思うが、人生の最後にあたって、感謝し、有難うございますと言える人は、白蓮華である。
 私は大分よくなった。あと何年かは働けるだろう。君の分も背負って、如来のため、報謝の一道を進みたい。
          六月二十六日       細川 巌


(7)「まなざし仏教塾」とホームページを開設  

 
 この往復書簡との出あいがきっかけで、沖縄で生死の問題で悩まれている人々が語りあえる場として、浄土真宗を聞法する「まなざし仏教塾」を一九九三年に立ち上げ、二〇〇九年にはホームページを開設しました。
 ホームページの案内文です。

 この仏教塾は、釈尊や親鸞聖人の教えを通して、生死の問題を中心にともに仏教を学びたい方に開かれた場です。
 仏教の教えに耳を傾けてみたい方、生死の問題で悩まれている方、身近な友人知人をさそって気軽においで下さい。
 宗派も年齢も男女も問いません。
 仏教は本来、人間の思い込みや偏見を照らす智慧の教え、《なるほど!》とうなづかれる大きな広い真実の世界を届ける教えです。

 《どう生死を超えるか》を活動の中心にしていますが、それは私の最大の課題であったというだけでなく、釈尊や親鸞聖人や蓮如上人に通底していた課題です。

 「まなざし仏教塾」を立ち上げてから約二十年になります。現在、毎月の「まなざし聞法道場」での仏教講演会には、五十人前後の方々が参加します。

(8)青年ゴータマ・シッダルタの苦悩  

 釈尊の出家の動機は、ご存知のとおり老病死の苦悩でした。
 釈尊は釈迦族の王子として生まれ、ゴータマ・シッダルタと命名されました。
 他から見れば何不自由のない恵まれた生活でしたが、老病死の課題をかかえたシッダルタには、城の生活は針のムシロだったに違いありません。
 とうとう二十九歳の満月の夜中、城を抜け出し出家します。
 残された妻子や両親の驚きと悲しみ、その衝撃はいかほどだったでしょうか。

 原始仏典には、青年シッダルタの苦悩のことばが沢山残されています。 ここに、仏教は何を問題にし、何を解決しようとしたのかが明らかです。

 人の命は何と短いことか。百歳にもならないのに、死なねばならなぬ。たといこれ以上ながく生きても結局、老衰のために死んでしまう。(『スッタニパータ』)

 愚かな者たちは、自分が老人になり、死ぬことを避けることができないのに、他人が老人になり死ぬのを見るといやがるが、考えてみると私もいつか老人になるのであり、死を避けることはできないのだから、他人が老人になり、死ぬのを見ていやがるべきではない。いま若くして、当分死なないといっておごり高ぶるものは、きっと自滅する。そう考えたとき、私の青春の喜びは、ことごとく断たれてしまった。(『中阿含経』)

 父王よ、私は今、恩愛の情を離れて、老病死を逃れる道を求めて家を捨てます。
 養母プラジャーパティーよ、私は苦しみのもとを断とうと思います。わが妻ヤショーダラよ、人の世には必ず別れの悲しみがある。私は、その悲しみのもとを断とうと思ったのだ。」(『方広大荘厳経』)

 私は十歳の時から生死の問題で悩んで来ましたが、これらの言葉に共感し釈尊の生涯に励まされてきました。

  釈尊よ
  あなたは二千五百年前
  老病死を見て苦悩し
  我々が命のごとく執着してやまない「国と財と位」を棄て
  老病死を超える道を求めて独りで旅立たれ
  苦悩の正体を見破り
  老病死を超える真理を明らかにされた
  あなたの命がけの求道がなかったら
  私は生きること死ぬことに苦しんで一生を終っただろう
  あなたを思うと胸があつくなる

 一度でいいから、釈尊が悟りを開いて、説法に歩かれたインドに行きたいとの夢を長年抱いてきました。それが二〇一一年ついに実現し、仏跡を巡る旅をしてきました。生涯忘れることのできない旅となりました。

(9)親鸞聖人の求道の原点と「生死出ずべきみち」  

 山を出でて、六角堂に百日こもらせ給いて、後世を祈らせ給いけるに、九十五日のあか月、聖徳太子の文をむすびて、示現にあずからせ給いて候いければ、やがてそのあか月、出でさせ給いて、後世の助からんずる縁にあいまいらせんと、たずねまいらせて、法然上人にあいまいらせて、又、六角堂に百日こもらせ給いて候いけるように、又、百か日、降るにも照るにも、いかなる大事にも、参りてありしに、ただ、後世の事は、善き人にも悪しきにも、同じように、生死出ずべきみちをば、ただ一筋に仰せられ候いしをうけ給わり‥…。(『恵信尼消息』)

 これは親鸞聖人の妻・恵信尼公の手紙の一節です。
 聖人が、比叡山を降りて六角堂に参籠され《後世を祈らせ給いける》こと、そして《後世の助からんずる縁にあいまいらせん》と法然上人を訪ねたことが記されています。
 つまり親鸞聖人の求道の原点は、「後世を祈る」「後世の助かるような縁に遇いたい」ということでした。
 その課題に応えたのが、法然上人の「生死出ずべきみち」だったのです。
 その「生死出ずべきみち」とは、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひと(法然)のおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」(『歎異抄』(第二条))とあるように、「ただ念仏」の道でした。
 蓮如上人の「後生の一大事」もまた同じ課題でしょう。

 「生死出ずべきみち」(「生死を超える道」)は、万人に共通する普遍的課題ですが、それを掘り下げると生死が見渡せる根源的な世界が明らかになります。

(10)「生」と「活」:人生には二つの課題がある  

 地震、津波、台風、洪水などが各地で起こっています。
 これは自然災害ですが、私たちの身心も煩悩に見舞われっぱなしです。 病を抱え、老いに不安を抱き、死の暗い影におびえ、愛するものとの別れに苦悩し、恨みや憎しみのなかで心身を焼かれ苦しみます。

 なぜこんなにも苦しいのか?
 なぜこんなにも寂しいのか?
 なぜこんなにも世界は悲惨なのか?
 何が問題なのか?

 この娑婆世界を生きることは、容易ならざることです。
 もしこのまま人生を終るとしたら、人生とはいったい何でしょうか。
 難度海といわれるこの人生に、解決の道はあるのでしょうか。

 私は、人生には生活の「生」と「活」の二つの課題があると考えています。
 
 「活」は一言でいえば、生きるためにどのようにパンを手に入れるかという課題です。
 日常の私たちのエネルギーのほとんどは、この「活」に費やされています。
 衣食住の問題、仕事の問題、健康の問題、どのように地位や名誉や財を手に入れるかなど、いわゆる世間一般の問題です。
 世界中が利潤・利益を上げることに血まなこになり、その結果、貧富の差は拡大し弱者は切り捨てられ、生活や雇用に不安を抱える人々が急増している今、パンを手に入れるという「活」にかかわるセーフティネット(「安全網」)を構築することは重要な問題です。

 しかしながら人生には、「パンを食べても死ぬ」という別の重要な問題があります。
 それが「生」の課題です。
 「どうせ死んでしまうのに、パンを食べるのにどんな意味があるの」という、生きることや死ぬことの意味を問う課題です。
 宮城しずか先生は「私が日1日と老いてゆき、そしてついには死んでしまうということが避けられない事実である以上、その事実をきっぱりと受けとめて生ききってゆける道こそが求められるのです」と言われました。
 人は100パーセント死にます。
 人類もいずれ滅亡します。
 死があっても虚しくないと言える人生は本当に開かれるのでしょうか。

 「活」と「生」は密接に関係しどちらも大切ですが、質的に次元が異なる問題です。

 しかし世間では、「活」と「生」の問題への意識が曖昧なため、地位や名誉や財や健康などの「活」でもって「生」の問題の解決を図ろうとします。
 私も長い間、素粒子を研究すれば何とかなるか、医者になれば何とかなるかと、「活」を充実させることで「生」の課題を乗り越えようと不安で眠れない夜を重ねてきました。
 しかし「活」でもって「生」の根本的解決を図ることはできませんでした。
 地位や名誉や財産などはないよりあったほうがいいでしょう。
 しかしそれらすべてが満たされていた釈尊がそうであったように、ないよりあったほうがいいという相対的なものでは「生」の課題はこえられません。
 ぜひともなければならないものでしかこえられません。
 そのぜひともなければならないものとは何でしょうか。
 それが宗教、仏教の課題ですが、その課題に真っ正面から取り組んだのが釈尊や親鸞聖人でした。

 

(11)生死を「越える道」と生死を「超える道」  

 私は、「生死をこえる道」には「越える道」と「超える道」があると考えています。
 その違いを、「活」と「生」の視点からながめてみます。

 強い人も弱い人も、真面目な人も不真面目な人も、やさしい人も強情な人もみな、自我に根拠をおいて「人生とはこんなものよ」と自らの思いを固めて生死をこえようとします。
 その手段が地位、名誉、財などです。これが「活」の次元で「生死を越える道」、いわゆる「世間道」です。
 この「世間道」に対して、インドの龍樹菩薩(150〜250年頃)は、

 世間道をすなわちこれ凡夫所行の道と名づく。(中略)凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたわず、常に生死に往来す。これを凡夫道と名づく。(『十住毘娑沙論』)

と喝破しました。

 日頃の私たちの物の考え方は妄念妄想だから真実の世界(涅槃)に至る事はなく、世間的な「活」でもって生死の問題を解決しようとする「生死を越える道」は、常に迷いの道を往来するだけであると。

 一方、地位、名誉、財ではなく、真実の道理・ダルマによって迷いをこえる道があります。
 これが「生」の課題に応える「生死を超える道」・仏道です。
 龍樹菩薩は、

 出世間は、この道に因って三界を出ずることを得るがゆえに、出世間道と名づく。(『十住毘娑沙論』)

と述べています。

 『歎異抄』(後序)には、「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」という親鸞聖人のことばがあります。
 「火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなき」が「活」の世界の様相、「ただ念仏のみぞまことにておわします」が「生」の世界の様相です。
 「ただ念仏(出世間道)」は、私たちの日頃のものの考え方(世間道・凡夫道)の延長線上にはなく、私たちの考え方を根底から転換して初めてうなずける世界です。
 つまり「活」と「生」は質的に次元が異なる問題であるとはそういうことです。
 それで、中国の善導大師(613〜681年)は、覚悟して仏法を求めることを渾身の力を込めて万人に呼びかけました。
 「今こそ活だけの迷いの世界から出よう!」と。
 「迷いの世界を出る」とは「生死を超える」ことですが、それは「生死をつらぬく永遠のいのち」の世界への目覚めを意味します。

(12)「生死をつらぬく永遠のいのち(阿弥陀仏)」への目覚め  

 宇宙万物の真実なる姿を一如・真如といいます。
 「如」とは一切のものが自他差別のない平等寂滅なる様です。
 その真如の中にありながら、自らの我愛・執着のために優劣、損得、自他など差別の世界に沈んで苦悩しているのが煩悩具足の私たちです。

 仏教が目覚めの教えであるとは、自らの迷妄に目覚め、私たちのいのちの帰依所である「生死をつらぬく永遠のいのち」を自覚する道だからです。

 私たちがひとりぼっちの孤独から救われるのは、その《如来のいのち》の通ったわがいのちであると知らされた時です。

 そのことを示す出来事を、親鸞聖人は『涅槃経』から『教行信証』(信巻)に丁寧に引用しています。

 阿闍世という王子が、父親である王・頻婆娑羅を殺すという王舍城の悲劇と言われている物語です。
 阿闍世は父を殺した後、後悔の念にさいなまれます。
 しかし釈尊の教えによって、ついに煩悩具足の身に如来への目覚めが起こります。このことを阿闍世は自ら「無根の信」と表現し、「我いま未だ死せざるにすでに天身を得たり。短命を捨てて長命を得、無常の身を捨てて常身を得たり。」と感動をもって語っています。

 また阿闍世の母(韋提希)は、息子によって夫が殺害されるという悲劇を前にして、取り乱し釈尊を責め号泣します。
 その韋提希も、釈尊の導きによって如来への目覚めが起こります。
 「韋提希、五百の侍女と、仏の所説を聞きて、時に応じてすなわち極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身(阿弥陀仏)および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生ず。未曾有なりと歎ず。廓然として大きに悟りて、無生忍を得。」(『観無量寿経』得益分)と、「生死をつらぬく永遠のいのち」に目覚め無生忍を得るという大変なことが起こります。

 無生忍とは、本来ものの真実の姿は生滅変化を超えていることを悟ることですが、釈尊が阿難に託した最後の願いは、「汝好くこの語を持て。この語を持てというは、すなわちこれ無量寿仏の名を持てとなり。」(『観無量寿経』流通分)でした。
 
 つまり南無阿弥陀仏の名号は不生不滅の真実法ですから、この名号を信受することが無生忍を得ることだったのです。
 そして親鸞聖人は、無生忍を得るとは不退の位・正定聚の位に定まることと同じであると見ていました。(『尊号真像銘文』)

 北海道・西念寺の坊守、鈴木章子(あやこ)さんのことが思い出されます。
 彼女は、42歳で乳癌と宣告され苦悩しますが、親鸞聖人の教えに導かれて「生死をつらぬく永遠のいのち」に目覚め、多くの感動的な詩を残し47歳で浄土に還られました。

  「生と死」 
       私にとりまして
       生と死
       同意語と肯けます

  「無題」   
       治っても
       治らなくても
       御手の中
       如来(あなた)まかせの
       この気楽さよ
       ナムアミダブツ
       ナムアミダブツ

  「生死」   
       長いいのちの歴史の中に
       今 私があることに気づかされたら
       生死のきれめが見えなくなりました

(13)お念仏が開く「生死が見渡せる絶対平等の地平」  

 阿闍世は、永遠のいのちに目覚めたとき「世尊、もしわれ審かによく衆生のもろもろの悪心を破壊せば、我常に阿鼻地獄に在りて、無量劫の中にもろもろの衆生のために苦悩を受けしむとも、もって苦とせず。」と釈尊に表明します。

 あれほど地獄に落ちることを怖れていた阿闍世が、もろもろの衆生を救済するためなら自らは阿鼻地獄に落ちても苦としないというのです。

 また阿闍世の母・韋提希も、「世尊、我いま仏力に因るがゆえに、無量寿仏および二菩薩を見たてまつることを得つ。未来の衆生、当にいかにしてか無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき。」(『観無量寿経』第七華座観)と、世尊が世を去られた後の人々は、どうすれば無量寿仏と二菩薩を見ることができるのでしょうかと、自分のことだけで精一杯だった韋提希が、釈尊亡き後の人々のことにまで思いを馳せます。

 人間が救われるとは、死があってもなおかつ虚しくないといえる絶対的真実への目覚めが成立することですが、それは生きとし生けるものが平等に存在せしめられている共なる根源的な世界が開かれることだったのです。

 阿闍世と韋提希の姿はこのことを教えています。

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