世間の成り立ち
世間の成り立ち
私とは別に、
「世の中に先天的に美しい花、汚い花という花はない。」
「世の中に先天的に雑草という植物はない。」
「世の中に先天的に食べ物という生き物はいない。」
私たちは、無意識に「美しい花」「汚い花」「雑草」「食べ物」などが、もともと自分とは別に存在していると思って生活している。しかし本当にそうだろうか?
「花」や「植物」や「生き物」とは、あるありように分別して名付けた名称である。「美しい花」「汚い花」「雑草」「食べ物」は、その分別した「花」「植物」「生き物」に、さらに私の価値判断で名付けた名称である。
世の中に「美しい花」「汚い花」」という花が先天的にあるのではない。私にとって「その花は美しい」。しかし、他の人にとっては必ずしもそうではない。私の六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)の中の眼識が、対象を美しい、あるいは汚いと判断しただけである。煩悩の眼(まなこ)を離れて「美しい花」「汚い花」が存在するわけではない。
しかし一旦「美しい花」「汚い花」が存在するかのごとく断定してしまうと、私たちはその価値判断に引きずられてしまう。
都合の悪い植物を「雑草」といい、世の中の生き物を「食べ物」にしてしまうのは私である。
こうしたことを考えると、釈尊の「象頭山」での『燃える火の教え』が思い出される。
修行者たちよ、すべてのものは燃えている。修行者たちよ、すべてのものは燃えているとはどういうことであるか。
修行者たちよ、眼は燃えている。眼の対象であるもろもろの形あるものは燃えている。眼の認識活動は燃えている。眼と形あるものとの認識活動との接触は燃えている。眼との接触によって生ずる感受せられたものは、楽しいものであっても、苦しいものであっても、それもまた燃えている。
何によって燃えているのか。貪欲の火によって、瞋恚の火によって、愚痴の火によって燃えている。生老死という憂い、悲しみ、苦しみ、嘆き、悩みによって燃えていると私は説く。
釈尊は六識すべてを同じように表現している。誠なるかな釈尊の説法。
・・・ 耳は燃えている。・・・
・・・ 鼻は燃えている。・・・
・・・ 舌は燃えている。・・・
・・・ 身は燃えている。・・・
・・・ 意は燃えている。・・・
一事が万事、世間はそのようにして形づくられている。私を離れて、世間、娑婆があるわけではない。だから私の六識が終わるとき、私の世間も終わる。
2005,8