浄土真宗

小児科医として

 小児科医として   

小児科医になって二十数年が経ちました。
 勤務医の頃に遭遇した子供たちの死。今でも忘れられない悲しい思い出です。
 大学病院に勤務していた時、白血病の治療で髪の毛が抜け落ち、まるこめ頭になった目がくりくりしたやんちゃなゆうじ君がいました。主治医ではありませんでしたが、当直のときなどよくゆうじ君を遊ばしながら、お母さんと話しをしました。お母さんはもともと看護婦でしたが、ゆうじ君の為に退職して付きっきりでした。
 ある日、お母さん、元気がありません。「どうしたの」とベッドの脇に腰をおろして話しかけました。ゆうじ君、今は元気だけどどうも予後はよくないらしい。
 「先生、この子は一年後にはもういないんですよね。ゆうじがわがままを言ったとき、一年後にはいないと思うと、きびしくしつけるべきなのか、それとも好きなようにさせるべきなのかよくわからなくなるんですよ」と、目を真っ赤にして泣きだしました。そばにいて話しを聞くことだけしかできません。
 抗がん剤の定期的な治療の痛みと嘔吐で、苦しさのあまり死んだように萎えてしまう我が子をみて、どの親もうちひしがれてしまいます。『維摩経』の維摩は「衆生病む、故に我病む」と言われました。まさしく「子病む、故に母病む」です。
 わが子の死と向き合わなければならない母親の姿ほど悲しいものはありません。亡くなる我が子の死が受け入れられなくて、取りすがって大声で泣いていたお母さん。
「もう十分痛い思いをして頑張ったよね。もう苦しまなくていいよ。ゆっくり休んでね」と、目にいっぱい涙をためていつまでもいつまでも子供のまくらもとで頭をなでていたお母さん。亡くなる我が子に「お母さん、また生んでね」と言われて、胸が張り裂けるように嗚咽していたお母さん。人の世の無常、不条理が胸をよぎります。
 私が、関連病院に出向して大学病院にもどった一年後には、もうゆうじ君の姿はありませんでした。お母さんは、遠く離れた田舎へ帰ったと聞きました。年月は立ちましたが、愛する子供と別れなければならない胸をえぐられるような深い悲しみを抱えてどうしておられるでしょうか。きっとまるこめ頭のゆうじ君は、今もお母さんの胸の中で生き、二人三脚の人生に違いありません。病と死は人生に愛と哀しみを深く刻み込みます。
 私は32歳で医学部に再入学し、はるかに遅い医者としてのスタートでした。医学
部在籍中に生まれた長男が、新生児血液型不適合で黄疸が急激に進行したため、産婦人科医院から広島市民病院に緊急で転送しました。赤血球が急速に壊れて大量のビリルビンで新生児黄疸を引き起こしたのです。ほっておくと脳の基底核にビリルビンが沈着して、脳性麻痺やけいれん、四肢麻痺、発達障害をひきおこす可能性があり、転院するやいなやすぐ交換輸血がおこなわれました。一方でビリルビンが大量に含まれた血液を抜きながら、他方から新鮮な血液を輸血して血液を入れ替えます。私が医学生ということで小児科医が交換輸血に立ち会わせてくれました。新生児室に毎日通いながら元気になって保育器のなかで寝ている子供をみて、卒業したら小児科医になろうと決心したことが、昨日のことのように思いだされます。
 開業してからは子供たちの死に遭遇することはなくなりましたが、医者としてのスタート地点で、今は亡き子供たちとそのご家族から老病死にどう向き合うべきかの課題をいただきました。わが子もいつかは必ず亡くなる身を生きているんだと思うだけで、悲しさと愛おしさがこみ上げてきました。そこからはじめて人生に向き合う新しい視点が生まれてきたように思います。
 毎日の仕事で忙しいお母さんたちは、子供が病気をすると困ってしまいます。でも幼い頃、お母さんが熱を下げる為に夜通し頭を冷やしてくれたこと、おかゆをひとさじひとさじ口に運んでくれたことなど、親子の触れ合いの思い出は人生を豊かに彩ってないでしょうか。
 元気にいきなり顔を見せに来る子供、泣いてばかりいる子供など小児科は朝から大にぎわいです。小さなボーイフレンドやガールフレンドから新鮮なパワーをもらいます。毎日の子供たちとの交流は楽しく、小児科医でよかったと思うこの頃です。

2008,4

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