浄土真宗

今日のことば

今日のことば                            

                    a:1947 t:5 y:0      from 2018.3.9

「煩悩の眼(まなこ)」と「法の眼(まなこ)」           

志慶眞 文雄

 煩悩とは身を煩わし心を悩ますはたらであるが、それは人間の分別から起こる。その分別を通して見る視点を「煩悩の眼」という。「煩悩の眼」は生まれては死ぬ命、つまり「生死する命」を見る。それが分別を根拠にした人間の知性や感情が見る世界、娑婆の様相である。
 一方、一切を支えている法(ダルマ)は、人間の知性や感情の次元を超えている。煩悩が人間の分別の領域に属するのに反して、法は無分別の領域に属する。人間の知性や感情ではうかがい知れない、人間の一切の概念、文字や言葉などの表現を超えている未知の領域である。
 しかし分別でしかものを認識できない人間は、法(ダルマ)を仮に名付けて涅槃、一如、真如、法性法身、安楽、極楽などと表現している。その法は、法というだけに止まらない。人間の知性や感情にはたらきをなしている。眼に見えるものは眼に見えないものに触れている、聞こえるものは聞こえないものに触れている。分別は分別できないものに触れている。
 「分別は役に立つけど末通らない。」
 分別で生きているものには、分別は役に立つ。しかし、末通らない。末通らないとは、それでは死んでいけないと言うことである。なぜなら分別の命、生死する命が私たちを生かしているのではないからである。法のはたらき、無分別のいのち、阿弥陀のいのちが私たちを生かしているのである。この阿弥陀のいのちに出遇わなければ、いのちの根源に気づかないまま人生を終わることになる。気づかないときも法のはたらき(阿弥陀のいのち)に生かされていたのであるが、生死する命(煩悩の命)で生きていると思っている。しかし、気がつけば生死する命は阿弥陀のいのちである。阿弥陀のいのちと生死する命と二つあるのではない。不一不二(一つにして二つ、二つにして一つ)である。それを生死即涅槃、煩悩即菩提と言う。
 この「法の眼」が開かれて初めて「煩悩の眼」の世界をそれとも知らず生きてきたことがわかる。これを信心という。しかし「法の眼」が開かれても「煩悩の眼」は無くならない。「煩悩の眼」は「法の眼」の支配下に置かれることになり、「法の眼」のはたらきを証明するものとなる。「氷多きに水多きである。」

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