浄土真宗

今月のことば

今月のことば  

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         ヘブンリーブルー

仏教(他力)の「われーなんじ」とは  

志慶眞 文雄
                         2022、2、13
      分別 :「われーそれ」「われーなんじ」の世界
      無分別:「われ」も「それ」も「なんじ」も無い世界

 マルティン・ブーバーの「われーなんじ」

 ブーバーは、世界は二つあると言われた。「われーそれ」の「われ」を生きる世界と「われーなんじ」の「われ」を生きる世界があると。「それ」と呼びかける「われ」と「なんじ」と呼びかける「われ」の二つの「われ」が存在することを意味する。
 しかしながら、私が「それ」「なんじ」と呼びかけている限り、「それ」も「なんじ」も私の分別で対象化された「それ」「なんじ」でしか無い。「われーなんじ」の「なんじ」は、「われ」によって呼びかけられる「God(神)」である。「なんじ」は「われ」では無い。

 仏教(他力)の「われーなんじ」
 「われーそれ」を生きる世界と「われーなんじ」のわれを生きる二つの世界があること、つまり「われーそれ」の「われ」と「われーなんじ」の「われ」の二つの「われ」が存在することは同じである。
 しかし、私が「それ」「なんじ」と呼びかけている限り、「それ」も「なんじ」も、私の分別で対象化された「それ」「なんじ」でしか無い。
 仏教はその人間の分別を超えた世界を説く。人間の一切の分別を超えた無分別の世界、「われ」も「それ」も「なんじ」も無い法の世界を一人の人間の上に開く教えである。仏教の「涅槃」の世界である。「われ」も「それ」も「なんじ」も無い世界が分別でしか生きてない私に「なんじ」と呼びかけている。それが「法爾」、法(ダルマ)の働きである。「分別の迷いを超えて大いなる世界に帰れ!」との如来の「なんじ」という呼びかけを南無阿弥陀仏(本願念仏・18願)という。この呼びかけに目覚めた「われ」が、「われーなんじ」の「われ」である。だから「なんじ」は「われ」であり、「われ」は「なんじ」である。


2021年6月27日  

志慶眞 文雄

 皆さん、いかがお過ごしですか。
 私はコロナ感染予防のワクチンを5月に2回接種しました。1回目の接種後は筋肉痛と倦怠感だけでしたが、2回目の接種後は微熱、倦怠感があり気分不良が2〜3日つづきました。ワクチンを2回接種したのでとりあえず一安心です。 しかし、コロナ感染者があいかわらず近くで報告されているため、発熱患者はフェイスガード、マスク、手袋をして外で診察する日々が続いています。
 一日もはやく多くの方のコロナ感染予防のワクチン接種が終わる事を願っています。収束しないパンデミックはないので、それまでお互い感染予防に気をつけたいですね。


意味を超えた存在  

志慶眞 文雄

人は「生きる意味」・「人生の意味」を問う
その問いを発するのは
高次の思考や言語をつかさどる大脳皮質が発達した
人間のみである
二足歩行をなし言葉を話す代償として
人間は迷いの言葉(「生きる意味」・「人生の意味」)を発するようになった
意味が有るか無いかの問いは
人間の虚妄分別の迷いの世界のことばである
そこに生きる意味を探し求めても答えなどあろうはずがない

一切の生きとし生けるものは意味を超えた存在だから

如来の御いのち  

志慶眞 文雄

当然と思っていたことが不思議と思えた時
生も死も老いも病も皆不思議になった

萌え出ずる新芽も不思議
舞い落ちる枯葉も不思議

堅い殻の闇の中で
生ける屍となって空しく過ごした日々

腐る以外ないと思えた身に
かけられていた誓願の不思議

如来の御いのちには分断された生も死もない
生きるも如来の御いのち
死ぬるも如来の御いのち


三毒(貪欲・瞋恚・無明)の成り立ち  

                                  志慶眞 文雄

 貪欲(とんよく)・瞋恚(しんに)・無明(むみょう)を仏教では三毒の煩悩と言い、私たちの人生を台無しにするほどの猛毒にたとえる。
   貪欲 … 自己の欲するものへの深い執着
   瞋恚 … 怒り、腹立ち、憎しみ
   無明 … 道理に暗いことで、愚痴とも言う
 貪欲と瞋恚は、私たちの自己中心的な分別(勝った・負けた、好き・嫌い、得した・損した、等)から引き起こされる。一切は私たちの分別を超えた無分別のはたらきの中にあるが、そのことがわからないことと自らの虚妄分別を根拠に生きる姿勢を無明という。この自らの迷いの姿を明白に知るはたらきを般若(はんにゃ)(智慧)といい、その智慧の成立を信心という。


生死を超えた真実の世界  

                                  志慶眞 文雄

 「 死を思い、死を見つめる事だけが真実の人生を作り出す。汝よく聞くがよい、死は誰にでも起こることである。この世界から外に行くのは汝ひとりではない。この世に執着を残してはならない。執着してもこの世にとどまることは不可能である 」と仏教経典は説く。
 しかしこの事実を「生に執着し死をいみ嫌う人間の煩悩」は拒絶する。仏法(真実の道理)はこの人間の煩悩を照らしだし、「生きるも南無阿弥陀仏、死ぬも南無阿弥陀仏、ただこのこと一つ」という生死を超えた真実の世界を届ける。


人類の絶滅  

 地球の生物は過去に五度絶滅したことがある。次の六番目の絶滅の危機の兆候は、化石エネルギーの枯渇や気候変動(温暖化、水不足、大災害など)としてすでにあらわれている。たとえ今すぐ温室効果ガスの排出を全面的にやめても、気候の温暖化は何十年も続く。各地で一層の自然破壊が進み、飢饉や経済危機で戦争の危険が世界中で高まるだろう。(『崩壊学』)
 「私たちは絶滅にさしかかっているのに、あなたたち大人が話すのは金のことと、永遠の経済成長というおとぎ話だけ。何ということだ。」(グレタ・トゥンベリ)

仏教とは  

                                  志慶眞 文雄
       
仏教とは
私を照らす智慧の教えである
私が立つ大地と
その大地に立つ私を
明らかにする教えである
これは人生の一大事である

われわれは目があればものが見えると思う
しかし目があっても光がなければものは見えない
光とは智慧である
智慧の光は
無始以来の私の闇を一瞬にして照らしだし
私が立つべき広い天地を恵む

分別は、分別できないものに触れている   

志慶眞 文雄

 法(ダルマ)は、私たちの知性や感情ではうかがい知れない未知の無分別の領域に属する。人間の一切の概念、文字や言葉などの表現を超えている。しかし、法は法というだけに止まらない。人間の知性や感情にはたらきをなしている。
     見えるものは、見えないものに触れている。
     聞こえるものは、聞こえないものに触れている。
     分別は、分別できないものに触れている。

この地上から消える時がいつか来る  

志慶眞 文雄

この地上から消える時がいつか来る
この地上から消える時が必ず来る
このことを呪文のようにとなえて生きてきた
この事実を領解するためだけの
一生であったような気がする
どう領解したか?
  一切は法(ダルマ)である
  一切はおまかせである
長かった悪戦苦闘の日々、出遇った言葉が心に響く
「人の一生は、命の捨て場のみつかるまでのもがきです」
「死ぬも南無阿弥陀仏、生きるも南無阿弥陀仏ただこのこと一つ」


「煩悩の眼(まなこ)」と「法の眼(まなこ)」  

志慶眞 文雄
 煩悩とは身を煩わし心を悩ますはたらであるが、それは人間の分別から起こる。その分別を通して見る視点を「煩悩の眼」という。「煩悩の眼」は生まれては死ぬ、つまり「生死する命」を見る。それが分別を根拠にした人間の知性や感情が見る世界、娑婆の様相である。
 一方、一切を支えている法(ダルマ)は、人間の知性や感情の次元を超えている。煩悩が人間の分別の領域に属するのに反して、法は無分別の領域に属する。人間の知性や感情ではうかがい知れない、人間の一切の概念、文字や言葉などの表現を超えている未知の領域である。
 しかし分別でしかものを認識できない人間は、法の世界を仮に名付けて涅槃、一如、真如、法性法身、安楽、極楽などと表現している。その法は法というだけに止まらない。人間の知性や感情にはたらきをなしている。眼に見えるものは眼に見えないものに触れている、聞こえるものは聞こえないものに触れている。分別は分別できないものに触れている。
 分別は役に立つけど末通らない。分別で生きているものには分別は役に立つ。しかし末通らない。末通らないとは、それでは死んでいけないと言うことである。なぜなら分別した生死する命が私たちを生かしているのではないからである。私たちを生かしているのは、法のはたらきである無分別のいのち、阿弥陀のいのち(無量寿)である。この阿弥陀のいのちに出遇わなければ、いのちの根源に気づかないまま人生を終わることになる。気づかないときも法のはたらき(阿弥陀のいのち)に生かされていたのであるが、生死する命(煩悩の命)で生きていると思っている。しかし、気がつけば生死する命は阿弥陀のいのちである。阿弥陀のいのちと生死する命と二つあるのではない。不一不二(一つにして二つ、二つにして一つ)である。それを生死即涅槃、煩悩即菩提と言う。
 この「法の眼」が開かれて初めて「煩悩の眼」の世界をそれとも知らず生きてきたことがわかる。これを信心という。しかし「法の眼」が開かれても「煩悩の眼」は無くならない。「煩悩の眼」は「法の眼」の支配下に置かれ、「法の眼」のはたらきを証明するものとなる。「氷多きに水多し、障り多きに徳多し」である。

いのちの根源へ南無  

志慶眞 文雄        

     目を閉じて感じてみよう
     こうして存在することの不思議を

     存在って何だろう
     庭に咲く小さな花も
     緑の木々も
     吹きわたる風も
     青い海も
     太陽も
     一切が不思議

     人間を支えているものは
      人間でないものも支えている
     生命を支えているものは
      生命でないものも支えている
     生を支えているものは
      死も支えている
     これは私たちの置かれている世界の
     根源的な事実

     無条件に許され
     一切は賜ったものであると思えたとき
     ちっぽけな心に
     尽きることのない喜びの泉が湧き出る

     嬉しい時
     悲しい時
     苦しい時
     つらい時
     さびしい時
     不思議の真只中で
     いのちの根源ヘ南無して生きる

詩人:丸山薫  

       犬は跣足(はだし)なり

     ある日みんなと縁側にいて
     ふいにはらはらと涙がこぼれおちた
     母は眼に埃(ほこり)でもはいったのかと訊き
     妻は怪訝(けげん)な面持をして私をみた
     私は笑って紛(まぎ)らそうとしたが
     溢れるものは隠す術もなかった
     センチメンタルなと責める勿れ
     実はつまらぬことが悲しかったのだ

     愛する犬 綿のような毛竝(けなみ)をふさふささせ
     私たちよりも怜悧(れいり)で正直な小さい魂が
     いつも跣足(はだし)で地面から見上げているのが
     可愛そうでならなかったのだ

草野 天平(「ひとつの道」より)  

       宇宙の中の一つの点

     人は死んでゆく
     また生れ
     また働いて
     死んでゆく
     やがて自分も死ぬだらう
     何も悲しむことはない
     力むこともない
     ただ此処に
     ぽつんといればいいのだ

映画「あん」(監督:河瀬直美)  

トクチャン(樹木希林)のことば 

    私たちは
    この世を見るために 聞くために
    生まれて来たのだとすれば
    何かになれなくても
    私たちは
    私たちには
    生きる意味があるのよ

折々のことば(鷲田清一)(朝日新聞:2018・3・27)  

「無い」という状態を知っているからこそ、「有る」ということがありがたい。
                                    磯田道史

 すぐに散る桜の愛おしさも、震災で気づかされたただ「有る」ことのありがたさも、ここに理由があると歴史学者は言う。「ただ生きているだけ」の人生を人はつい否定的にとらえるが、多くの宗教が教えるように、「ただ生きている」ということは何かの欠如ではなく、それこそが一つの奇蹟的ともいえる達成なのである。

国文学者・中西進との対談「天災と人災」(「潮」4月号)から。


信心とは、自分の死(「一人称の死」)が見れる視点が開かれること  

                           志慶眞 文雄(2018.3.9) 
 自分の死(「一人称の死」)を見るのは、裸眼で太陽を見る様なもので不可能だと言う喩えがありますが、それは、自分の死(「一人称の死」)を自我の煩悩の眼(まなこ)で見ようとるから不可能なのです。
 自分の死(「一人称の死」)を見るという、不可能としか思えないことが成立するのが信心です。信心とは、如来の眼で自分の死(「一人称の死」)が見れるということです。「阿弥陀のいのち」に目が見開かれるから、「生死する自我の命」を捨てることがで可能です。信心が成立するとは、「阿弥陀のいのち」を生きる人生が開かれるということです。
 親鸞聖人の「雑行を棄てて本願に帰す」とは、「生死する自我の命を棄てて阿弥陀のいのちに帰す」ということです。

   《 浅原才市さんのうた 》 
     わたしや 臨終すんで 葬式すんで
     みやこ(浄土)にこころ住ませてもろうて
     なむあみだぶと浮世にをるよ。


三帰依文(意訳)    志慶眞文雄まなざし仏教塾)  

この世に人間として生まれることは希有なこと。この世で仏法を聞く機会に遇うのはさらに希有なこと。それなのに今、こうして人間として生まれ、仏法を聞く機会に恵まれたということは何と尊いことか。

もし人間に生まれたこの機会に、迷いを超えることができなければ、いったいいつ迷いを超えることができよう。

共に仏法を聞くご縁に恵まれた皆さんと、三宝(仏・法・僧)を依りどころとして人生の迷いを超えていきたい。



私の人生に何がおころうと、仏を依りどころに生きてゆきます。多くの人々と共に、迷いを超える真実の道に目覚めたい。

私の人生に何がおころうと、法を依りどころに生きてゆきます。多くの人々と共に、仏教の御教えを深く学び、迷いを超えてゆく真実の智慧をいただきたい。

私の人生に何がおころうと、生涯をかけて仏法を届けた沢山の師と仏法で結ばれた大切な仲間を依りどころに生きてゆきます。多くの人々の願いを我が願いとし、人生にいかなる苦難があろうと共に迷いを超えてゆきたい。



仏法の深い御教えに遇うことは希有なできごと。それなのに今、その御教えを聞き、我が身の上に受けとめる機会に恵まれたということは何ということでしょう。人生の深い意義を説く如来のおこころを、生涯をかけていただいてゆきます。南無阿弥陀仏。


「祝婚歌」 吉野弘   

  二人が睦まじくいるためには
  愚かでいるほうがいい
  立派すぎないほうがいい
  立派すぎることは
  長持ちしないことだと気付いているほうがいい

  完璧をめざさないほうがいい
  完璧なんて不自然なことだと
  うそぶいているほうがいい

  二人のうちどちらかが
  ふざけているほうがいい
  ずっこけているほうがいい

  互いに非難することがあっても
  非難できる資格が自分にあったかどうか
  あとで疑わしくなるほうがいい

  正しいことを言うときは
  少しひかえめにするほうがいい
  正しいことを言うときは
  相手を傷つけやすいものだと
  気付いているほうがいい

  立派でありたいとか
  正しくありたいとかいう
  無理な緊張には
  色目を使わず
  ゆったり ゆたかに
  光を浴びているほうがいい

  健康で 風に吹かれながら
  生きていることのなつかしさに
  ふと胸が熱くなる
  そんな日があってもいい

  そして
  なぜ胸が熱くなるのか
  黙っていても
  二人にはわかるのであってほしい

   

「父は空 母は大地」  

ネイティブアメリカンの大首長シアトルの言葉 (寮 美千子・編訳)

 1854年、アメリカの第14代大統領フランクリン・ピアスは、ネイティブアメリカン(インディアン)たちの土地を買収し居留地をあたえると申しでた。
 1855年、ネイティブアメリカンの大首長シアトルは、この条約に署名。これはシアトル大首長がアメリカ大統領に宛てた手紙である。

ワシントンの大首長(アメリカ大統領)へ そして 未来に生きるすべての兄弟たちへ

   はるかな空は 涙をぬぐい
   きょうは 美しく晴れた。
   あしたは 雲が空をおおうだろう。
   けれど わたしの言葉は 星のように変わらない。

   ワシントンの大首長(アメリカ大統領)が 土地を買いたいといってきた。

   どうしたら 空が買えるというのだろう?
   そして 大地を。
   わたしには わからない。
   風の匂いや 水のきらめきを
   あなたはいったい どうやって買おうというのだろう?

   すべて この地上にあるものは
   わたしたちにとって 神聖なもの。
   松の葉の いっぽん いっぽん
   岸辺の砂の ひとつぶ ひとつぶ
   深い森を満たす霧や 
   草原になびく草の葉
   葉かげで羽音をたてる 虫の一匹一匹にいたるまで
   すべては 
   わたしたちの遠い記憶のなかで
   神聖に輝くもの。

   わたしの体に 血がめぐるように
   木々のなかを 樹液が流れている。
   わたしは この大地の一部で
   大地は わたし自身なのだ。

   香りたつ花は わたしたちの姉妹。
   熊や 鹿や 大鷲は わたしたちの兄弟。
   岩山のけわしさも 
   草原のみずみずしさも
   小馬の体のぬくもりも
   すべて おなじひとつの家族のもの。

   川を流れるまぶしい水は 
   ただの水ではない。
   それは 祖父の そのまた祖父たちの血。
   小川のせせらぎは 祖母の そのまた祖母たちの声。
   湖の水面にゆれる ほのかな影は
   わたしたちの 遠い思い出を語る。

   川は わたしたちの兄弟。
   渇きをいやし
   カヌーを運び
   子どもたちに 惜しげもなく食べ物をあたえる。

   だから 白い人よ
   どうか あなたの兄弟にするように
   川に やさしくしてほしい。

   空気は すばらしいもの。
   それは 
   すべての生き物の命を支え 
   その命に 魂を吹きこむ。
   生まれたばかりのわたしに
   はじめての息を あたえてくれた風は
   死んでゆくわたしの
   最期の吐息を うけいれる風。

   から 白い人よ
   どうか この大地と空気を
   神聖なままに しておいてほしい。
   草原の花々が甘く染めた
   風の香りを かぐ場所として。

   死んで 星々の間を歩くころになると
   白い人は 
   自分が生まれた土地のことを 忘れてしまう。
   けれど 
   わたしたちは 死んだ後でも
   この美しい土地のことを 決して忘れはしない。
   たしたちを生んでくれた 母なる大地を。

   わたしが立っている この大地は
   わたしの祖父や祖母たちの灰から できている。
   大地は わたしたちの命によって 豊かなのだ。

   それなのに 白い人は
   母なる大地を 父なる空を
   まるで 羊か 光るビーズ玉のように 
   売り買いしようとする。
   大地を むさぼりつくし
   後には 砂漠しか残さない。

   白い人の町の景色は わたしたちの目に痛い。
   白い人の町の音は わたしたちの耳に痛い。

   水面を駆けぬける 風の音や
   雨が洗い清めた 空の匂い
   松の香りに染まった やわらかい闇のほうが 
   どんなにか いいだろう。
   ヨタカの さみしげな鳴き声や 
   夜の池のほとりの 
   カエルのおしゃべりを 聞くことができなかったら
   人生にはいったい どんな意味があるというのだろう。

   わたしには わからない。
   白い人には なぜ
   煙を吐いて走る 鉄の馬のほうが 
   バッファローよりも 大切なのか。
   わたしたちの 命をつなぐために
   その命をくれる バッファローよりも。

   わたしには あなたがたの望むものが わからない。

   バッファローが 殺しつくされてしまったら
   野生の馬が すべて飼いならされてしまったら
   いったい どうなってしまうのだろう?
   聖なる森の奥深くまで
   人間の匂いがたちこめたとき
   いったい なにが起こるのだろう?

   獣たちが いなかったら
   人間は いったい何なのだろう?
   獣たちが すべて消えてしまったら
   深い魂のさみしさから 人間も死んでしまうだろう。

   大地は わたしたちに属しているのではない。
   わたしたちが 大地に属しているのだ。

   たおやかな丘の眺めが 電線で汚されるとき
   薮は どうなるだろう?
   もう ない。
   鷲は どこにいるだろう?
   もう いない。
   足の速い小馬と 狩りに別れを告げるのは
   どんなにか つらいことだろう。
   それは 命の歓びに満ちた暮らしの終わり。
   そして
   ただ 生きのびるためだけの戦いがはじまる。

   最後の赤き勇者が
   荒野とともに消え去り
   その記憶をとどめるものが
   平原のうえを流れる雲の影だけになったとき
   岸辺は 残っているだろうか。
   森は 繁っているだろうか。
   わたしたちの魂の ひとかけらでも
   まだ この土地に残っているだろうか。

   ひとつだけ 確かなことは
   どんな人間も 
   赤い人も 白い人も 
   わけることはできない ということ。
   わたしたちは結局 おなじひとつの兄弟なのだ。
   わたしたちが 大地の一部であるように
   あなたがたも また この大地の一部なのだ。
   大地が 
   わたしたちにとって かけがえがないように
   あなたがたにとっても かけがえのないものなのだ。

   だから 白い人よ。
   わたしたちが 
   子どもたちに 伝えてきたように
   あなたの子どもたちにも 伝えてほしい。
   大地は わたしたちの母。
   大地にふりかかることは すべて 
   わたしたち
   大地の息子と娘たちにも ふりかかるのだと。

   あらゆるものが つながっている。
   わたしたちが この命の織り物を織ったのではない。
   わたしたちは そのなかの 一本の糸にすぎないのだ。

   生まれたばかりの赤ん坊が
   母親の胸の鼓動を したうように
   わたしたちは この大地をしたっている。
   もし わたしたちが 
   どうしても 
   ここを立ち去らなければ ならないのだとしたら
   どうか 白い人よ
   わたしたちが 大切にしたように
   この大地を 大切にしてほしい。
   美しい大地の思い出を 
   受けとったときのままの姿で 
   心に 刻みつけておいてほしい。
   そして あなたの子どもの 
   そのまた 子どもたちのために
   この大地を守りつづけ
   わたしたちが愛したように 愛してほしい。
   いつまでも。

   どうか いつまでも。


      

梯實圓先生の言葉  

 死ぬるまで愛と憎しみの煩悩に翻弄されながら、生に迷い、死におびえつづける愚悪の身に、罪業はどれほど重くとも、「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」と誓約された阿弥陀仏の救いがあるということを告げたもうている『大経』こそ、末法の世に生きるわが身の救われる「時機純熟の真教」であると仰いでいかれたのが親鸞聖人であった。それも疑い深い私に疑いをあらせまいとして釈尊のみならず十方の諸仏が讃嘆し、証明していたもうている「十方称讃の誠言」であって、諸仏の本意にかなった経典とたたえていかれたのであった。

 人間は、日夜、善悪さまざまなおこないをしながら生きている。しかし、その身のふるまいも、言葉のいとなみも、心に思うことも、三業のすべてが自己中心的な想念に支配されていて、つねに愛と憎しみの煩悩のうずをまき、利害、損得の打算がつきまとうている。それゆえたとえそれが善なるおこないであっても「雑毒の善」であり「虚仮の行」にすぎないと親鸞聖人は断言していかれた。それは人生への断念を迫る悲痛な言葉であった。

 人はみなより善き状態をもとめて日夜つとめているつもりである。自他を不幸におとしめるような悪行をやめて、自他ともに安らかな、穏やかな充実した状態をもたらすような善行につとめねばならない。それが「人」であることのあかしなのである。

 それなのに悪はもちろん善にさえ、自己中心的な想念の毒が雑わっているというのである。自分と、そして自分を中心とした集団の利益のみを追求して、損失は他者に及ぼそうとするならば、善と正義の名において争いを生み、互いに相克する修羅の巷を出現させていくことになろう。こうした雑毒の善・虚仮の行は、人生をほんとうに充実させ、愛憎と生死を超えた真実の安らぎをもたらすものではない。

 『歎異抄』の後序に、
  煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもつてそらごとたはごと、  まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。
という親鸞聖人のご述懐が記されている。煩悩具足の凡夫とは、知らず知らずのうちに自分の都合を中心にして、是非・善悪の価値体系をつくりあげていくものである。自分に都合のいい、役に立つものだけを是として愛し、自分に都合の悪いものを非として憎み、敵と味方をつくり、われも人もともに深い傷を心にきざみこみながら生涯を送っている。誰しもみな、一生懸命に生きていながら、ふりかえってみると、むなしい後悔と怨念だけが残るような人生であるとすれば「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」としかいいようがないであろう。

 こうした自己中心的な想念によってえがき出した虚構の世界を虚構と知らせ、私の妄念煩悩の彼方に、きらめくような真実の「いのち」の領域のあることをよびさますものが、本願の声としての南無阿弥陀仏であった。念仏は愛憎の悩みを転じて仏徳を味わう縁とし、そらごと、たわごとの人生を、仏法の真実を確認していく道場といただくような心を私のうえに開いていく。そのことを「ただ念仏のみぞまことにておはします」といわれたのである。念仏は、うその人生をほんものに変えていくものであった。


毎田周一さんの言葉  

     『雄々(おお)しさ』

   人生とは悲しみ一つと決着しよう
   うれしさや喜びがあるというのは
   もうすでに浮いた話なのだ
   悲しみ一つを噛(か)みしめてゆこう

   それ以外に人生はないのだ
   悲しさに腰を据えようではないか
   それ以外に何かを求めるなら
   もはや人生の真からそれている

   悲しみだけの人生なんていやだと
   いう人は 人生を放棄する人だ
   お気の毒ながら 人生は君に
   それ以外を約束しないのだ

   悲しみ一筋に 傍目(わきめ)もふらず
   それを凝視(ぎょうし)し その奥を尋ねて
   そこに人生の真をつかむ人をこそ
   雄々しい人というのだろう



     『山のように』

    この世を悲観するひとは
    自分でこうと決めるひと
    このままでよいではないか
    そして面白いではないか

    人生観などもたぬがいい
    与えられたままを生きよう
    苦しみもそして楽しみも
    ただそれを味い尽くして

    若いのに死ぬひともあり
    長生きして死ぬひともある
    それが与えられた生命だ
    どちらでもよいではないか

    悠々と山のように一生を
    そのままに生きてゆこう
    そして死ぬ時には死んで
    こせこせするのはよそう 



     『心残り』

   法然聖人や 親鸞聖人の
   ことを思うと もうすっかり
   いうべきことはいわれていると
   私は 思い知るのだ

   いわるべきことは すでに
   いわれてしまっている
   何という 清々(すがすが)しいことだ
   私は 安心して眠るのだ

   お前などが思いも及ばぬ
   真理の深淵(しんえん)から
   語り出された その言葉を
   私達は現に聞いている

   それも すでに釈尊によって
   いわれてしまっていることだと
   思えば もう私達は この世に
   思い残すところはないのだ



池田晶子さんの遺した言葉  

     《哲学者の池田晶子さん(2007年没)が15年前に新聞で述べた言葉。》

 現在の日本に生きる人々は、自分が何のために何をしているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。

 現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと私は思う。

 地球人類は失敗しました。率直なところ、私はもう手遅れだと思う。この世に存在した時から、生存していることの意味を問おうとせず、生存することそれ自体が価値だと思って、ただ生き延びようとしてきた。結果、数千年かけて徐々に失敗した。医学なども、なぜ生きるのかを問わず、ただ生きようとすることで進歩した。何のための科学かという哲学的な内省を経ていない。

 ただ生きるのが価値なのでなく、善く生きること、つまり、より善い精神性をもって生きることだけが価値なのです。内省と自覚の欠如が、人類の失敗の原因だが、手遅れだといって放棄していいのではない。常により善く生きようとすることだけが価値なのだから、それを各人が自分の持ち場において実行するべきなのです。

 政治にしても、問題は、政治家が「よりよい」と言うときの、その意味です。彼らの言う「よい」とは、「善い」ではなくて「良い」、良い生活が人間の価値であることを疑ったことがない。しかし、人生の幸福は精神の充足以外あり得ません。物質に充足した人が、必ずしも幸福だとは思っていないのはなぜですか。みんな自分を考えるということを知らない。考え方を知らないというよりも、そもそも「考える」とはどういうことかさえ知らない。

 国民の側も、他人のことを悪く言えるほどあなたは善いのですかと、私はいつも思う。汚職した官僚や政治家はむろん悪いが、その悪いことをした人を、得をしたとうらやんで悪く言っているなら同じことだ。嫉妬と羨望を正義の名にすり替えているだけだ。

 世の中が悪いのを、常に他人のせいにしようとするその姿勢そのものが、結局世の中全体を悪くしていると思う。政治家が悪いと言っても、その悪い政治家を選んだのは国民なんだから。にわとりと卵で、どうしようもないと気づいた時こそ、「善い」とは何かと考えてみるべきだ。一人ひとりがそれを考えて自覚的に生きる以外、世の中は決して善くならない。

 税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。

 むろん政治は、生活する自我同士の紛争を調停するのが仕事なのだから、政治家はそのことに自覚的であってもらいたい。政治家が人を動かし、政策を進める時の武器は「言葉」のはず。しかし、現在の政治の現場ほど言葉が空疎である場所はない。「命を懸けて」なんて平気で言う。言う方も聞く方も本気とは思っていない。政治家に詩人であれとは望まないが、自分の武器を大事にしないのは、自分の仕事に本気でないからだ。言葉を大事にしない国は滅びます。

 だからと言って、「保守主義」とか自分から名乗るのもどうかと思う。なんであれ「主義」というのはそれだけで空疎なものだ。自分の内容が空疎だから、そういう外側のスローガンに頼りたい場合が多いのではないか。やはり、各人の精神の在り方こそが問われるべきだ。

 問題はそんなところにない。要は、政治家から国民まで、一人ひとりの生き方の自覚でしかない。だからこそ「考える」ことが必要だ。考えもしないで生きているから、滅びの道を歩むことになる。考えることなら、今すぐこの場で出来ることです。

(中略)

 半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけでもない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的に生き始めるための契機は死を知ることです。

 制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中は決して変わりません。

                       (読売新聞、1998年4月1日より)


「他力の信心」  

志慶眞 文雄

 仏教は単なる人間の生き方の問題ではなく、
    人間を含めた全宇宙を問題にした教えです。
 人間が考えた発明ではなく、真理(法)の発見です。
 全宇宙のあるがままを如(にょ)といい、
    如は法(ダルマ)となり根源的な働きをもちます。

 私たち人間も如より誕生しながら、
   この娑婆に自我(Ego)をもって誕生した瞬間から如を見失います。
 如はつながり合った大いなるいのち(無量寿)ですが、
    自我はその大いなるいのちを切って私の命と私物化します。
 私物化したいのちでは私たちは生ききれません。
 それが私たちの苦悩の始まりです。
 その苦悩している私たちに、如は智慧となり
    「汝大いなるいのちに目覚めよ」と呼びかけています。
 
 その呼びかけに、心からうなずくとき、
     苦悩する私たちは、如来の大きな慈悲につつまれます。

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