浄土真宗

願いが人をひるがえす

願いが人をひるがえす  

 役に立たなくなった老人を山に捨てたという「うばすてやま」の古い説話があります。年老いた母とその息子の物語です。日々の糧を得るのが精一杯の一家には、年老いて働けなくなった母は次第に負担になってきました。(現代的に言えば経済的負担と介護の負担でしょうか) それを察した母はある日、自分を山に連れて行くように息子に頼みます。最初は躊躇していた息子もこれ以上の負担には耐えられないと、ある日覚悟して母を背負って山に向かうことにしました。
 いよいよ暗黙の了解の日。母の軽さとともに、その体温が背中にジワッと伝わってきます。今生の別れです。しかし毎日の生活を考えれば思いとどまるわけにはいきません。
 無言の山登りがつづきます。山の斜面は急で息があがり、軽いはずの母が次第に重く感じられます。時々、背中の母が手を伸ばして小枝を折って地面に落とします。その度にさらに重さが増していらだちが加わります。「何をしているんだ」「何でこんな無駄なことをしているんだ」「いざとなると不安になってこんなことをしているのか」など冷たい心がおこります。
 ようやく目的の山腹の岩かげにたどりついて母を下ろし、わずかの水と食べ物を置き二、三ことばを交わした後、息子は思いを振り切って母に背を向け山を下りようとしました。「もうだいぶん日が落ちてきた。帰りに迷うといけないから途中に小枝を落としてきた、それをたよりに気をつけて帰りなさい」
 息子は胸をつかれその場に泣き崩れました。あの小枝は自分のためであった。再び母を背負い喜びいっぱいで山を下りました。
 息子の生活は見た目は変わりません。しかし、もはや生きている世界がちがいます。母に対して「もの」(「我-それ」)としての関係の世界しか生きて来なかった息子は、母の願いによって初めて母と「いのち」(「我‐汝」)の関係の世界が開かれその世界を生きています。
 これは願いが人を、深くて広い感動的な「いのち」の世界にひるがえすことの譬えです。根源的な大きな「いのち」の世界からの願いを弥陀の誓願といいます。その願いは「南無阿弥陀仏」という真実のことばとなり私たちひとりひとりのいのちとなって、空過のない「いのち」の世界を生きる者を誕生させつづけてきました。そういう(願いと「いのち」の世界)をたずねてみたいと思います。

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