浄土真宗

巻頭言集

巻頭言集

                                志慶眞文雄

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不思議  

生まれるということの不思議
生きているということの不思議
死ぬということの不思議
    
釈尊は、その不思議に耳を澄まし心を集中し
生死を貫く
大宇宙の真理(ダルマ)に目を見開いた
それは今から 2500年前
あけの明星がまたたく夜明け前の出来事でした

一切は因となり縁となり
つながり合って重々無尽の
ただ事でない世界を織りなし
生きとし生けるものにはたらきかけ、呼びかける
仏法不思議

現に今、私達は
その不思議なはたらきに生かされ
そのダルマの呼び声を南無阿弥陀仏といただく


いのちの根源ヘナム  

目を閉じて感じてみよう
こうして存在することの不思議を

存在って何だろう
庭に咲く小さな花も
緑の木々も
吹きわたる風も
青い海も
太陽も
一切が不思議

人間を支えているものは
 人間でないものも支えている
生命を支えているものは
 生命でないものも支えている
生を支えているものは
 死も支えている
これは私たちの置かれている世界の
根源的な事実

無条件に許され
一切は賜ったものであると思えたとき
ちっぽけな心に
尽きることのない喜びの泉が湧き出る

嬉しい時
悲しい時
苦しい時
つらい時
さびしい時
不思議の真只中で
いのちの根源ヘ南無して生きる


謝花勝一さん  

「大悲無倦常照我」
謝花勝一さんの大好きなことばでした
共にお念仏の道を歩ませていただいた勝一さんが
十二月八日に浄土にお還りになりました(53歳)

二回の大手術と十数年以上の闘病生活に行き詰まり
縁あって読書会、仏教講演会を尋ねて来られました
亡き後みつかった遺言状を携えての命がけの求道でした
たびたび交わす手紙は
新聞記者時代に無理をして痛めつけた自分の身体への謝罪
これまで自分を支えてくれた家族への心からの感謝のことば
病気してはじめて仏法に遇い得た喜びにあふれていました

様態が悪化したとの連絡がありお訪ねしました
「勝一さんお念仏に遇えてよかったね」と手を握ると
うなずかれました
如来の大慈悲に照らされ
生死の迷いを超えて広い豊かな世界を生きられ
お浄土に還って行かれました
勝一さんの願いとその生きられた世界は
深い悲しみのご家族を不思議な安らぎで包み
人間の生きてゆく方向を照らしだしました


ゴーギャンの問い  

 われら何処より来たるや
 われら何者なるや
 われら何処に行くや

これはボストン美術館にある
ゴーギャンの晩年の大作(絵)の題である。

小児科医院を開業し、
朝から子供達に囲まれて過ごす。
生まれて間もない赤ちやん、
明るい声で尻上がりに抑揚をつけて話しかけると、
安心したように表情が和む。
いのちそのもののように見えた赤ちゃんも、
二〜三歳ぐらいになるとはっきりと自己主張をしだす。
自我の「私」の誕生である。

それはそれで喜ばしいことでもあるが、
自我の「私」は際限なく肥大しつづけ、
ついに「私」という思いに先立って
「私」を存在せしめた
「無限につながる
他と切り離すことのできない
大いなるいのち」まで
「私の命」と所有化してしまう。

そして
「われらは何処より来たのか/
われらは何者なのか/
われらは何処に行くのか」
一切を見失い、
人間の深い闇である
ニヒリズムと
エゴイズムに
呪縛されてしまう。

宇宙開闢(かいびゃく)以来、
宇宙の果てから果てまで連なる
「無限なる大いなるいのち(無量寿)」こそが、
われらを存在せしめている根源的な事実。

大いなるいのちの願いを弥陀の誓願といい、
その誓願は
「南無阿弥陀仏」という真実のことばとなり
「私」という闇を破り、
空過なき
「大いなるいのち」の世界を生きる者を
誕生させつづけてきた。



本来のありようへ帰れ  

この世は私が生きていける世界ではない
どうにもならない虚無感をかかえて
長いことさまよってきた

「一切恐懼(いっさいくく) 為作大安(いさだいあん)」(『讃仏偈』)
 (一切の恐れおののいて生きているもののために 大きな安らぎをとどけたい)

生ききれない死にきれない
絶望的な思いの中で出会った法蔵菩薩のことばであった
「恐れおののいて生きているもの」
私がそれであった

「為作大安」

この文字が光を放ち
心の琴線をはじくたびに身が震える

法蔵菩薩よ
あなたのとどけたいという「大安」に出会いたい一心で
尋ね尋ねてきて
見えてきたのは真理に背を向けている私の姿でした

本来のありようへ帰れとのあなたの願いを
南無阿弥陀仏といただける嬉しさ



念仏ひとつ  

真実に遇うことを除いて浄土真宗はない
しかし真実に遇うとは
私が真実になることではない
私はどこまでも煩悩具足、一生造悪の身である

では真実に遇うとはどういうことか?
真実に遇うとは
 真実の働きに遇うこと
真実の働きに遇うとは
 真実でないわが身に目が覚めること
 「煩悩に名前をつけたのが私」と目が覚めることである
私は冷たい
 でも火の暖かさを感ずることができる
私は真実ではない
 でも真実の働きを感ずることができる
そして火の暖かさも真実も私の上にとどく
南無阿弥陀仏として

 (人間的発想)
酒が抜けるということは
しらふになることである

 (仏教的発想)
私たちは煩悩に泥酔していながら
『俺は酔ってない』と生きている
煩悩が私だから一生煩悩は抜けない
 (私そのものが酒だから酒は抜けない道理)
だから煩悩から覚めるということは
 酒が抜けてしらふになるようなことではない
 煩悩に酔っぱらっていながら
 「煩悩に酔っぱらって生きている」ことがわかることである
それを人間の目覚めという
不可能としか思えないことが
真実(如来の智慧と慈悲)に遇うことによっておこる
かくして私たちは因縁恵まれて
念仏ひとつと言える身をたまわる



如来の命の叫び  

『この地上に恐ろしいことがひとつあるとすれば、
それはだれもが
それぞれ自分の道理をもっていることだ』

これはフランスの映画『ゲームの規則』のセリフである

このことばを思い浮かべると
なぜか胸がつまり瞼があつくなる
私はこういう有り様でしか生きてない存在

倣慢な自分の道理をもって原因を常に外に見て
多くの人を批判 中傷し 裁き
多くの人を視野から消しながら
自分の道理に問題があることなど考えてもみない
これが闇でなくて何であろう

「病気でありながら、自分が病的であると認めない」
それを医学では病識がないといい
病識がない病は難治であるという

底知れぬ自分の闇の深さに目が醒めることなしに
人間が救われる道はありえない
しかし
人間に闇の病識を成立さすことは難中の難
この難中の難を超えるため
法蔵菩薩は五劫の長きに渡って考え抜かれ
一点の濁りもない願いが人間を目覚めさすことを悟られ
如来の真心を私にさしむけた
如来の命の叫び
『〜若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法』

仏まします
帰依し合掌して生きむ
南無阿弥陀仏



ハユちゃんとの会話  

先日、診察室で
保育園児のハユちゃんと
つい大人の会話をしてしまった

「先生、先生、きょう豆まきがあったよ」
「どうだった?」
「『福は内、鬼は外』だよ」
「保育園でえんまさんのお話を聞いたよ」
「どんなお話だったの」
「嘘をつくと、えんまさんに舌をぬかれるんだって」
とっさに私は
「そうだよ、先生の舌はもうないよ」と言ってしまった

ハユちゃんは何のことかわからず
介助の職員はあきれた顔で
ハユちゃんのおばあちゃんは戸惑っていた

あわてて
「大丈夫、えんまさんに舌抜かれても、すぐに生えてくるよ」と言い直し
事態をますます混乱させてしまった

私たちは舌は一枚と思っている
しかし仏教は怖いですね
見えない舌を見ぬいて二枚あるという
「二枚舌(両舌)」と
誰から習ったわけでもないのに
二枚の舌をうまく使い分けて
自分に都合のいいように生きている

今日もまた
えんまさんは忙しそうです
南無阿弥陀仏



「ものが在る」ということの不可思議  

子供の頃から抱いてきた
一種いわく言いがたい
根源から私を突き動かしている感覚がある
人に話してもわかってもらえないと長いこと心にしまってきた

「ものが在る」ということの不可思議さ
「無くてもよかったのになぜ在る」
この感覚はどうにも表現しがたい
命の不可思議さよりもっと根源的な不可思議さの感覚
命が有る無しに関係なく「ものが在る」
すでにして「在る」
「これ何 ??????????・・・・・」という感覚
「どのように(How)在るのか」でも
「なぜ(Why)在るのか」でもなく
「ものが在る。何(What)」という感覚
この(What)の感覚は
「どのように(How)」や「なぜ(Why)」に先立つ感覚
(How)や(Why)は(What)から生じる
(How)へのアプローチは自然科学の研究分野
それはそれでスリリングでエキサイティング
(Why)には ただ ????
「無くてもよかったのにものが在る」
(What) ???・・・
  宇宙がある、星がある、太陽がある、地球がある
  自然がある、人間がある、空気がある、物がある・・・
「在る」ということの圧倒性
「在るもの」が「無」になる事はない
「在るもの」は変化するだけである
「無」は存在しない  「無」は考えられない
考えられるものは「無」ではないから
色も形もにおいも存在せしめたもの
言葉も思いも絶えた先にある「何(What)」
その「何(What)」が私をとらえてはなさない
存在のすべてが「ただ事でない」という不可思議な感覚
私もまたその不可思議なる存在につらなるもの



真実も正義も仏さんにかえせ  

「人身受け難し、いますでに受く」
どの人も尊いいのちを賜って誕生した

しかしいのちを作戦のコマにする人がいる
作戦のコマになって死んでいく人がいる
あまりにも痛ましい あまりにも哀しい

今日もまた 新聞は
何十名死んだ、何百名殺害されたと報じている

人間の殺りくが日常茶飯事で
人と人が殺しあうことが正義になっている
人間は狂っている
狂気を狂気とも思わぬ程に狂っている
正義の名のもとに
宗教の名のもとに
人間の闇が地上をおおい尽くしている
闇で闇を払おうとする人間の倣慢さ
その倣慢さが
地上を地獄よりさらに地獄的な様相にする

真実も正義も仏さんにかえせ
人間の上に真実や正義を立てるから残酷になる
人間の上に真実や正義はない

あまりにも痛ましい あまりにも哀しい現実
しかし この三悪道の悲惨な生を生きる人間を
仏かねて知ろしめし
一切衆生が救われるまで仏にならないと誓われた
その願いに南無し生きていきたい



死をおり込みずみの生を生きる  

「何歳ですか」
「煩悩年齢五十五歳です」

煩悩を満足させるため
貪欲に餌をあげ  瞋恚に餌をあげ
無明で暮れる一日
そんな一日をくり返して年月が過ぎる

歳をとりたくない煩悩が年齢を数え
死にたくない煩悩が生死を見
自らの妄念妄想がえがく生死に今日も苦悩する

龍樹菩薩は言われた
 「凡夫道とは
  究竟して涅槃に至ること能わず
  常に生死に往来す」と
さらに龍樹菩薩は言われた
凡夫道を超える道「出世間道」があると
それが往生浄土の道
浄土は無量寿の世界
私の迷いの生死を超えた煩悩に汚されない世界
無量寿は数えることのできないいのち
生まれることも死ぬこともないいのち

罪悪生死の身に
無量寿を南無阿弥陀仏と頂き
無量寿をいのちとする
死をおり込みずみの生を賜るうれしさ

「何歳ですか」
「歳はありません」



わが思いに汚されない仏まします  

『二河譬』の中に
  中間の白道四五寸というは、すなわち衆生の貪瞋煩悩の中に、
  よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩うるなりとある。

西に向かって歩みだした者に見えたわが身は
南北にほとりなく、深くして底のない
貪欲と瞋恚(しんに)の大河そのもの
真実のかけらさえない100%煩悩の身
私の中に煩悩があるのではない
「煩悩」に名前をつけたのを「私」という
それを経典は
「煩悩具足」「煩悩成就」と言い当てた

100%煩悩の身は
わが身に執着し わが思いに執着し
ただただ わが身可愛さで生きている
四六時中愚痴で波立つ
怒りの波
貪欲の波
名利の波
・・・
果てしなく波立つ煩悩
なんの根拠もおけないわが身

あー しかし
わが思いに汚されない仏まします
 この身を卑下せず
 この身に落ち込まず
 この身を言い訳せず
 どうせこれが私よと居直らず
仏のまなざしに照らしだされて
この身の事実を生きる
申し訳ありません 有り難うございます
南無阿弥陀仏



徳田幸子さん  

二〇〇四年二月五日 八十五歳
徳田幸子さんがお浄土へお還りになりました
徳田さん 娑婆でのお別れですね
かねてよりお別れの日が来るとは分かっていても
いざお別れとなると寂しいですね
沖縄はわたしの第二の故郷ですと言われ
私達に願いをかけ お念仏を届ける為
老も病も超えて三十数回も沖縄に足を運んで下さいました
本当にありがとうございました

幾多の苦難を超えて
生涯念仏道を歩みきられたそのお姿
決して忘れません
自らお念仏を頂き喜ばれ
有縁の多くの方々にお念仏を勧められた歩みは
まさしく大乗菩薩道の歩みでした
娑婆での尽くすべき縁を尽くされて
お浄土へ還られました徳田さん
「本当にごくろうさまでした。」

仏まします世界を生きられたそのご生涯は
きっと至福の生涯だったに違いありません
往生の素懐を遂げられ
「おめでとうございます」と
お別れのことばを送りたいと思います

あなたのそそがれたあつい願いを胸に
私もまたお念仏の世界を生きていきます
お浄土へ還られたあなたは
お念仏の働きとしていつも身近です
ありがとうございました
南無阿弥陀仏



釈尊よ、あなたを思うと胸があつくなる  

二千五百年前、釈尊は
  「老病死を見て世の非常を悟り、国と財と位を棄て
   山に入りて道を学す」(『大無量寿経』)

我々が命のごとく執着して止まない「国と財と位」を
棄てしめるほどのあなたの深い苦悩がなかったならば
「老病死を見て世の非常を悟り」全人類の苦悩を超える道を求めて
あなたが独りで旅立たれることがなかったならば 
きっと私は今
生きること、死ぬことの苦しみに踏み潰されていた

釈尊は苦悩の正体を見破り
  「一切皆苦 諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」と
老病死を超える真理を明らかにされた

しかし、あなたの指導を仰げない末法の時代の私たちは
どのように「涅槃寂静」を証すればいいのでしょうか
  「当来の世に経道滅尽せん、我慈悲をもて哀愍(あいみん)し、
  特にこの経を留めて止住すること百歳せん」
後に続く私達への、釈尊の深い悲しみと深い愛情を思う

  「それ、かの仏の名号を聞くことを得る有りて、
  歓喜踊躍し乃至一念せん、当に知るべし、この人
  大利を得となす。すなわち是れ無上の功徳を具足
  するなり」
生も死も超越し、生死を貫いている本願のまことを説き
真実一如界から届く願力自然の本願念仏を弥勒に託し
娑婆で生死の迷いの生を生きる悲しい私達に
往生浄土の生を生きる、正定聚不退の道を届け
涅槃寂静 無生の生を明らかにされた

釈尊よ
あなたが深い苦悩を超える道を求めて
独りで旅立たれることがなかったならば
私は光りなき暗闇の世界で一生を終っていただろう
あなたを思うと胸があつくなる



「サンガ」  

十五年前、広島から沖縄に帰ってきた
五年間は路頭に迷った
前にも進めず、聞かなかった昔にも戻れず
「このままでは、ここで朽ち果ててしまう」と思った時
間法できる場所をつくろうと決断した

あれから十年
沢山の方々が沖縄まで真実の教法を届けにこられ
この地にも念仏の声が少しずつこだましだし
共にお念仏の世界に生きる仲間が増えてきた
毎月の講演会、毎週の読書会
この場所がなければこの十年の歩みはなかった

今また、新しい場所をつくることにした
シャワールームを改造した一畳半ほどの台所を
十五年間使ってきた
傷みが激しくなったので
リビングキッチンを三階に増築した
虚栄心と貪欲が作り上げた場所ではあるが
多くの人々と仏法僧の三宝を頂く
開かれた場所にしたいとの願いをこめて
家内が「サンガ」と命名した
「サンガ」をつくる計画は二転三転し
難工事であった
しかし、多くの方々の協力と声援をうけ
予定を一カ月オーバーして完成した

今、ここにたたずんで思われるのは
このお念仏の教えを届けるため、仏恩報謝のため
不惜身命の歩みをされた方々のことである
この教えに遇わなければ私は生ききれなかった
人生を空過する以外になかった身である
もし残された人生があるのなら
私もまたささやかながら
その仏恩に報いる歩みをして一生を終りたいと思う



「わかるまで聞きぬいてくれ」  

恵まれて広島で六年間聞法させていただき
時来って故郷へ帰らねばならなくなった
「無仏の国に帰るんですね」と声をかけられた

浄土真宗とほとんど縁のない沖縄
わかったつもりの念仏のメッキはすぐに剥げ落ちた
誉める人もなく、いさめる人もなく
前にも進めない、聞かなかった昔にも戻れない
道しるべもなく人もいない荒野
「あー私はこのままここで朽ち果ててしまう」と
身動きひとつできず路頭に迷う事五年
繰り返し聞こえてきたのは
広島を去る時、お同朋が私にかけたひとつのことば
「わかるまで聞きぬいてくれ」
とにかく聞法できる場所をつくることにした

それから十年
沢山の方々が真実の教法を届けて下さり
この地にも念仏の声が少しずつこだましだした
誠なるかな 「諸仏称名の願」は末通り僧伽は興る



本願念仏は如来の自己表現  

願わくば一切の衆生の上に
本願念仏が明らかになりますように

如来は
念仏する衆生を
真実の世界に必ず生まれさすと誓願され
如来のすべてを本願念仏に託された
本願念仏は如来の自己表現である

如来は
絶対無条件に
凡小愚鈍な私を受容する
無量の智慧と無量の慈悲である
この如来のまごころに遇わなければ
ちっぼけな分別知で生死に往来し
ついに人生を
愚痴と怨念の闇のままで終ったであろう

本願念仏を賜ったということは
如来のすべてを賜ったということである



何という世界を賜ったのだろう  

生きている虚しさにあえいできた
死んでゆく身であることに心乱れてきた
自虐的にしか生きて来れなかった
あーしかし、こんな我が身にも
生きていける死んでいける道が開かれるとは
予想だにしなかった
何という世界を賜ったのだろう
南無阿弥陀仏

煩悩具足の身なれば
怒りも腹立ちもねたみもそねみもおこり
思いはすぐ悩み苦しみ哀しみ不安で一杯になる
あーしかし、我が身に起こるいちいちの出来事が
私を照らす出来事
我が身におこる全てが私自身のいのちの内容だと
そう受け取れる世界が開かれるとは
予想だにしなかった
何という世界を賜ったのだろう
南無阿弥陀仏

順縁も逆縁も
私への批判も悪口も
苦悩も不安もありがとう
私の正体を知らせるための縁
全ては真実を届けるための縁
人生に何一つ無駄なものはなく
すべては念仏ひとつとなって届く嬉しさ
この身のままでいのち終えていいと思う
予想だにしなかった
何という世界を賜ったのだろう
南無阿弥陀仏



如来の眼に  

この頃、切に思う
自分を知ることが
「いかに容易ならざることか」

思いがかなって有頂天になっているとき
怒りにふるえ他人を責めているとき
失意や虚しさで気力が失せているとき
われを忘れて楽しんでいるとき
いついかなる時も
見えないのは自分自身である
わからないのは自分の正体である

自己中心の思いで常に原因を外に見て
善し悪しを言い
好き嫌いを言い
煩悩の固まりでしかない自尊心を刺激されると
ささいな事ですぐ腹を立て
単なる自己正当化を正義と勘違いし
他人を責め
どこまでもつづく自己中心の闇
喜怒哀楽のいついかなる時も
自己中心の異臭をはなちながら
その自分の姿に気づかない
見えないのは自分自身である
わからないのは自分の正体である

それが如来の眼にうつる私の姿

『問題は常にある、問題は常に内にある』
夜晃先生のこのお言葉の前で
私は頭を上げることができない
南無阿弥陀仏



人間の狂気を超える道  

多発するテロと報復 恐怖と破壊
地上を怨念がおおい尽くしている
暗たんたる思いがする
ある動物園のオリの前にはこんな説明があるという

「地上で最もどう猛な動物」
オリの中を恐る恐るのぞいてみる
真正面に一枚の大きな鏡
そこに写し出されるのはのぞき込んでいる自分
「ホモサピエンス」
オリに入れてしかるべき「地上で最もどう猛な動物」

自らがささやかに生きていくだけで満足せず
自らの欲望の限りをつくし
地球を燃料タンクと見なし資源を湯水のごとく使いつづけ
自らの利権のため もっともらしい理由をつけて
他の土地と他の命を奪いつくす
自らを正義と名のり
他人の命を奪うことを高らかに勝利と・宣言する動物
「ホモサピエンス」

大量殺りくの道具を開発し
同種同族の大量殺りくを実行する
これ程 どう猛で強欲な生き物は
かってこの地上に存在しなかった
本当に人間は
どうしていいかわからないほど狂っている

自己愛そのものでしか生きてない人間に
真実や正義をかかげる倣慢さ
そもそもこれが狂気である
真実は如来にのみある
自己の思いに帰依せず真実へ帰依せよ
それが法蔵菩薩の誓願である
ここに人間の狂気を超える道がある



『卑下』と『懺悔』  

『卑下』と『懺悔(さんげ)』
この二つの言葉の使われる世界は明らかに異なる。

『卑下』は私が私に対して発する言葉である。
『卑下』の世界には、仏さんはいらない。

『懺悔』は私が仏さんに対して発する言葉である。
『懺悔』の世界には、仏さんがおられる。

『卑下』は暗く、『懺悔』は明るい。

『卑下』は自縛であり、『懺悔』は解放である。

私達は仏教の教えを聞かないで生活していた時も『卑下』していた。
そして仏教の教えを聞きはじめて、よりいっそう『卑下』するようになった。
聞かない方が『楽だった』と。

長年仏教の教えを聞きながらも、自分で自分の始末をつけようとする。
それが『卑下』である。

『卑下』は『卑下慢』である。
『卑下』は慢心の姿であると仏さんは教えて下さった。
『卑下』は私の煩悩の姿であると白日のもとにさらされて、
なおかつ『卑下』が生き残れようか。

遂に、自分で自分の始末はつけられないと目がさめて、仏さんにお任せする。
それが『懺悔』である。



内なる殺生  

本来のありようから逸脱しているため
自分で自分を受け取れない
「いま、ここ」を生ききれない
それを人生の空過という

今のいのちを未来への期待で浪費し
今のいのちを過去への後悔でいじめ殺す
それを内なる殺生という

人生の空過の内実は今のいのちの殺生
この悲惨きわまりない私を必ず救済すると
法蔵菩薩は誓われた
その誓いの真実に触れることがなかったら
私は内なる殺生をしつづけて
空しい一生を終えたであろう



念仏のはたらき  

念仏より私の方が大きい間
念仏は暗く
念仏は無力で
ちっぼげな念仏など邪魔物でしかなかった

暗くて無力だと言われつづけた念仏は
時には利用されながら
静かに深く反撃を試み 根底から私を揺さぶり
私のエゴを
白日の下にさらす機会をねらっていたに違いない

念仏は真実
その真実を暗くて無力だと見下した
ごう慢でお粗末なこの身を照らし出したのは念仏



人間の怨みを破る願力の白道  

いかなる戦争も 
怨念をはらそうとするテロも 
やられたらやり返す報復も
自己を肯定して止まない人間のエゴ
私もまた 怨念をはらそうとし
やられたらやり返そうとする鬼である
この私のエゴの延長線上に今日の戦争がある
人間は正義を掲げ自らを正当化し 視野から具体的な人を消し
宗教やイデオロギーの名のもとに殺戮を繰り返してきた
いかなる大義名分があろうとテロも報復も戦争も人間の狂気

釈尊は言われた          
  「かれは、われをののしった。かれは、われを害した
  かれは、われに打ち勝った。かれは、われから強奪した。」という
  思いをいだく人には、怨みはついに息むことがない。
  実にこの世においては、怨みに報いるに怨みをもってしたならば、
  ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む。
  これは永遠の真理である。

人間に真実などない 真実などない人間に
地獄、餓鬼、畜生の三悪道を超えさせるとの如来の誓願
血みどろの殺戮を繰り返すわれら人間の狂気を
この真実の誓願のみが正気に戻す
人間の怨みを破るのはこの願力の白道・南無阿弥陀仏のみ



天命に安んじて、人事を尽くす  

  「人事を尽くして、天命を待つ」
それを世間道という
そのことばを呪文のように唱えて生きてきた
人事を尽くそうとする自己の正体は問わないで
理想を掲げて、ただただ走ってきた

自己の正体が明らかにならなければ
人事を尽くすことも
天命を待つことも外のこと
外のことで内なる自己を満たそうとした
走る以外ない人生
これが人生の空過だとは気づかずに

念仏が私を止めた
  「今日も悪く、
   昨日も悪く、
   明日もまたいよいよ悪い」と

自己の正体に目が覚めた時
人は天命に安んじて永遠の今を生きる
人事を尽くす内なる人生が始まる
それを往生という

  「天命に安んじて、人事を尽くす」
それを出世間道、仏道という



阿弥陀を根拠に生きる  

ゆるぎない自己の思いや考え方に依ることが
自己の主体性の確立だと思ってきた
長いこと

しかし 自己の思いは煩悩のこころであり
その心根は自己愛である
人間の思いや考えは迷妄そのもので
自己のどこにも依るべき根拠はなかった

それを照らし出してくれたのは真実である
真実は誓願となり
誓願は南無阿弥陀仏として届いた

自己の主体性の確立とは
阿弥陀に依ることである
阿弥陀を根拠に生きることである



ただ、念仏  

『念仏申せ 念仏申せ』の御同朋の呼びかけ

意味のわからない念仏など言えるかと
長いこと念仏に反発してきた
聞いても聞いてもわからないもどかしさ
観念的な自分の思いから一歩も出れない日々

結局、念仏が私を行き詰まらせた。
清浄真実から届く念仏は力。
私こそが問題であったと目を覚まされた時
溢れる涙とともに生まれて初めて私は私の正体に出会った
『冷酷無比』『傍観者』『自己中心』

真実の世界は『ただ、念仏』
念仏に付け加えるべき何ものもなく
念仏から差し引くべき何ものもない
人生の一切が『ただ、念仏』で事足りると



《なんじ》と呼びつづける声  

私が《なんじ》と呼ぶに先立って
私が《なんじ》と呼ばれていた驚き
《南無阿弥陀仏》と無始以来
私を《なんじ》と呼びつづける声があった

私の誓いに先立って
私が誓われていた驚き
「たとい我、仏を得んに、
国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」と
私が三悪道を超えるまで
仏にならないとの誓いがかけられていた身の幸

念仏ひとつで開かれた世界
よき師よき友のみ教えがなければ
とてもとても知り得ない世界でした



如来の御いのち  

当然と思っていたことが不思議と思えた時
生も死も老いも病も皆不思議になった

萌え出ずる新芽も不思議
舞い落ちる枯葉も不思議

堅い殻の闇の中で
生ける屍となって空しく過ごした日々

腐る以外ないと思えた身に
かけられていた誓願の不思議

如来の御いのちには分断された生も死もない
生きるも如来の御いのち
死ぬるも如来の御いのち



我愛  

対象とのかかわりあいで
くるくる変わる愛
私にはこの愛しかありません

ずっとそれを我愛とも知らず
我愛で夫婦となり
我愛で子供を育ててきました

思い通りにならないと一転して
怒り、冷淡、無視、憎悪に変わる我愛
この愛で
私はいったいどのような花を
咲かそうとしたのでしょうか

真実の御教えに遇ってはじめて
この愛の正体を知りました



衆生の迷妄を破りつづけることば  

釈尊の信心のことば
  「諸行無常、諸法無我、一切皆苦、涅槃寂静」
最近、この仏語に感動する

「一切皆苦」
「いずれの行もおよびがたき身なれば、とても地獄は一定すみかぞかし」

「諸行無常、諸法無我」
「有る」 という常見 「無い」 という断見は迷妄で
「あるのでもない、ないのでもない」真実の世界のあり様だと気づかせていただく

「涅槃寂静」 は不生不滅の永遠の世界
ここにおいて一切衆生の救いが成立する

釈尊の信心のことばは
娑婆世界に
「南無阿弥陀仏」の大音響となって響き渡り
一切衆生の迷妄を破りつづける



どこまでもつづく「わが」  

わが子、わが妻、わが師、わが友
どこまでもつづく「わが」
この「わが」に問題はないであろうか
「わが」が所有になってないであろうか

釈尊は言われた
『自分が自分のものでないのに
どうして 子供がわがものであろうか』と

親鸞聖人は言われた
『わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、
もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人もたずそうろう」と

「わが」に問題はないであろうか
「わが」が所有になってないであろうか
この「わが」が念仏を所有してないであろうか



法蔵菩薩の篤い思い  

青少年の残虐な犯罪が頻発している
それらの事件は
私の内なる闇を
白日のもとにさらしたに過ぎない

娑婆世界は地獄・餓鬼・畜生にあふれ
阿鼻叫喚は法蔵菩薩の耳に届き
それを哀れまれた法蔵菩薩は
誓願を立て浄土を建立された
「たとい我、仏を得んに、国に地獄・餓鬼・畜生 あらば、
 正覚を取らじ」 (無三悪趣の願)

法蔵菩薩のこの篤い思いを!
青少年ヘ!
万人へ!



世尊よ あなたは   

世尊よ あなたは                
  私の存在の根本的なあり方は無明だと
  明らかにして下さいました
  『真理にくらく、真実を見失い
  自己中心に生きているのがおまえ』だと

  光が闇を破らなければ
  生まれた時から、闇の中いにいた私は
   自分が闇の中に居たことさえ知りませんでした

世尊よ あなたは
  闇の中にいる私に
  「南無阿弥陀仏」 大いなる世界へ帰れ!と
  命の限り呼んでいるのは如来真実の方だと
  知らせて下さいました

世尊よ ありがとうございます



自燈明 法燈明  

何度耳にしたことであろう

『自燈明 法燈明』
  (自らを燈とし、法を燈とせよ)
釈尊の遺言である

自燈明は
自らが一点の真実もない罪悪生死の凡夫である自覚
それを機の深信という
法に照らされずしてどうしてこの自覚が成立しよう
それを法の深信という
機と法は一体

自燈明は懺悔となり
法燈明は感謝となる
それを南無阿弥陀仏という



仏教とは何か  

私が立つ大地と
その大地に立つ私を
明らかにする教えである
これは人生の一大事である

われわれは目があればものが見えると思う
しかし目があっても光がなければものは見えない

光とは智慧である
智慧の光は
無始以来の私の闇を一瞬にして照らしだし
私が立つべき広い天地を恵む
仏教とは
私を照らす智慧の教えである

シルビア
                     シャクナゲ:シルビア(撮影:3月19日)

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