浄土真宗

マルティン・ブーバー

マルティン・ブーバー の 衝 撃 の 語 録

『我と汝』を読む

                                志慶眞文雄

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ご案内
   冊子:『仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし』 は

マルティン・ブーバー の 衝 撃 の 語 録 『我と汝』を読む 

     の〈浄土・南無阿弥陀仏〉への展開です


はじめに  

 私が手放せない本がある。

 マルティン・ブーバー著の『我と汝・対話』(岩波文庫)である。

 聖典をいただく上で、浄土真宗を考える上で、この本ほど私に多くの示唆を与えた本はない。

 その記念碑として、この本の内容との出会いを書きとめておきたいと思う。

            マルティン・ブーバー著



 まずマルティン・ブーバー(以後ブーバーと略)の紹介から始める。

マルティン・ブーバー

 彼はユダヤ人で、1878年オーストリアで生まれ、そして有数の学者であった祖父の家で青年時代を過ごし、ベルリン、ライプテッヒ、チューリッヒの諸大学で学び、哲学、文学、芸術等の研究を進め、1924年から33年までフランクフルト大学の比較宗教学の教授であったいう。

 しかし、ナチスの台頭により、1933年ドイツを追放された。

 諸国を転々と放浪したあと1938年にパレスティナに来て、イスラエルのヘブライ大学で社会哲学を講じたが、正当な講座はついに与えられなかったらしい。

 生涯に遭遇した幾多の迫害、苦難にもかかわらず、一貫して〈われ―なんじ〉の思索を深め、1965年、その生涯を終えた。

 その生涯に対して、私は

《 輝かしい人類への遺産 『我と汝・対話』 を残して 》

と、心からの感謝と賛辞を捧げたいと思う。

 『我と汝・対話』(岩波文庫)の原本は、1923年にドイツ語で出版された『 Ich und Du 』と、1932年に出版された『 Zwiesprache 』である。

 『 Ich  und  Du 』は英訳、仏訳され、広く各国で読まれ、特に西欧の思想界に大きな影響を与えてきた。日本でよく知られているエーリッヒ・フロムもそのひとりと言われている。

 日本語にも何度か翻訳された。

 私の手元には、野口啓裕先生の翻訳による『孤独と愛』―我と汝の問題―(1958年、創文社出版)と、先に紹介した植田重雄先生の翻訳による『我と汝・対話』(1979年、岩波書店出版)がある。

 特にこの植田先生の翻訳された『我と汝・対話』を私は愛読している。

 たいていの本は、内容にかならずしも同意できないことがあるにしても、言っている意味がまったくわからないということはあまりない。

 しかし、この『我と汝・対話』は違う。

 まったくわからないというか、意味不明なことが沢山あり、それがある時その内容が鮮明になるということの連続である。

 読み返すたびに新しい発見があり、感動があり、驚きがある。

 本当にこんな本はめったにない。

 渾沌とした社会、人間存在を考える上で、この本は私にとってなくてはならない本である。

 初めてこの本の事を知ったのは、細川巌先生のご法話を通してであった。

 この本に出会わなければ、私の浄土真宗との出遇いはまた違ったコースをたどっていたかも知れないと思うにつけ、この本に出会えことの重大さが改めて身にしみる。


翻訳者:植田重雄先生  

 『我と汝・対話』の巻末に記されている植田重雄先生の「訳註」は、ブーバーの本を読むうえでどれほど助けられたことであろう。

 先生の「訳註」はそれだけで深い内容をもつ。

 ブーバーへの感謝とともに、このブーバーの本を日本語に翻訳された植田先生のご苦労に対して心から感謝を捧げ、ここに植田重雄先生の紹介をしておく。

植田重雄先生



 1922年静岡県に生まれ、早稲田大学文学部哲学科を卒業。

 宗教哲学、宗教現象学が専門で早稲田大学名誉教授である。

 幾多の著書と歌集がある。

 先生は、晩年のブーバーと文通しながら、6年の歳月をかけて『我と汝・対話』を日本語に翻訳された。

 残念ながら翻訳された本は、ブーバーの亡き後に完成し墓前に捧げられた。

 「ブーバーによれば、人間のとる態度には『我ー汝』による主体的な出合いを遂げる道と、客観的な関係を示す『我ーそれ』の二つの道がある。『我ー汝』の出合いに生きる実現によって現代の人間の危機を克服できるという。」と先生は述べている。

 また「わたしは固定した宗教教団、教派の歴史から離れ、人間に内在する普遍的な宗教性を探るようにつとめた。『我ー汝』に文化を広く認めようと思った。」と先生自らの立場を表明している。

 ノルウェーの宗教哲学者トーレイフ・ボーマンと対談した時のことを振り返っている。

 ボーマン師が「一体わたしたちの生命やこの世界の存在は何によって在るのでしょうか。その源は光ではないでしょうか」と、白夜のオスロで話された。

 そのことに対して先生は、『源の光』とは何か、『光によって生きる』とは一体どういうことであろうか。自分とは何か、人間は絶えず問いつづける。同時に大自然、人間、神仏の他者(汝)との出合いにより、自己の存在の意味を気付かせられ、また、その出合いの恵みに感謝し、それに報いようとするのであると述べておられる。

 また、大患に遇って志半ばですべてを諦めたひとりの親友のことを、「彼の運命とその悲劇を生き抜こうとしている態度に、いつまでもともに文学や宗教を語り合おうと決めた出合いであった」と慟哭の思いを晩年まで語っている。

 その真摯な態度と生き方あればこそ、この名訳ありと思う。


二つの常識への挑戦  

 この本の全体は、第一部の最初の6ページに集約されていると私は思っているが、まず出だしから驚かされる。
 

世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。

 
 このことばに、私は二つの内容をみる。

 
 ひとつは、
「世界は一つではない。世界は二つある。」ということ。

 もうひとつは、
「人間のとる態度とは別に世界が存在するわけではない。世界は、人間のとる態度による。」ということ。

 このふたつの内容は、私の物の見方をひっくり返すほどの衝撃のことばであった。

 なぜなら、私は、「世界は一つ」。そして、「その世界は人間のとる態度とは別に存在している」と思っていたからである。
 このことは、疑ったこともないほど私にとっては常識であった。

 ブーバーのことばは、その二つの私の常識への挑戦であった。

 しかし、私がいつも明確に意識的に、「世界は一つで、その世界は人間のとる態度とは別に存在している」と考えて生活していたというのではない。
 逆にこのブーバーのことばに出会って初めて、「あー自分は、世界は一つで、その世界は人間のとる態度とは別に存在している」と、疑うこともないほど当然のこととして生きてきたのだなと気づかされたのである。

 ブーバーの言うのが正しいのであれば、私が長年生きるのに拠り所としてきたものの考え方は、誤りといことになるではないか。

 私のものの考え方、発想法の否定であってみれば、「はいそうですか」と簡単には受け取れなかった。
 なぜなら、世界をどうとらえるかは、そのままどう生きるかと直結しているからである。
 大袈裟に言えば、私の全存在がかかっていたからである。

 この本の最初のページから、真正面から向き合わなければならない、衝撃的な出会いであった。


「穢土と浄 土」への視点

 「世界は二つある」というと、まず連想されたのが「穢土と浄 土」であった。

 もちろんブーバーが二つの世界を「穢土と浄土」と想定したわけではない。
 しかしながら、ブーバーのことばが真実であるならば、洋の東西を問わず真実の世界の有り様を言い当てているはずである。
 だから二つの世界を「穢土と浄土」と受け取るならば、「穢土と浄土」は人間のとる態度とは別に存在するわけではないということになる。

 それはまた「世界」を、つまり「穢土と浄土」を人間の態度とは別に実体化してとらえることを否定することでもある。
 「穢土と浄土」を実体化してとらえることを否定することであるならば、実体化しないとらえ方とはどういうとらえ方か?
 「穢土」と「浄土」は、ただ並列的に考えられる世界なのか?

 次から次に疑問がわいてきた。
 仏教を受け取る上で避けては通れない問題である。いずれ詳しく触れなければいけないだろう。 

 ブーバーのことばを考えながら浄土真宗を受け取り、浄土真宗を考えながらブーバーのことばを受け取るというのが、私のここ数十年の聞思修(聞くこと、読むこと考えること、実行すること)であった。

根源語の二重性 

 『世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。』に続くことばは、


人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。


 ブーバーは、人間の態度はことばによって決定されることをまず指摘する。
 ことばは、本来切れないものをあえて切る道具である。本来切れないものは、切られたものと同じではない。だから道具である言語には限界がある。
 このことばの限界を意識しながら論をすすめたのが第二の釈迦と言われる龍樹菩薩(150~250年頃)である。
 限界があるけれども、ことばなしには何も表現できない。だからことばによってとりあえず名付けることを「仮名」と言う。
 ことばの「月」は、月そのものではない。「月」ということばは月そのものを差す指でしかない。
 指は月ではない。

 しかし、指が何を指したかによつて、われわれが何を見るかが決定される。
 つまりどういうことばを語るかによって、われわれが何を見るかが決まる。
 何を見るかが決まということは、その態度が決まるということである。
 態度が決まるという事は、どういう世界を生きるかが決まるということである。

 その態度を決めるほどの重要なことばを、ブーバーは根源語と命名し、その根源語の内容を明確にしていく。


人間の二つの〈われ〉  

根源語とは、単独語ではなく、対応語である。



と、いきなり根源語とは対応語であるとの重要な見解が述べられ、そして根源語である対応語には二種類あることが初めて明らかにされる。


根源語の一つは、〈われ―なんじ〉の対応語である。
他の根源語は、〈われ―それ〉の対応語である。
この場合〈それ〉のかわりに〈彼〉と〈彼女〉のいずれかに置きかえても、根源語には変化はない。


 〈われ―それ〉の〈それ〉は対象化、分別化、分断化、固定化、物質化された「もの」であるが、人においては、三人称の〈彼〉や〈彼女〉に置きかえてもよいというのである。〈われ―それ〉は、〈われ―彼〉、〈われ―彼女〉と置き換えることが可能である。〈彼〉とか〈彼女〉という呼びかけは、対象化した〈それ〉に他ならない。 


したがって人間の〈われ〉も二つとなる。
なぜならば、根源語〈われ―なんじ〉の〈われ〉は、根源語〈われ―それ〉の〈われ〉とは異なったものだからである。


   
 ここでブーバーは、『人間の〈われ〉も二つとなる。』という驚くべき事を指摘する。
 〈われ〉といったら一つであって、〈われ〉が二つなどということは、かって私は考えた事もななかった。
 〈われ―なんじ〉の世界を生きる〈われ〉と、〈われ―それ〉の世界を生きる〈われ〉とは、まったく異なる〈われ〉である。
 だから〈われ〉は二つあると。
 〈われ〉が二つあるということは、〈われ〉が生きる世界が二つあるということである。
 「世界は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。」
 心の底に響きいるような結論である。
 ブーバーの話には、いつもドキドキさせられる。 

キー・ワード:『根源語とは、対応語である。』

 ブーバーは『根源語とは、単独語ではなく、対応語である。』と述べ、いきなり対応語から話を進めている。
 そのため、この短い『根源語とは、単独語ではなく、対応語である。』ということばは、気にとめなければ読み飛ばしてしまいそうなほどである。
 しかし、このことばは仏教から言えば、大変重大な意味をもつ。つまり、キー・ワードである。
 なぜキー・ワードであるか。

 私たちは日頃、「自分」(〈われ〉)がいると思って生きている。
 そして同時にまた、「自分以外のもの」(〈それ〉、〈なんじ〉)があると思って生きている。
 要するに私たちは、(私は私)、(それはそれ)、(あなたはあなた)と、先天的にバラバラに(私)、(それ)、(あなた)が存在していると考えている。それが私たちの正しいと思っている普通の考え方、感じ方である。
 もともとおれがいて、おまえがいて、そして物があって、それはあたりまえのことだと、疑うこともないほど私たちは深く思い込んでいる。

 この先天的に(私)(それ)(あなた)が存在しているという考え方は、ブーバーが前提にしなかった「根源語とは単独語である」という視点である。

 するとまず、実体化した単独語〈われ〉、〈それ〉、〈なんじ〉があり、その単独語が関係づけられて〈われ―なんじ〉、〈われ―それ〉ができあがると考えることになる。
 すると〈われ―なんじ〉の〈われ〉と〈われ―それ〉の〈われ〉は同一の実体化した〈われ〉のままである。

 「根源語とは単独語である」という、世界は私とは関係なく単独にそれ自身として存在しているという物の見方は、必然的に「世界は人間のとる態度によらない。世界は一つである。」という結論を導く。これが私たちの常識的、日常的なものの見方である。

 ブーバーの「根源語とは、単独語ではなく、対応語である」ということばは、この私たちの「世界は人間のとる態度によらない。世界は一つである。」というものの見方は根底的に間違っているという衝撃のことばにほかならない。それは、私たちの世界観は間違っているという驚くべき指摘である。


唯識の三性説(さんしょうせつ)

 仏教には、インド大乗仏教思想の二つの頂点と言われている、「空・中観」の思想と「唯識」の思想がある。「空・中観」の思想は龍樹に代表され、釈尊の縁起の法を空としてとらえ直し、般若思想を空観として確立したと言われている。「唯識」の思想は無着や天親に代表される、「無明」と言われる私たちの心の闇のしくみを体系的に明らかにした。

 その唯識には、三性説というものの見方がある。「分別性」「依他性」「真実性」である。この三性説は示唆に富んでいて、この教えにふれていっぺんに視野が広がったような感動を覚えた。わたしだけでなく、きっと多くの方々にとってもそうであるだろう。

 「分別性」とは、先天的にものがバラバラに存在しているというものの見方である。つまり単独語としてものを見る見方である。それをブーバーは、「単独語は、根源語ではない」とし、あえて語らず、いきなり対応語から話を進めている。
 しかし仏教は、単独語からものを見る人間の迷妄性を問題にした。

 (私)(それ)(あなた)などが別々に先天的に存在していると見る認識能力を「分別知」と言う。「分別知」によって「分別性」は成り立っている。「分別性」は、我執がつくりだした虚妄分別でしかないが、それが日常的であまりにも当然のごとくになっているため、無意識にそのような発想で物を見、考えて、それを常識として生きているのが私達である。唯識はこの「分別性」の上に築かれる世界は顛倒妄想の世界であることを明らかにする。

 「依他性」とは、一切のものは互いに依存しあっているという見方である。釈尊は、この世の中の出来事は全て、因と縁によって起こり、縁が合えば生じ、縁が離れれば滅びるもので、固定的な永遠不変の実在はなく、「すべてのものは他に依っている」という「縁起の法」を説いた。縁起とは因縁生起の略で、因縁によらず単独で生起するものはないというのが釈尊の教えである。これはだれも否定できない事実である。

 これはブーバーの言う「対応語」の視点であるが、問題は対応語には〈われーそれ〉と〈われーなんじ〉の二つがあるということである。

 このことに関して、訳者の植田重雄さんは次のような「訳註」をしている。

「〈われーなんじ〉、〈われーそれ〉というようにかならず対応していて、他の対応は存在しない。単独に〈われ〉、〈それ〉が結びついて根源語をつくっているのではなく、  〈われーなんじ〉、〈われーそれ〉の根源語が、これらすべてに先行している。」

 だからブーバーは、単刀直入にこの正しいものの見方である対応語から話をはじめるという指摘である。つまり、〈われーなんじ〉という根源語と〈われーそれ〉という根源語がすべてのはじまりである。それ以外はありえないと。

 しかし、私たちは「ありえない」考え方にまずとらわれて生きている。それで仏教は、「分別性」つまり「単独語」からものを考えることの迷妄性を明らかにし、それを超える道を私たちに明らかにする事から始める。

 「真実性」とは、一切のものは根源的にはつながり合っていてひとつのものであるという見方であり、本来的にはすべてのものは相を離れた無相のものであるというのが真実のすがたであるというので「真実性」という。真如、一如ともいう。これを見抜く智慧を「無分別智」という。いわゆる「般若の智慧」である。


「依他性」への二つの視点

 問題は、「分別性」から「依他性」を見るか、「真実性」から「依他性」を見るかである。

 「分別性」から「依他性」を見る視点。

 単独語は「分別性」の問題である。それは「縁起の法」に反することであり、釈尊が否定されたことである。その釈尊の否定された「分別性」から「依他性」を見る、つまり別々の存在がまずあって、それからつながりを見る視点、これが私たちの普通の物の見方である。
 たとえば、一本の竹を考えてみよう。竹には節の部分と腹の部分がある。
 「分別性」、あるいは単独語の視点は、初めから竹の「節」と「腹」が別々にあり、その別々の「節」と「腹」がつながって竹ができたという視点である。
 人間にあてはめれば、手や肩や胸や胴体や足が別々にあって、それがつながって人間ができるという視点である。現代の科学的思考方法の基礎をなしている。
 こういう思考方法を仏教では分別知というが、「竹の節だけを持ってきて下さい」と言われて、「節」だけを持ってくることはできない。どこからどこまでが「節」であるかを決めることは不可能なことだからである。その不可能なことを根拠にする虚妄な視点から関係性を見ることが、ブーバーのいう対応語〈われーそれ〉である。

 「真実性」から「依他性」を見る視点。

 たとえば、一本の竹の節だけを、あるいは腹だけをもってくることは不可能である。分離はできない。しかし、節と腹は区別はできる。つまり「分離はできないが区別はできる。」「分離はできない」とは、本来的にひとつのものであるからである。このひとつのものであることを見る智慧が無分別智である。しかし「区別はできる」とは、互いに関係し合っているということであるが、これをみることのできる智慧が般若後得智である。
 すでにして釈尊は「諸行無常・諸法無我」の教えをとおして、実体化し、固定化してものをみることの誤りを明らかにした。「諸行無常」とは、すべての現象は変化し続けており、永遠に不変なものは存在しないということである。「諸法無我」とは、すべてのものは因縁によって生じたものであって実体がない。独立して成立するものはないので「我」は存在しないということである。
 この釈尊の「縁起の法」「諸行無常・諸法無我」の教えは龍樹菩薩の空観に、そしてまた天親菩薩などの唯識思想にひきつがれていった。「縁起」を龍樹菩薩は「空」ということばで表現し、実体的に物を見る見方の誤りを明確にした。「空」を「実体としてあるのではないが、現象としてはある」と言い換えるとよくわかる。先に述べた「分離はできないが区別はできる。」を考えてみよう。「分離はできない」は「実体としてはない」、「区別はできる」は「現象としてはある」に対応する。
 「真実性」から「依他性」を見る視点は、まさしくブーバーが問題にした〈われーなんじ〉の視点であるが、それは仏教の無分別智や般若後得智や空の思想に密接に関係づけられる。

 私は、このブーバーの『汝と我』の書物によって、ものの考え方の誤りを繰り返し繰り返し指摘され、沢山のことを教えられた。
 私にとってこの書物は、現代の唯識である。
 この書物に出合わなければ、私の浄土真宗との出遇いはどうだっただろうかと思うほどである。この書物を残されたブーバーに心から感謝する。

 ここでひとつ言えることは、私たちが疑う事もないほど無意識的に肯定している、「根源語とは単独語である」という考え方は、仏教の縁起の法に反している。だから「根源語とは単独語である」という常識的な考え方の延長線上に仏道はなく、ついに仏法はわからないであろう。
 「根源語とは対応語である」とのうなずきは、仏道への入り口である。対応語〈われーなんじ〉は本願念仏への遭遇をもたらすであろう。如来は、単独語でなく、対応語〈われーなんじ〉としてあらわれるであろう。


対応語が〈われ〉を成立さす


根源語は、それをはなれて外にある何かを言い表わすのではなく、根源語が語られることによって、存在の存立がひき起こされる。



 この章にも、大事なことが語られている。
 『根源語は、それをはなれて外にある何かを言い表わすのではなく、根源語が語られることによって、存在の存立がひき起こされる。』は、『根源語は、根源語をはなれて外にある何かを言い表わすのではなく、根源語が語られることによって、〈われ〉がひき起こされる。』と言い換えると分かりやすい。

根源語は、存在者によって語られる。〈なんじ〉が語られるとき、〈われーなんじ〉の〈われ〉がともに語られる。
 〈それ〉が語られるとき、対応語〈われーそれ〉の〈われ〉がともに語られる。


  
 つまり、『根源語が語られることによって、二つの〈われ〉がひき起こされる。』〈われ〉がひき起こされるとは、具体的には、『〈なんじ〉が語られるとき、〈われーなんじ〉の〈われ〉がひき起こされる。』『〈それ〉が語られるとき、対応語〈われーそれ〉の〈われ〉がひき起こされる』ことである。


「関係性」の世界と「もの」の世界  

〈われーなんじ〉は「関係性」の世界

 根源語〈われーなんじ〉の〈われ〉は〈なんじ〉という呼びかけが聞こえた〈われ〉である。そしてその〈われ〉もまた〈なんじ〉と呼びかける存在である。〈なんじ〉と呼びかけれれた〈われ〉と〈なんじ〉と呼びかける〈われ〉は〈われーなんじ〉の広い真実の世界を生きる〈われ〉である。
 後ほど、ブーバーは〈なんじ〉の内容をいくつかに分けて表現し、その中でもっとも重要な〈なんじ〉は、永遠の〈なんじ〉であると指摘している。

〈われーそれ〉は「もの」の世界

 次に〈それ〉について考えてみる。
 〈それ〉と呼びかけた〈われ〉は、〈われーそれ〉の世界を生きる〈われ〉となる。〈われーそれ〉の世界を生きるということは、〈それ〉と呼びかけた〈われ〉もまた〈それ〉の存在になるということである。
 先回、〈われーそれ〉の〈それ〉は実体化、物質化、対象化、分別化、固定化、分断化された「もの」をあらわすことになると述べた。対象を「もの」にしてしまうということは、私もまた「もの」になるということである。他者を「もの」として扱うと言うことは、私もまた「もの」になり、私だけ〈なんじ〉のままでいることはできない。

 対象を「もの」にしたり、他者を「もの」にするのは、私の自我(Ego)の働きである。その自我の深層のはたらきを、唯識は「未那識」として明らかにした。

根源語〈われーなんじ〉根源語と〈われーそれ〉の決定的違い  

 次にブーバーは、二つの根源語の特性の決定的違いを指摘する。


根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる。
根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない。


 衝撃のことばである。何と本質をついたすごいことばだろう。

 〈われーなんじ〉は無分別の世界の表象である。
 〈われーそれ〉は分別の世界の表象である。
 
 〈われーなんじ〉は分別化、対象化では向き合えない世界である。だから分別化、対象化しながら〈なんじ〉と呼びかけることは成立しない。いくら我々が〈われーなんじ〉の世界を願っても、分別化、対象化を超えることができなければ〈われーなんじ〉の世界は成立しないということである。〈われーそれ〉では分別を超えた無分別の世界を届けることはできない。〈われーなんじ〉の世界は、ただ全存在をもって語り、全存在をもって向き合えるだけである。

 〈われーそれ〉、つまり分別し対象化してしか生きてない悲しい我々に、全存在をもってのみ語ることができる〈われーなんじ〉の世界はどうしたら成立するのか。これがキーポイントである。

 いくら〈われーなんじ〉の世界のことを言っても、その世界の成立する道筋というか、方法論が明らかでなければ絵に書いた餅で終ってしまう。

 しかし幸いなるかな、〈われーなんじ〉の世界の成立を明らかにする教典がある。

 「それ、真実の教を顕さば、すなわち『大無量寿経』これなり」(『教行信証』教巻)


如来は対応語〈われーなんじ〉としてあらわれる  

 『大無量寿経』はどう明らかにしたのか。
 全存在をかけて願いをもって〈われーなんじ〉と呼びかけるもの、それが法蔵菩薩である。
 法蔵菩薩の本願(48願)は、すべて『たとい我、仏を得んに〜正覚を取らじ。』となっている。また『重誓偈(三誓偈)』では、『我、〜誓う、正覚を成らじ。』と三度繰り返している。

 法蔵菩薩は、願いの実現に “いのち” とも言うべき正覚、つまり自らの全存在をかけているのである。これは、たいへんなことである。
 私の救いのために自らの全存在をかけるもの、それが阿弥陀如来である。

 その如来のいのちがけの願いに深くうなずいた方が親鸞聖人である。
 『歎異抄』には、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたる本願のかたじけなさよ」とつねづね仰せになっておられたとある。
 そして、その如来のまごころを「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 回向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」(『正像末和讃』)といただかれています。
 
 かって、曽我量深先生は次のように言われた。
  「如来に信じられ
   如来に敬せられ
   如来に愛せられ
   かくて我々は
   如来を信ずることを得る」

 また、
  「仏から信ぜられている。
   絶対に何もかも承知の上で信ぜられている、
   このことが一番大切で、
   本願だの念仏だの、
   その後の問題です。
   仏から信ぜられているということが
   信ぜられないのを難信と申します。」

 私たちは、愛してくれるものの名前を呼ぶようになる。

 〈われーそれ〉の〈それ〉は分別化であり対象化である。〈それ〉とは、〈われ〉がかってに全体から切り取った一部分でしかない。だから〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることはできないのである。もし法蔵菩薩が、願いの成就に自らの存在の一部分しかかけないのであれば、そのはたらきは〈われーなんじ〉ではなく〈われーそれ〉になってしまう。

 『たとい我、仏を得んに〜正覚を取らじ。』という本願は、法蔵菩薩にまでなって、迷える衆生に呼びかけざるをえない如来の〈われーなんじ〉の呼びかけである。
 阿弥陀如来は対応語〈われーなんじ〉としてあらわれる。

 全存在を投げ出された如来の〈われーなんじ〉の呼びかけである本願念仏(南無阿弥陀仏)が、〈われーそれ〉しか生きてない我々に〈われーなんじ〉の世界を瞬時に開くのを「横超」といい、如来の〈われーなんじ〉の呼びかけへの目覚めを「賜りたる信」という。〈われーなんじ〉と呼びかけられていることに目覚めたものは、〈われーなんじ〉に呼応する存在となる。それが、諸仏称名の願(十七願)のはたらきである。


自力の念仏と他力の念仏  

 かって私は『まなざし』に、念仏について次のような内容の文章を書いた。

 自力の念仏は、ブーバーの言を借りれば〈われーそれ〉の〈それ〉という「もの」でしかありません。単に対象化された外なるちっぽげな〈それ〉という「もの」でしかない念仏は有っても無くてもよく、時には邪魔物です。暗くてたよりなく思われれのは当然です。なぜなら、念仏より私の方が大きいからです。
 念仏がわかるとは、念仏とはこういうものだと、人間の理性でもって解釈し理由づけをして、「はい、わかりました」というそういうわかり方、〈われーそれ〉の〈それ〉という「もの」としての理解のしかたではない。
 念仏によって、自己愛をいのちとし、それをいのちとして生きている事さえ知らないで自己を正当化し、善悪を振りかざして生きてきた傲慢で愚かな、お粗末な私が照らし出しされる。他力の本願念仏は、〈われーなんじ〉の〈なんじ〉として届くということです。
 〈われーなんじ〉の〈なんじ〉は、私との関係性として成立し対象化できないものですから、もはや念仏は人間の理性で掴みとれるものではなく、人間の理性の偏狭さと迷妄さを照らし出すもの、人間の理性を超えた働きとして届きます。人間の理性で念仏が分からないのは当然です。私が念仏を問うのではなく、念仏の方が常に私を問い続けているのだと目が覚めることなのです。

 〈われーそれ〉の念仏は自力の念仏である。ブーバーのことばによれば、その自力の念仏は対象化し分別化した念仏であるから、けっして全存在をもって語ることができない念仏である。
 念仏より私の方が大きくて、念仏は私の道具でありおもちゃでしかない。我々は、こんなおもちゃの念仏で救われるなんて思えないから、長い年月に渡って念仏に対する疑いを口にする。
 「何で念仏したら救われるのですか」
 「念仏だけでいいんですか」
 「念仏しても何も変わらない」
 「念仏は暗い」
 「念仏は〜」等々。
 それはまさしく〈われーそれ〉の念仏、自力の念仏であるがゆえの疑いである。

 その疑いが晴れる日がこなければ、決して全存在をもってのみ語ることができる〈われーなんじ〉の念仏の世界は開かれないと言える。
 〈われーそれ〉の念仏が破られて、〈われーなんじ〉の念仏が、疑いようもなく開かれることを回心と言う。「一向専修の人においては回心ということただ一度あるべし」(『歎異抄』)である。

 〈われーなんじ〉の世界が本来のあるべき世界であり、〈われーそれ〉の世界は妄念妄想の世界であるが、それをまったく逆に思って我々は生きている。それを、顛倒妄想という。

 しかしながら、〈われーそれ〉の世界しか生きてない時に、〈われーなんじ〉の世界は何のことか分かりようもない。だから我々はどの人も、〈われーそれ〉の念仏から出発する以外にない。誰もが通らなければならない必然の道である。
 〈われーそれ〉の念仏まで誘われたことは幸いである。
 結局、我々は称名念仏しながら聞法を継続する以外に道はない。
 親鸞聖人は、「信心のひとにおとらじと 疑心自力の行者も 如来大悲の恩をしり 称名念仏はげむべし」(『疑惑和讃』)と称名念仏を勧めている。
 いつの日か恵まれて、我々自身の疑いは真実の働きによって破られるであろう。


 永遠の〈なんじ〉の名のり〈南無阿弥陀仏〉  

 縁起の法から言うと、〈われーそれ〉の分断化した世界でなく、〈われーなんじ〉の関係性の成立した世界こそが一如の世界、真実の世界である。
 だから〈われーそれ〉の世界に固守している我々人間は、〈われーなんじ〉の真実の世界に背を向けている。それを誹謗正法という。
 〈われーそれ〉の世界は不実なる世界ゆえに、我々はいのちをいのちのごとくは生き切れない。喘ぎ苦しみ遂に虚しい人生を終る以外ない世界である。
 その〈われーそれ〉の世界を生きる人間に、〈われーなんじ〉の関係性の世界は、本来の〈われーなんじ〉の真実の世界を届けようと〈なんじ〉と呼びかけ続け働きつづけている。それを私は如来原理とよんでいる。

 全存在をもってのみ語ることができる根源語〈われーなんじ〉をブーバーは、永遠の〈なんじ〉と表現しているが、その永遠の〈なんじ〉の呼びかけ、それが〈南無阿弥陀仏〉である。
 〈われーなんじ〉の世界は、〈われ〉と〈なんじ〉が関係性として存在する世界である。〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる対象化、分別化を超えた世界である。つまり〈われーなんじ〉の世界では〈われ〉は〈なんじ〉であり、〈なんじ〉は〈われ〉である。
 つまり〈南無阿弥陀仏〉は〈われ〉となり、〈われ〉は〈南無阿弥陀仏〉となる。

 このときの感動を、かって巻頭言とした。

   私が〈なんじ〉と呼ぶに先立って
   私が〈なんじ〉と呼ばれていた驚き
   〈南無阿弥陀仏〉と無始以来
   私を〈なんじ〉と呼びつづける声があった
 
   私の誓いに先立って
   私が誓われていた驚き
   「たとい我、仏を得んに、
   国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」と
   私が三悪道を超えるまで
   仏にならないとの誓いがかけられていた身の幸

   念仏ひとつで開かれた世界
   諸仏のみ教えがなければ
   とてもとても知り得ない世界でした

 〈なんじ〉行けの釈尊の声、〈なんじ〉来れの阿弥陀仏の声、それが〈南無阿弥陀仏〉である。本願念仏を賜るということは、如来に〈なんじ〉と呼びかけられている身であることに目がさめて、〈われーなんじ〉の世界を賜ることである。

 ブーバーは繰り返す。〈われ〉がそれ自体で存在すると思い込んでいるわれわれの頑迷さを指摘して何度でも訂正する。

〈われ〉はそれ自体では存在しない。根源語〈われーなんじ〉の〈われ〉と、根源語〈われーそれ〉の〈それ〉があるだけである。


根源語を語るひとは、言葉の中へとはいってゆき、その中に生きるのである。

 〈われーそれ〉の〈それ〉を語るひとはその世界を生き、〈われーなんじ〉の〈なんじ〉を語るひとはその世界を生きるのだと。〈われーなんじ〉をもっと明確に言い換えると、「南無阿弥陀仏と称名念仏するひとは、言葉の中へとはいってゆき、その中に生きるのである」と。
 本来、煩悩具足した人間は、〈われーそれ〉の分別化したバラバラの世界で一生を終える以外のない存在である。〈われーなんじ〉の世界とは無縁である。〈われーなんじ〉の世界は、真実の方の働きによって開かれる世界である。だから〈われーなんじ〉の本願念仏の世界は如来より賜る世界である。


ユングのEgoとSelf  

 ところでブーバーの

根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる。
根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない。
〈われ〉はそれ自体では存在しない。根源語〈われーなんじ〉の〈われ〉と、根源語〈われーそれ〉の〈われ〉があるだけである。

のことばを、カール・グスタフ・ユング(以下ユング)のことばで敷衍しておく。

カール・グスタフ・ユング

 ユングの認識をとおすことで、ブーバーの伝えたい内容が明確になり。そして仏教の明らかにした世界がいかに本質的で豊な世界であるかを再認識した。これもまた感動なしには語れない大きな出合いであった。

 ユングは Ego(自我)と Self(自己)を使い分ける。

 ある時、あなたのいう Selfとは何ですかという質問に対して、ユングは、「Selfとは all of youです」と答えた。
 all of youは直訳すれば「すべての皆さん」となるが、意味していることは「つながり合った切れないおおいなる一枚のいのち」であろう。 
 Egoとは、根源語〈われーそれ〉の〈われ〉であり、このときのEgoはけっして全存在をもって語ることはできない。

 一方、Selfは根源語〈われーなんじ〉の〈われ〉=〈なんじ〉(「本来的いのち」)であり、このときの〈われーなんじ〉は「つながり合った切れないおおいなる一枚のいのち」であるから全存在をもってのみ語ることができる。まさしく all of youである。
 ブーバーもユングも同じ世界を表現しようとしていた思われる。

 Ego(自我=私)は煩悩の本体である。私の中に煩悩があるのではなく、「わたし」という「我」をたてること自体が煩悩である。だから煩悩に名前を付けて「私」というのである。その「私」は貪欲・瞋恚・愚痴の三毒の100%の固まりである。私たちは肉体が滅びるまで「私」を立てる。それが生きるということである。


他動詞の世界と自動詞の世界  

 さて次のブーバーのことばに移る。

人間の生は、目的語をとる他動詞の領域だけで成り立ってはいない。なにかを目的にもつ行為のみから成り立ってはいない。わたしはなにかを知覚する。わたしはなにかを意識する。わたしはなにかを表象する。
 わたしはなにかを意志する。わたしはなにかを感じる。わたしはなにかを思惟する。すべてこのようなことや、これと似かよったことだけで、人間の生は成り立っているのではない。こういったことや、これと似かよったことは、すべてみな〈それ〉の世界に根ざしている。
しかるに、〈なんじ〉の世界は、別の根源に基礎をおいている。

 ブーバーの「人間の生は、目的語をとる他動詞の領域だけで成り立ってはいない」「人間の生は、なにかを目的にもつ行為のみから成り立ってはいない」という指摘と他動詞という表現に、わたしは少なからぬ感動を覚え目を閉じた。
 あー、そうなんだ、人間は「わたしはなにかを知覚する。わたしはなにかを意識する。わたしはなにかを表象する。わたしはなにかを意志する。わたしはなにかを感じる。わたしはなにかを思惟する。すべてこのようなことや、これと似かよったこと」だけで生きているわけではないのだ。
 そう思えたとき、私が喘ぎ喘ぎ生きてきた世界がどんな世界だったのかが明らかになった。

 私は十代の頃から生きていく虚しさに喘いできた。その虚しさを紛らわせ生きるためには、目標を掲げその目標を実現することに全精力を注いできた。劣等感と優越感の間をゆれ動き、卑下と慢心でくたくたに疲れ、時に生きていく意欲を無くし途方に暮れる日々であった。走れるだけ走ってきた。立ち止まったらもう生きて行けないという不安感から、走りつづける以外なかった。「こんなにつらい毎日を、なぜ人々は何ごともないかのごとく、平気で生きていけるのかわからい」「倒れるときは、前のめりに倒れたい」というのが私の口癖で、偽らざる実感であった。
 かって、わたしは次のような巻頭言を書いた、

    人事を尽くして、天命を待つ」
    それを世間道という
    そのことばを呪文のように唱えて生きてきた
    人事を尽くそうとする自己の正体は問わないで
    理想を掲げて、ただただ走ってきた

    自己の正体が明らかにならなければ
    人事を尽くすことも
    天命を待つことも外のこと
    外のことで内なる自己を満たそうとした
    走る以外ない人生
    これが人生の空過だとは気づかずに

 私が生きてきた世界は、「人間の生は、目的語をとる他動詞の領域だけで成り立ち」「人間の生は、なにかを目的にもつ行為のみから成り立っている」世界であった。その世界のことをブーバーは、「目的語をとる他動詞の領域」は「すべてみな〈それ〉の世界に根ざしている」と指摘する。私が生ききれなかった世界、それは「〈それ〉の世界」であった。分別し対象化し、固定化し物質化する、命を枯渇させる世界であった。自己充足ということの無い世界であった。

    本来のありようから逸脱しているため
    自分で自分を受け取れない
    『いま、ここ』を生ききれない
    それを人生の空過という

    今の生命を未来への期待で浪費し
    今の生命を過去への後悔でいじめ殺す
    それを内なる殺生という

    人生の空過の内実は今の生命の殺生

 しかし、世界は「〈それ〉の世界」だけではないとブーバーは指摘した。
 他動詞に対する品詞は自動詞であるから、「人間の生は、目的語をとる他動詞の領域だけで成り立ってはいない」「人間の生は、なにかを目的にもつ行為のみから成り立ってはいない」ということは、「人間の生は、目的語をとらない自動詞の領域でも成り立っている」「人間の生は、なにものも目的にしない行為からも成り立っている」ということである。
 言われてみれば、今はそうだなとうなづける。しかし以前は、見えなかった世界、考えたこともなかった世界である。
 ブーバーは、この世界は「〈なんじ〉の世界に根ざしている」、この「〈なんじ〉の世界は、別の根源に基礎をおいている」ことを明らかにする。

〈なんじ〉を語るひとは、対象といったようなものをもたない。なぜならば、〈なにかあるもの〉が存在するところには、かならず他の〈なにかあるもの〉が存在するからである。それぞれの〈それ〉は、他の〈それ〉と境を接する。〈それ〉は、他の〈それ〉と境を接することによってのみ存在する。しかるに、〈なんじ〉が語られるところでは、〈なにかあるもの〉は存在しない。〈なんじ〉は限界をもたない。
〈なんじ〉を語るひとは、〈なにかあるもの〉をもたない、否、全然なにものをも、もたない。そうではなくて〈なんじ〉を語るひとは、関係の中に生きるのである。

    
 これは「根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる」の別の表現である。
 「人間の生は、目的語をとらない自動詞の領域でも成り立っている」「人間の生は、なにものも目的にしない行為からも成り立っている」その世界は、自己充足の世界である。かっての私とはまったく無縁の世界ある。
 この世界をわたしに届けたのは本願念仏の教えであった。

    念仏が私を止めた
    『今日も悪く、昨日も悪く、
    明日もまたいよいよ悪い』と
    自己の正体に目が覚めた時
    人は天命に安んじて永遠の今を生きる
    人事を尽くす内なる人生が始まる
    それを往生という
    「天命に安んじて、人事を尽くす」
    それを出世間道、仏道という

 「天命に安んじる世界」とは、自己充足の世界である。
 私に〈なんじ〉と呼びかける〈永遠のなんじ〉との関係性を生きる世界が開かれたとき、人は本来の自己に出会い、初めて自己充足の世界を知る。
 〈永遠のなんじ〉真実の世界は、私自身の正体が明らかになる働きとして届く。その時私たちに、人事を尽くして悔いのない内なる人生が始まり、内なる世界が開かれる。住岡夜晃先生は「内観の一道彼岸に通ず」と言われた。

 私たちは世間では、目的を掲げて生き、その目的の達成でもって満足や喜びを手に入れようとする。自らがあるということだけでは自己充足せず、外ものでもって充足を得ようとする世界を生きている。なにかを目的にもつ他動詞の世界を生きている。掲げた目標が達成できないとなれば、悲しんだり落ち込んだり、時には生きる意欲をなくしたりする世界である。これが私たちの流転して止まない現実の姿である。

     この悲惨きわまりない私を必ず救済すると
     法蔵菩薩は誓われた
     その誓いの真実に触れることがなかったら
     私は内なる殺生をしつづけて
     空しい一生を終えたであろう

 法蔵菩薩は本願念仏に託して、悲惨きわまりない私に自動詞の世界、〈なんじ〉の世界、自己充足の世界、関係性を生きる世界を届けることを誓われた。南無阿弥陀仏。


「経験」と「出遇い」

 次のブーバーのことばは

人間は世界を経験すると一般にいう。これは何を意味するか。人間は事物の表面を歩きまわり、それを経験する。人間は事物の性質についての知識、すなわち、経験を求める。彼は事物に関するすべての事柄を経験する。

 この「経験」について、訳註は、「ブーバーは(われーそれ)の領域を『経験(Erfahrunng)』に、(われーなんじ)の領域には『体験(Erleben)』、あるいは『出遇い(Begegnung)』を用いている。』と解説している。
 日本語として「経験」ということばと「体験」ということばはまぎらわしいので、ここでは「経験」と「出遇い」を用いる。
 つまり、〈われーそれ〉の世界での出来事は「経験」、〈われーなんじ〉の世界での出来事は「出遇い」とする。
 ブーバーは初めに「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」と述べていた。だからこうも言えよう。「世界での出来事は人間のとる二つの態度によって、『経験』あるいは『出遇い』になる」と。
 ブーバーはまず「経験」について、次のように指摘する。

しかし、経験だけが世界を人間に明かにするのではない。
なぜならば、経験は〈それ・それ・それ〉〈彼・彼〉〈彼女・彼女〉、どこまでいっても〈それ〉で成り立っている世界だけを明らかにするにすぎないからである。
わたしが経験するのは〈あるもの〉にすぎぬ。

 我々が自然や人間を〈それ〉として分析、解析して、つまり「経験」という対象化によって明らかになる世界は〈それ〉の世界でしかない。〈われーなんじ〉の世界とは無関係である。
 宗教、わけても浄土真宗は、まさしく〈われーなんじ〉の世界であるから、〈われーそれ〉という「経験」を積み重ねたにしても明らかにはならない。しかしながら悲しいかな、我々は〈われーそれ〉という対象化、分別化、物質化でもって、まさしく〈われーなんじ〉の世界の「本願」「本願念仏」を明らかにして、それから信じようと、虚しい努力を長年つづけてしまう。〈われーそれ〉のみをいくら積み重ねても、〈われーなんじ〉の世界には至れない。
 教典には、「存知」と「信知」ということばがある。〈われーそれ〉としての理解の仕方が「存知」、〈われーなんじ〉としての理解の仕方が「信知」であろう。
 「本願」「本願念仏」は「信知」されるものである。
 「存知」をいくら積み重ねても「信知」には至らない。「信知」は「存知」とは関係なく成立する。
 例えば『歎異抄』第二章には、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土にうまるるたねにてやはんべるらん、また、地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもって存知せざるなり」と、「存知」しなくても「信知」が成立することが語られている。
 「信知」は他力の信心で、「存知」を内包しそれを超える大きな働きである。

 「存知」、それは

・・・・おお、知識の堆積よ、それはどこまでも、〈それ〉〈それ〉にすぎない。

 では「信知」はどう成立するのか。
 如来の願いは、知識の堆積としての「存知」ではなく、いのちの通う〈われーなんじ〉の世界を生きる諸仏を通して届けられる。それは如来の願力自然の働き、「諸仏称名の願」(十七願)によって成立する。
 

 さらにブーバーは「経験」について、

経験にとどまっている間は人間は世界に関与しない。経験とは、まさに〈人間の中〉に生ずることであって、彼と世界の間に生ずるのではない。
世界は経験に関与しない。世界は経験されはするが、それは世界の関知することがらではない。なぜならば、世界は経験につけ加えるなにものもなく、経験によって出合うべきなにものもないからである。

 こう言っていいであろう。〈われーそれ〉の「経験」とは、私が私の思いの中をただ歩き回っているだけで、その中から一歩も出ることがない出来事である。もし我々が〈われーそれ〉だけで一生を終えるとするならば、自分から一歩も出ることなく一生を終えるだけではなく、ついにそのことさえ知らないで一生を終えるということである。それを「人生の空過」と言ったのであろう。
 〈われーなんじ〉の世界は教えられなければ分からない世界である。因縁恵まれ、たまたま、〈われーなんじ〉の世界を垣間見るこができた身の幸を思う。あてどもなく〈われーそれ〉〈われーそれ〉と、自分の思いの中のみをただ歩き回っているだけで、自分から一歩も出ることができない我が身。
 「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来、常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」(『教行信証』信巻)と言い当てられていた身。
 この出離の縁のない我が身にかけられていた弥陀の誓願の不思議。

経験は〈それ・それ・それ〉〈彼・彼〉〈彼女・彼女〉、どこまでいっても〈それ〉で成り立っている世界だけを明らかにするにすぎないからである。
 わたしが経験するのは〈あるもの〉にすぎぬ。

 〈われーそれ〉の人間関係を「知合い」、〈われーなんじ〉の人間関係を「出遇い」という。
 〈われーそれ〉の「経験」は、〈彼・彼〉〈彼女・彼女〉、どこまでいっても〈それ〉の世界で単なる「知合い」で終る。
 周りに人は沢山いる。しかし会っても、会っても会ったことにならない。それを二河白道の譬えは「無人空迥の沢」と言っているのであろう。
 夫婦、親子、兄弟、家族でさえ、単なる「知合い」になってないであろうか。
 出遇うべき人を見出し得ない人生は、あまりにも虚しい。
                   
 私がせっせと書いている「マルティン・ブーバー 衝撃の語録」を、読む人はほとんどいないだろう。たとえそうであっても、私にとっては今でも『我と汝』の本は汲めども尽きない貴重な本で、感銘を受けたことの確認とブーバーへの感謝を込めて、『我と汝』について一度は書きたかったテーマである。この本は読み返すたびに、自分の思考法の盲点を指摘され考え込んでしまう。薄皮を一枚一枚剥ぐように見えなかったところがそのつど明らかになる。変わらない「衝撃の語録」である。
 しかしもし、ひとりでもブーバーの『我と汝』の本を手にし、新たな出会いをする人があれば本当に嬉しいことである。

 さて、本題にはいる。

経験される対象の世界は、根源語〈われーそれ〉に属している。根源語〈われーなんじ〉は、関係の世界を成り立たせている。

 我々は〈われーなんじ〉の関係の世界の中にいながら、対象化して見る〈われーそれ〉の世界を生きている。
 対象化して見る〈われーそれ〉が人間的な発想であるがゆえに、真実なる普遍的な〈われーなんじ〉の世界は視野にはいらない。私達は〈われーそれ〉の発想が骨の髄までしみ込んでいるがゆえに、〈われーなんじ〉の世界の真実なることを何度聞いてもなかなか理解できない。
 〈われーなんじ〉の世界こそが根源的、普遍的世界であると言われても何か観念的な世界にしか思えない、身がうなずかない。
 その〈われーなんじ〉の世界に目が醒める難しさは、自己の正体に目が醒める難しさである。人間とは煩悩具足の存在であると目が醒めることなしに、人間的な発想法の枠をこえる事はできない。
 煩悩具足とは一〇〇%煩悩が満ち足りているということである。それは私の中に煩悩があるということではなく、煩悩に名前をつけて私と言っているということである。その煩悩による物の見方が、対象化してものをみる見方である。それが〈われーそれ〉の世界をつくる。〈われーそれ〉という対象化は、貪欲(むさぼり)と瞋恚(怒り)の症状としてあらわれる。その根源は愚痴(無明)である。わが身、わが生命に執着し、真実の道理など無視して自己保存、自己正当化のみで生きている。一言で言えば、わが身可愛さのみで生きている。
 〈われーなんじ〉の世界を説く真実の教えに出合う事がなければ、ついに〈われーそれ〉と対象化して見るこの迷妄の世界を生きているわが身に気付くこともなく一生を終ってしまうだろう。
 〈われーなんじ〉の世界は仏教で表現すれば一如の世界。縁起によってつながる切断しえない世界である。真実の世界、普遍の世界、仏まします世界である。大いなる共なる世界である。
 それに対して〈われーそれ〉の世界は娑婆、世間である。対象化し、物質化し差別化をおこない、善悪をいい、優劣をつける世界である。
 私達は仏まします普遍の世界(〈われーなんじ〉)の上にいながら、我執の思い(〈われーそれ〉)で真実の世界を汚し背を向けて生きている。


関係の世界の三つの領域  

 つづいてブーバーは、

関係の世界をつくっている領域は三つある。

 と指摘し、〈われーなんじ〉の関係の世界の説明をする。その関係の世界を大きく三つの領域に分けている。

第一は自然と交わる生活。そこでは関係は暗がりの中で羽ばたき、言語は通じない。被造物たちは、われわれに向かって動いているが、われわれのもとに来ることはできないし、彼らに向かってわれわれが〈なんじ〉と呼びかけても、言語の入口で立ち止まってしまう。

第二は人間と人間の交わる生活。そこでは関係は明白であり、言語の形体をとる。われわれは〈なんじ〉を与えたり受けとったりすることができる。

第三は精神的存在と交わる生活。ここでは関係は雲におおわれて見えないが、閃光のごとく自己を啓示している。言語はないけれども、言語を生み出す。われわれは〈なんじ〉を知覚しないけれど、呼びかけられるのを感じ、菰づくり、思惟し、行為しながら、これに答える。すなわち、われわれの口をもってしては、〈なんじ〉ということはできなくとも、われわれの全存在をもって、根源語を語るのである。

 三つの領域とは、「自然と交わる生活」「人間と人間の交わる生活」「精神的存在と交わる生活」である。
 しかし三つの領域といっても本来は私達とその関係性を切る事のできない共なるひとつの大いなる世界である。説明のためにそれをあえて三つの領域に分けただけだと思う。
 ところでここで、私は説明することの困難さを感じている。同じ自然や人間や精神的存在に対して、今のは、〈われーそれ〉の経験される対象の世界、今のは、〈われーなんじ〉の「経験」の世界であるとなぜ、またどうしたらいいうるのか。今、同じ自然や人間や精神的存在と言ったけれども、〈われーそれ〉の経験される対象の世界での自然や人間や精神的存在と、〈われーなんじ〉の「経験」の世界での自然や人間や精神的存在とは、同じ自然や人間や精神的存在とは言えないだろう。
 この問題にブーバーはどう答えるのであろうか。
 今はもっと単純に受け取っておこう。
 自然とは人間と精神的存在以外のすべて。つまり動物、植物、海、山、月、太陽、星などの一切。人間と人間が語り合うような言語の通じない世界である。しかし言語のいらない〈われーなんじ〉の世界と表現した方がいいような気がする。
 しかし、自然を私達の手段にしない、自然と向き合い交流する世界は本当に成り立つのだろうか。私達人間の方から自然に対して〈なんじ〉と呼びかけ、自然との間で〈われーなんじ〉の関係が成立するのであろうか。
 人間は言語をもつ。ブーバーは、その言語をもって「われわれは〈なんじ〉を与えたり、受けとったりすることができる」と言うけれども、それはどうすれば成立するのであろうか。私がいう〈なんじ〉は、本当は〈それ〉ではないとどうして言い切れるのか。
 問題や課題がいっぱいある。立ち止まり考え込む・・・。
 精神的存在。それをブーバーは永遠の〈なんじ〉と表現している。

 関係の世界をつくっている領域には、「自然と交わる生活」「人間と人間の交わる生活」「精神的存在と交わる生活」の三つの領域があることを述べた。ブーバーは各論というか、それぞれの細かいことについては後でふれている。


精神的存在と交わる生活  

 今回は「精神的存在と交わる生活」をとりあげる。

第三は精神的存在と交わる生活。ここでは関係は雲におおわれて見えないが、閃光のごとく自己を啓示している。言語はないけれども、言語を生み出す。われわれは〈な   んじ〉を知覚しないけれど、呼びかけられるのを感じ、菰づくり、思惟し、行為しながら、これに答える。すなわち、われわれの口をもってしては、〈なんじ〉ということはできなくとも、われわれの全存在をもって、根源語を語るのである。

 この文章につづいてブーバーは次の問いを出している。

しかしどのようにして言語をこえているものを根源語の世界の中に引き入れることがわれわれに許されるのであろうか。 

 そしてすぐにその問いに自ら答える。

われわれは、それぞれの三つの領域において、現存しながら生成する存在者をとおして、永遠の〈なんじ〉の裳裾をかいま見、それぞれの領域から、永遠の〈なんじ〉のいぶきを感じ取り、各領域のあり方にもとづき、それぞれの〈なんじ〉において、永遠の〈なんじ〉に語りかけるのである。 

                  裳裾・・・衣服(裳や衣)の裾
         
 訳者の植田さんは、「精神的存在」について「広く精神的世界の活動を表わし、その究極の実在や聖なるものなどをさす」、「閃光のごとく自己を啓示している」については「実在や聖なるものは、不可視、不可測ではあるが、時々閃光のように自己を啓示し、その意思を語る」と訳注している。
 啓示について『広辞苑』には、「あらわし示すこと。人知を以て知ることのできない神秘を神自らが人間に対する愛の故に蔽いを除いてあらわし示すこと」とある。そのように一般的には、啓示とは神が超自然的存在や現象を介して宗教的真実や神秘を単独の〈われ〉に伝える事と考えられているが、ブーバーによればそうではなくて、啓示は〈われーなんじ〉の〈われ〉と〈なんじ〉の出会いの現実の中に生起するという。このことを訳者の植田さんは解説で次のように述べている。
    
 ブーバーはこの対話という存在了解の道をとおって、人間中心の〈われ〉だけによるのではなく、〈われ〉と〈なんじ〉の間に生じるものが、真の存在であり、出合いとしての啓示の展開であると見る。この〈われ〉と〈なんじ〉の「間の領域」こそ、存在が存在となり、一切が成熟してゆく。もはや啓示を遠い彼方のものとして想い浮かべるのではなく、現実に生きる〈今〉〈ここ〉において、〈われ〉と〈なんじ〉の全人格的呼びかけや出合いの現存在の中に生起し、成熟するものなのである。

 実に明解な解説である。
 ここで以上に引用したブーバーと植田さんの文章を、独断と偏見を恐れずに浄土真宗を通して考えてみる。

 ブーバーは「精神的存在」を「永遠の〈なんじ〉」といい、植田さんは「広く精神的世界の活動を表わし、その究極の実在や聖なるものなどをさす」と解説している。それらのことばは仏教の「如来」「法性法身」を示唆する。
 植田さんは「実在や聖なるものは、不可視、不可測ではあるが、時々閃光のように自己を啓示し、その意思を語る」という。一方『唯信鈔文意』には「法性法身と申すは色もなし姿もましまさず、然れば心もおよばずことばもたえたり。この一如より姿をあらはして方便法身と申す」とある。もし対応づけるとすると

    実在や聖なるもの = 法性法身
    不可視、不可測 = 色もなし姿もましまさず、然れば心もおよばずことばもたえたり
    時々閃光のように自己を啓示し、その意思を語る=この一如より姿をあらはして方便法身と申す

となろう。「方便法身」とは「尽十方無碍光如来」「阿弥陀如来」のことである。
 そこで最初に引用したブーバーの
「言語はないけれども、言語を生み出す。われわれは〈なんじ〉を知覚しないけれど、呼びかけられるのを感じ、形づくり、思惟し、行為しながら、これに答える。すなわち、われわれの口をもってしては、〈なんじ〉ということはできなくとも、われわれの全存在をもって、根源語を語るのである。」
を次のように読み替えてみる。
「 法性法身は、言語はないけれども、言語を生み出す。われわれは 法性法身 を知覚しないけれど、呼びかけられるのを感じ、形づくり、思惟し、行為しながら、これに答える。すなわち、われわれの口をもってしては、法性法身ということはできなくとも、われわれの全存在をもって、根源語を語るのである。」
 何ら違和感なく受け取れる文章であることに驚きさえおぼえる。

 「われわれの全存在をもって、根源語を語るのである。」とあるが、ブーバーにおいては、その根源語は必ずしも明確ではないような気がして何か落ち着かない。その疑問に答えるかのごとく、ひきつづいてブーバーは自ら問いを出している。「しかしどのようにして言語をこえているものを根源語の世界の中に引き入れることがわれわれに許されるのであろうか。」と。

 しかしながら浄土真宗の教えを頂くわれわれにはそれは明確である。「われわれの全存在をもって語る根源語」とは「南無阿弥陀仏」である。そのことを踏まえて文章を対応づけると

 「法性法身は言語はないけれども、言語を生み出す。」・・・それが如来より賜る「南無阿弥陀仏」
 「法性法身を知覚しないけれど、呼びかけられるのを感じ」・・・如来の呼びかけ、それが「南無阿弥陀仏」
 「形づくり、思惟し、行為しながら、これに答える。」・・・「南無阿弥陀仏」は如来への応答
 「われわれの口をもってしては、法性法身ということはできなくとも、われわれの全存在をもって、根源語を語るのである。」・・・如来は如来の全てを「南無阿弥陀仏」とわれわれに届け、われわれは如来の全てを「南無阿弥陀仏」と受け取る。そしてわれわれの全存在をもって語る根源語、それがお念仏「南無阿弥陀仏」である。これを「念仏ひとつで事足りる」という。

 問題は、この想像を超えた不可思議の世界がいかにして娑婆で方向を見失って生きているわれわれに届けられるかであるが、浄土真宗においてそれは明確である。想像を超えた不可思議の世界をすでに歩む諸仏によって具体的にわれわれに届けられる。それが第十七願(「諸仏称名の願」)である。『大無量寿経』成就文に「聞其名号」とあるように、「諸仏の称える其の名号を聞く」ことによって西に向かって歩む人が誕生するのである。第十七願なくして第十八願は成就しない。

 ところで「閃光」ということばが気になるのでわたしの考えを述べておく。ブーバーは「閃光のごとく自己を啓示している」といい、植田さんは訳注で「時々閃光のように自己を啓示」と記している。閃光とは、『広辞苑』によると「瞬間的に発する光。きらめく光。」とある。いかにもキリスト教的な気がする。仏教から言えば、如来は「閃光」ではなく「不断光」である。ただ人間の方がそれに気づかずそれを無視して生きていて、時々気づくということであろう。
 
 先に啓示について述べたところで、訳者の植田さんの的確な表現を引用した。引用だけですましてしまうにはあまりにもすばらしい内容なので、もう一度確認しておこう。
 
 『〈われ〉と〈なんじ〉の間に生じるものが、真の存在であり、出合いとしての啓示の展開であると見る。この〈われ〉と〈なんじ〉の「間の領域」こそ、存在が存在となり、一切が成熟してゆく。』

 普通は、啓示とは神が超自然的存在や現象を介して宗教的真実や神秘を単独のわれに屯える事と考えられているが、ブーバーにおいてはそうでなく、われとなんじの「間の領域」においてこそ存在が存在となり、一切が成熟してゆき、われなんじの関係性こそが啓示の展開であるという。だからもはや啓示を遠い彼方のものとして思い浮かべるのでではなく、現実に生きる今ここにおいて、われとなんじの全人格的呼びかけや出合いの現存在の中に生起し、成熟するものなのである。

 浄土真宗をいただくわれわれにはよくうなずける内容である。われとなんじの関係こそが「南無阿弥陀仏」である。「南無阿弥陀仏」は現実に生きる今ここにおいて、われとなんじの全人格的呼びかけや出合いのなかに生起し、成熟するのであるとなる。
 天親菩薩は『浄土論』で「仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐる者なし」と述べているが、仏の本願力を観ずる、つまり南無阿弥陀仏に出遇うと、永遠の今ここを生きる人生が開かれる。「遇うて空しく過ぐる者なし」である。

(つづく)
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   冊子:『仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし』 は

マルティン・ブーバー の 衝 撃 の 語 録 『我と汝』を読む 

     の〈浄土・南無阿弥陀仏〉への展開です

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