浄土真宗

お 念 仏 の 開 く 世 界

お 念 仏 の 開 く 世 界  

                                 志慶眞文雄

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(1)沖縄から親鸞へ  

 本日(2010年5月29日)、埼玉と東京からなつかしい方々が沢山お見えになりました。よくお出で下さいました。有意義な沖縄の旅になるといいですね。

 ところで新聞をご覧になったと思いますが、政府が米軍の普天間飛行場の移設を、沖縄の辺野古に決定したと報じられています。とても残念で理不尽な決定です。しかし、沖縄の現状からして、辺野古へ基地の移設は無理でしょう。

 先の沖縄戦で、沢山の沖縄の人々が死に追いやられました。そして基地が縮小されて、本土並みになると夢を描いた祖国復帰でしたが、今なおそのままです。

 その基地は、ベトナム戦争、湾岸戦争やイラクの戦争と直結しています。これらの戦争で、沖縄にいた兵士が沢山死んでいきました。ベトナム戦争の頃、米兵が戦場に行く前に、もう二度と帰れないからとバーの壁に記念にと、手持ちの大量のドル紙幣を貼付けて行ったという話を聞きました。無念な思いで戦場に向かって行ったのでしょう。米兵と結婚し、子供をもうけている沖縄の女性も身近にいます。戦場に行く人達にも家族があり、苦しみや悲しみがあり、まして他国から攻められて命を奪われる人々の苦しみはいかばかりでしょう。今も沖縄は、戦場と隣り合わせの厳しい現実です。

 歴史的に見ても、世界中は人間のエゴ丸出しの争いの歴史です。一昨年ドイツに行ったのですが、ドイツでもカトリックとプロテスタントが、殺し合いをしていました。お互い攻め込んでは虐殺を繰り返していました。また、教会とか宮殿に行くと、柱や装飾品が戦利品であったりします。これはエジプトから、これギリシャからと誇らしそうに戦利品を使っていました。神の名を借りて侵略、略奪、殺し合いをしてきたのです。人間の愚かな歴史です。

 スペインも行きましたが、カトリック教徒とイスラム教徒の殺し合いの歴史がありました。どちらも神の名のもとに戦いをしました。ギター曲で有名なアルハンブラ宮殿もその争いの場でした。イスラム教の人達が山越えをするとき、カトリック教の兵士につかまると、逆さまにして落とされたという断崖絶壁は、足のすくむような場所でした。こういうのを見ると、人間に正義などないことがはっきりします。

 戦場と隣り合わせの沖縄で、仏教とどのように向き合うべきなのか。また、祖先崇拝が生活習慣になっている沖縄で、お念仏の教えをどのように受けとるべきなのか。この地は私にとって、親鸞の教えをいただく上での大事な場所です。

(2)釈尊の出家の意味するもの  

 私が仏教に関心を抱いたのは、釈尊の生涯に心ひかれたからでした。

 釈尊はシャカ族の王子として生まれたのですが、生老病死に苦悩されて、自分の地位、名誉、財産を捨てて出家しました。どんなに恵まれていても、生老病死の問題を抱えている釈尊にとって、城は生きていける場所、心が休まる場所ではなかったということです。ついに釈尊は二十九才のとき、家族を捨てて城を出て行かれました。そして三十五才で悟りを開き、八十才でお亡くなりになりました。

 二千五百年前のある日、釈尊は托鉢に出かけて行きました。日照り続きで、固い土を汗水垂らして耕している農民がいました。釈尊が来るのを見て、「俺たちはこんなに苦労して畑を耕しているのに、お前は何をしているのだ」と釈尊に文句を言うと、釈尊は静かにこたえました。「私は、あなた方の心を耕しています」と。心に残ることばです。

 釈尊は四十五年間、一か所に留まることなく、人々の岩盤のように固い心を耕して歩く旅をしました。釈尊が耕し、そしてまいた仏法の教えの種は芽を出し、花を咲かせ、実を結び、今に伝わり私たちの心を潤しています。

 私たちは日常、地位とか名誉とか健康を求めて、あくせく生活しています。もちろん地位とか名誉とか健康もないよりあったほうがいいでしょう。しかし、絶体絶命になった時、ないよりあったほうがいいという相対的なものでは、人間は救われないということを釈尊の出家は教えています。ぜひともなければならないもの、絶対的なものに遇わなければ、生老病死は超えられないということです。

 そのぜひともなければならないもの、絶対的なものとは何でしょうか。今日は、そのことをご一緒に考えたみたいと思います。

(3)ユングの指摘:「エゴとセルフ」  

 釈尊が課題にされた生老病死の問題は、もちろん私たちの課題でもあります。今日は、その生老病死を、少し視点をかえて考えてみます。

カール・グスタフ・ユング

 まずユングという人の話から始めます。この人はスイスの精神科医で、正式の名前はカール・グスタフ・ユングです。日本には京都大学の河合隼雄先生が紹介されました。

河合隼雄先生

河合先生が、ユング研究所に留学しているときに聞いたユングの逸話を『ユング心理学と仏教』という本に書いています。それによると、ユングは日頃から「私たちは自我だけでなく、自己を生きている」と言っていたとのことです。それを聞いたある人が、「あなたの言う、自己とは何ですか」と質問しました。するとユングは、「All of you」と答えたとのことです。「All of you」は、直訳すると「すべての皆さん」となります。

 さらにユングは、「自己は『中心』であると共に『全体』である」とも言っています。私は、この話に深く共感して思いを巡らしました。

 「私たちは自我だけでなく、自己を生きている」というときの、「自我」や「自己」の内容を確かめる為に、「自我」を「エゴ」、「自己」を「自己自身」という意味で「セルフ」と言い換えてみます。すると「セルフ」は「中心」であり、「全体」であるとなりますが、私はこの「中心」を本質的なものという意味で「根源」、「全体」を仏教的な「一如」「真如」のことだと理解しました。

 親鸞聖人の『唯信鈔文意』には、「『涅槃』をば、滅度という、無為という、安楽という、常楽という、実相という、法身という、法性という、真如という、一如という、仏性という。仏性すなわち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまえり。」(『聖典』 五五四頁)とありますが、これこそセルフの表現です。セルフは、「本来そのようにあるはたらき」という意味で、「自然法爾」とも表現できます。

 ユングが「All of you(すべての皆さん)」とこたえた「セルフ」は、「根源」であり「一如」であるということですから、それは「つながりあったひとつの大いなるいのち」、「無分別のいのち」、つまり「無量寿」ということでしょう。だから「私たちは自我だけでなく、自己を生きている」という、ユングのことばは、「私たちはエゴだけでなく、無量寿を生きている」と表現できます。

 「セルフ」の意味をとって、「本来そのようにあるはたらき」と表現しました。ですから、法の顕現である法蔵菩薩の本願は、「本来そのようにあるはたらきの根源的な願い」となります。この願いこそが、人をひるがえし新しい世界に誕生させます。

 しかし、私たちは、「本来そのようにあるはたらきの根源的な願い」を受けていながら、それに気づかずに生きています。まさしくその姿こそが「エゴ」の「エゴ」たるゆえんです。「エゴ」にとって関心があるのは、私だけです。正しい道理はどうでもいいのです。わが身かわいさのみで生きています。その存在の有り様を、親鸞聖人は、「悲しきかな」と言われました。

 私たちは髪の毛一本、自分でつくったものはありません。一〇〇%与えられて存在します。生まれることも、死ぬことも、息をすることも、心臓が動くことも、全部与えられて存在します。私たちはセルフ、つまり根源であり全体である一如、無量寿に支えられ生かされています。しかし、それに気づかないで勝手な妄念妄想を抱いて、本来性を見失って堅いエゴの殻を持って生きています。その自己中心で自ら迷っている有情に呼びかけ、本来のあるべき世界に呼び戻すはたらきが本願力です。他力です。

 本願力や他力の力を、視点を変えて考えてみます。力は必ず大きさと方向を持ちます。いわゆるベクトルです。ものに力がはたらくと動きます。力がはたらかなかったら、止まっているものは止まり続け、等速直線運動しているものは等速直線運動を続けます。ものが止まるのは摩擦があるからで、曲線を描くのは横から力がはたらくからです。

 この宇宙で止まっているものは何もありません。私たちの住んでいる地球も動いています。太陽も銀河系も動いています。全てのものは力を受けて動いています。釈尊の言われた「諸行無常」とは、一切のものが、つまり身も心も、命あるものもないものもすべてのものが、力を受けて変化し続けているということでしょう。生も死も、私の思いを超えた大いなるはたらきによります。

 私たちははたらきを受けて、願われて存在しています。あまりにも大きすぎて私たちにはそれが何か分かりません。しかしまぎれもなく、私が存在しているということ、生まれてきたということ、死ぬということは、この大いなる力のはたらきの中にあるということです。本来そのようにあるものの中にいながら、私たちの自己中心のエゴはそれに背を向けています。

(4)仏道は私(エゴ)を超える道  

 釈尊は四諦(苦諦・集諦・滅諦・道諦)という教を説きました。釈尊がさとりをひらいた後、初転法輪で話された内容だと言われています。苦諦とは、人生は苦であるという真理。集諦とは、苦の原因は人間の渇愛にあるという真理。滅諦とは、渇愛を滅せば涅槃に至るという真理。道諦とは、渇愛を滅ぼす道があるという真理です。

 苦諦の「苦」の本来の意味は、「思い通りにならない」ということです。自己中心で生きるエゴの身には、思い通りにならないことは、苦しみ以外のなにものでもありません。この苦の原因は煩悩・渇愛にあり、これらを滅した状態を涅槃といいます。苦を超えて涅槃に至る正しい道が仏教ですが、苦を超える道があるというのが悟りの内容であります。

 その苦の内容として、仏教は四苦八苦を説きます。四苦というのは、生苦・老苦・病苦・死苦で、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を加えて八苦といいます。愛別離苦は、愛する人と別れなければならない苦しみ。怨憎会苦は、恨み辛みに思う人と一緒に生活しなければならない苦しみ。求不得苦は、求めても得られない苦しみ。五蘊盛苦は、私たちを形作っている五蘊(色・受・想・行・識)は全て苦しみのもとという意味です。

 つまり仏教は、この四苦八苦を超えていく教えですが、先のユングの話にもどすと、仏教というのは、「エゴ」を超えて「セルフ」に目を見開く道です。

 大事なことは、四苦八苦を超えるとはどういうことかをちゃんと理解することです。先に生苦・老苦・病苦・死苦をあげました。生苦は生まれる苦しみです。私たちは、老いるのを防ぎ、病気にならないように健康に気をつけ、出来るだけ死なないように、老病死を何とか避けたいと思って生きています。もちろんそれも充分意味はあるのですが、生老病死は道理ですから、最終的にはどの人も受け入れる以外にありません。最後は皆一〇〇%死にます。

 仏道とは、生死を超える道ですと言うと、生老病死が問題だと勘違いしてしまいますが、生苦・老苦・病苦・死苦は、正確に言えば私の生苦・私の老苦・私の病苦・私の死苦で、その「私」が問題なのです。その「私」を問題にするのが仏道です。「生老病死」は道理というか、事実そのものです。思いどおりにならないと誰が苦悩しているかというと、この「私」がです。この私(エゴ)を超える道が仏道です。

 龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』には、「『世間道』をすなわちこれ『凡夫所行の道』と名づく。転じて『休息』と名づく。凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたわず、常に生死に往来す。これを『凡夫道』と名づく。」(『聖典』一六二頁)とあります。生老病死だけを問題にし、これを何とかしようとするのは、世間道、凡夫道で、絶対に涅槃の世界、セルフの世界に至ることはないと明確に述べています。生死には迷いという意味がありますから「私(エゴ)」を問題にし「私(エゴ)」を超えることのない世間道・凡夫道はいつまでも迷いの世界を行ったり来たりし、結局は老病死を前に残念無念で終る道です。

 さらに「『出世間』は、この道に因って三界を出ずることを得るがゆえに『出世間道』と名づく。」(聖典一六二頁)とあります。いわゆる出世間道とは、この生老病死に迷っている「私(エゴ)」を明らかにし、「私(エゴ)」を超えてゆく道であります。

(5)「生苦」はエゴとして生まれる苦しみ  

 生苦とは、生きる苦しみではなく生まれる苦しみですが、なぜ生まれることは苦しみなのでしょうか。私は、この生苦がなかなか納得できなくて、長いこと、ああでもないこうでもないと考えてきました。

 ある人は、お母さんの狭い産道を通って生まれてくるから苦しい、だから生苦なのだと。ある人は、子宮の中が一番気持ちいいのに、冷たい娑婆に無理に押し出される、だから生苦なのだと。またある人は、私たちは生まれる時に、自分がいつの時代に生まれるか、どこに生まれるか、例えばアメリカに生まれるか、沖縄に生まれるか、また女に生まれるか、男に生まれるか、金持ちに生まれるか、貧乏に生まれるか、体が健康に生まれるか、障害を持って生まれるか、それらを選べない、そういう業を背負って生まれてくる、これが生苦なのだと。うなずける所もあるのですが、ではいい環境・条件の中に生まれてきた人には生苦はないことになります。生苦は、釈尊が悟りで見出した法・真理です。どの人にも当てはまるのが法・真理ですから、おのおのが自らの業を背負って生まれるということだけでは、ある人には生苦があるが、ある人には生苦がないということになります。それだけでは納得できません。

 長年考えた末、現在、私は、「どの人もエゴとして生まれる」ということが、苦だと理解しています。「どの人もエゴとして生まれる」とは、どの人もわが身が一番かわいく、わが身に執着して生きて行かざるをえない身として誕生するということです。エゴは自分中心の立場で、自分の都合のいいように分別するのがはたらきです。その分別心で自分が好き勝手につくった世界を「世間」「娑婆」と言いますが、思い通りにならないから「堪忍土」、私のエゴで汚された世界だから「穢土」とも言います。

 セルフは一如の世界です。一如の世界は分別出来ない世界、無分別の世界です。私たちがこの世にエゴとして誕生するということは、本来、無分別な世界を、自分の好きなように分別して、セルフ(一如の世界、涅槃の世界、浄土の世界)を見失ってしまうということです。それが迷いの有情の宿業、生苦の意味でしょう。

 セルフは私たちの親です。しかし私たちは、この世に誕生するとき、親を見失い孤児になってしまいます。孤児になるだけでなく、自らが分別した世界(世間)こそが正しいと、親に背を向けて生きる反逆児となります。このことを仏教は、誹謗正法と表現しています。

 もし仏法に出遇わなければ、この一如の世界、セルフの世界に目覚めることは有りえません。エゴだけのむなしい人生で終ってしまいます。

 この事を三帰依文は、「人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、いますでに聞く。この身今生において度せずんば、さらにいずれの生においてかこの身を度せん」、「無上甚深微妙の法は、百千万劫にも遭遇うこと難し。我いま見聞し受持することを得たり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。」と、仏法に出遇うことの重大さを指摘しています。まさにその通りです。

(6)「エゴとセルフ」の関係  

 エゴは分別、つまり自分中心に切り刻んでものを見ることを特性とします。そして好き勝手に切って見た世界を、私たちは現実・世間と言い張ります。しかし、仏法からすれば、それは私の妄念妄想、顛倒妄想の世界でしかありません。

 分別してしかものを見れない私たちに、無分別の世界・一如の世界(セルフ)は見えません。では見えない無分別の世界・一如の世界(セルフ)が、エゴの身にどのようにして明らかになるのでしようか。それは、自己中心の思いで、好き勝手に分別して生きていることが徹底して明確にわかるということによって初めて、私を支えている無分別の一如の世界が感得されるのです。ですから、エゴの自分のありようが、はっきりとわかるということを抜きにして、一如の世界はうなずけません。そこに、自分のエゴの正体をはっきりと知ることの大切さ、重大さがあります。

 住岡夜晃先生は『讃嘆の詩』で、そのことを明らかにしています。「如来がわかれば自己がわかる。自己がわかれば如来がわかる。わからぬものは自己である。鏡を凝視せよ、自己が見える。如来を信ぜよ、大円鏡智にうつる自己が見える。自分のわからぬものに、自分の道があろうはずがない。道がわからぬものには、力と悦びとおちつきのあるはずがない。如来の本願は一切衆生の道である。本願の大道に立ったものだけに、真実の御国への歩みがある。」深いことばです。

 ここでの「自己」は「自我(エゴ)」、「如来」は「自己(セルフ)」の意味ですから、エゴとセルフに置き換えると、「セルフがわかればエゴがわかる。エゴがわかればセルフがわかる。わからぬものはエゴである。鏡を凝視せよ、エゴが見える。セルフを信ぜよ、大円鏡智にうつるエゴが見える。自分のわからぬものに、自分の道があろうはずがない。道がわからぬものには、力と悦びとおちつきのあるはずがない。如来の本願は一切衆生の道である。本願の大道に立ったものだけに、真実の御国への歩みがある。」となります。

 「セルフがわかればエゴがわかる。わからぬものはエゴである」となりますが、そのエゴはどのように明らかになるというのでしょうか。

 夜晃先生は、「鏡を凝視せよ、エゴが見える。セルフを信ぜよ、大円鏡智にうつるエゴが見える。」と言われていますが、鏡とはすべての像をそのまんま映し出す大円鏡のことで、大円鏡智とはすべてのものをありのままに照らし出す仏智です。仏智とは仏の智慧で、その仏智が私たちのエゴを照らし出すのです。法は仏智として届きます。「わからぬものはエゴである」といいますが、そのわからないエゴの正体を仏智があきらかにします。仏智は仏法を聞くこと、いわゆる聞法、聴聞を通して働き、私のエゴの正体をあきらかにします。

(7)絶対的善悪と相対的善悪  

 エゴの正体とは何でしょうか。

 仏教のある経典の中に、善と悪を説いた経典があり、「第一義諦に順ずるを善といい、第一義諦に背くを悪という」とあります。ここでの第一義諦というのは、「すべてのものが本來的に平等である」ということです。人間も犬も猫も植物も一切のものは本來的に全部平等です。人間だけが尊いということは有りません。恐竜は獰猛だったと言われていますが、人間より獰猛な動物がかつてこの世に存在したでしょうか。自然界の動植物を絶滅の危機に追いやり、挙句は自分たちが生きていこうとすることすら困難な状況にしています。人間のどこが万物の霊長なのでしょうか。人間は、煩悩ゆえに複雑な存在、始末がつかない存在というだけです。
  
 「すべてのものが本來的に平等である」ということに、背を向けて生きているのが私たちです。自分の命を長らえるために他の命を奪います。宮崎県では口蹄疫が問題となりました。殺処分といって、何十万頭と殺します。人間に口蹄疫のような病気がおこっても、殺処分と同じような扱いを人間にはしないでしょう。つまり殺処分は、動物の命を守るためではなく、人間の生活を守るためです。しかし人間も、状況が変われば戦争などで人間の大量殺戮を実行します。正義の名の下に、平和の名の下に、神の栄光の名の下に。殺処分ということばを聞くと、おぞましいホロコースト、ナチスによるユダヤ人大虐殺を思い出してしまいます。

 私たちはこのような存在です。しかしそれを悪とも自覚せず、善人面をして生きています。平和運動や自然環境を守る運動も大切ですが、他の命あるものを食べてしか生きられないという自分の悪を自覚する所から始めなければ、私の善と相手の悪の戦いになってしまいます。

 皇居のお堀の鴨を弓矢で射抜いた痛々しい映像がニュースになりました。何とひどいことをする奴だ、「許せん」と怒っていた人が、ニュースを見ながらおいしいおいしいと食べていたのは鴨鍋でした。私たちの善悪とは、得てしてこんなもんではないでしょうか。

 「すべてのものが本來的に平等である」ことに背いているのは誰でしょうか。いや、こう問うべきです。「すべてのものが本來的に平等である」ことに背いていない人が一人でもいるでしょうか。親鸞聖人は『正信念仏偈』で、人間を「一生造悪」といっています。生きているということは罪を造り続けるということです。長生きするということは、生き物をたくさん殺して食べるということです。「極重悪人」、「邪見驕慢悪衆生」、「罪悪深重、煩悩熾盛」、「煩悩具足」、「煩悩成就」とあります。これは私たちが、悪の存在、絶対悪の存在、一生造悪の存在だということです。極悪人だということです。

 私たちは絶対悪の存在です。その中でやっている私の善悪は相対的善悪です。私たちのやる善は、絶対悪の中の相対善です。つまり「雑毒・雑修の善」です。『正像末和讃』には「修善も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞなづけたる」とあります。相対的な善悪のところで物事を判断しているに過ぎないのに、絶対悪である身を忘れて、自分は善人であるかのように生きている。これが悲しい私たちのエゴの姿です。

 浄土真宗の信心は、私が絶対悪の存在であると目が覚めるかどうかにかかっています。私は善で、その中の一部分に「悪いところ」「煩悩」があると思っている間は、信心にはほど遠い。私たちは一〇〇%煩悩です。煩悩に名前をつけて「私」と称しているのです。金太郎飴みたいにどこを切っても金太郎が出てきます。私たちは一日中、煩悩に餌をあげて生きている存在です。

(8)聖徳太子の十七条憲法の第十条  

 私たちは絶対悪の身ということからいえば、「私は正しいがあなたは悪い」でなく、「あなたも悪いが私も悪い」という懺悔が根底に据えられることが大切でしょう。そのことを明快に述べてあるのが、親鸞聖人が和国の救主として尊敬された、聖徳太子の十七条憲法の十条です。

 「心の中の怒りを絶ち、表情に出る怒りを捨て、人が逆らっても激怒してはならない。人にはみなそれぞれの心がある。その心にはおのおのこだわるところがある。彼が正しいと考えることを、私はまちがっていると考え、私が正しいと考えることを、彼はまちがっていると考える。私がかならずしも聖者であるわけではなく、彼が愚者であるわけではない。どちらも共に凡夫にすぎないのである。正しいかまちがっているかの道理を、誰が判定できるだろうか。お互いに賢者であり愚者であるのは、金の輪にどこという端がないようなものである。このゆえに、他人が怒っても、むしろ自分のほうに過失がないか反省せよ。自分一人が真理をつかんでいても、多くの人に従って同じように行動せよ。」(意訳/『聖徳太子』 岡野守也著 大法輪閣発行)」

 人間のエゴを言い当てたすごいことばです。このように深く仏教の教えを受け取っていた聖徳太子を、親鸞聖人が尊敬されたのもうなずけます。

 しかし、今の現実の世界は、聖徳太子の教えとは全く逆です。自分に絶対善・正義を立てて、相手を絶対悪・不正義として容赦ない殺戮・虐殺を行ないます。

(9)罪福心とは相対的善悪のこと  

 絶対的善悪や相対的善悪は、罪福心や本願念仏と関わる大事な視点です。親鸞聖人は『教行信証』や『和讃』で、罪福心のままでは本願念仏に遇えないと繰り返し述べています。

 親鸞聖人は『教行信証』の化身土巻で、「罪福を信ずる心をもって本願力を願求す、これを『自力の専心』と名づくるなり」(『聖典』三四六頁)と述べています。罪福を信ずる心というのは、功利的・物質的信仰につながる自力の信仰心です。私は自分で善いことと悪いことの判断ができ、しかも私は善いことを実行でき悪いことはやめられますというエゴを根拠にする姿です。罪福心とは相対的善悪のことで、その相対的善悪の立場で本願力、如来のはたらきを求めるということを『自力の専心』と表現しています。

 エゴの心でもってセルフを求めようとしても、セルフに遇うことは不可能なことです。絶対悪の中の相対的善悪でしかないのに、その自分の正体に気づくことがありません。これが無明でしょう。

 罪福心、いわゆる相対的善悪のままで止まったら、本願念仏にとっては致命傷です。そのことを聖人は『正像末和讃・疑惑和讃』(『聖典』五〇五〜五〇七頁)で繰り返し述べています。

 「不了仏智のしるしには/ 如来の諸智を疑惑して/ 罪福信じ善本を/ たのめば辺地にとまるなり」

 「罪福信ずる行者は/ 仏智の不思議をうたがいて/ 疑城胎宮にとどまれば/ 三宝にはなれたてまつる」

 「罪福ふかく信じつつ/ 善本修習するひとは/ 疑心の善人なるゆえに/ 方便化土にとまるなり」

 「仏智不思議をうたがいて/ 罪福信ずる有情は/ 宮殿にかならずうまるれば/ 胎生のものとときたまう」

 「仏智の不思議を疑惑して/ 罪福信じ善本を/ 修して浄土をねがうをば/ 胎生というとときたまう」

 『教行信証』の「化身土巻」は罪福心、つまり相対的善悪を問題にしています。罪福心を超えることができなければ、私たちは本願念仏に遇えません。仏道が成就しないということですから、親鸞聖人は、「化身土巻」を書かざるを得なかったと言えます。

 罪福心を超えるには、私はエゴという絶対悪の存在として生きていることに目が覚めないといけません。自分が絶対悪であると目が覚めたものは、絶対善、つまり本願念仏に触れることができます。絶対悪であるエゴの正体に目が覚めた時、初めて私たちは夜晃先生が言われた、「エゴがわかればセルフがわかる。セルフがわかればエゴがわかる。」がうなずけます。

 法(ダルマ)が私の無明を破ります。法によって、エゴではたすからない現実に目が覚まさせられます。私たちは自分の相対的な善悪の一線を超えないといけません。善のひとかけらもない、真実のひとかけらもない自分に目が覚めないといけません。「すべてのものは本来的に平等である」ことに背いてしか生きていない、一〇〇%煩悩の思い、煩悩の身です。私の絶対悪に目が覚めた時、エゴを超えて私をささえている世界、絶対善に出遇います。これが他力の世界への目覚めです。

 仏教では、私を「機」と表現しますが、その私(エゴ)の正体が絶対悪として信知されることが「機の深信」、そしてエゴを超えた真実の働きが信知されることを「法の深信」と言います。「法」によって「機」はあきらかになり、「機」によって「法」が感得されます。「機」と「法」は切っても切れない関係にあります。これを「機法一体」と称しています。

 罪福心で終われば、それは本願念仏に取って致命傷ですが、私たちは、本願によって罪福心を超えることが願われている存在です。本願の第二十願は、相対的な善悪で生きている私を、必ず大きい世界に届けるとの誓いで「果遂の誓い」と言われています。

 仏教は、複雑極まりない堅い殻の人間に、目覚めをもたらすために、非常に細かい手立てをしています。第十九願は、弘願に入る肝要の法門ということで要門といいます。第二十願は、自力念仏往生の法門という事ことで真門といいます。相対的な善悪、自分の都合で称える念仏ですが、念仏に出遇えたことは大切なことですから真門と言います。そしてついに、仏さんの大きな願いの中にいる事が頷けて本願念仏に遇う。それを弘願門といいます。

(10)絶対善とは如来である  

 絶対善とは、この世に一切のものを生み出した一如です。私たちは一如から来て、一如に帰ります。表現として「来て、帰る」といいますが、本来はいつの時も一如の中のできごとです。「不来不帰(不生不滅)」です。ただ、エゴを持って生まれるために、一如の世界を見失ってしまいます。これが、誕生するときに私たちが背負う業、つまり「生苦」だと言いました。

 私たちのエゴは、超強力自我発動装置です。誕生するということは、すべての有情が超強力な自我を発動して生きていかなければならないということです。本来つながっているものを、自分勝手に切って、負けてなるものかと超強力な自我を発動して世間を生きていかざるを得ない。しかし思いどおりにならないから苦しい。これが人間の一生涯です。だから、亡くなるどの人にも、「ご苦労さまでした」がふさわしいことばのような気がします。

 このエゴは、一如の世界に絶対悪の巣をつくって存在しています。「存在する」と言っても、このエゴは実体としてあるわけではなく、私の妄念妄想として在るわけです。ですから、本来の一如の世界を私の妄念妄想で切って見ているのだという目覚めが成立したら、実はエゴは、本来はセルフであることがうなずけます。仏さんのいのち・セルフを、俺の命として妄念妄想しているだけです。私たちは死ぬまでこのエゴの身を生きるわけですが、実はセルフのいのちを生かされているということに目覚めたとき、生きている世界が一変します。

 本来の一如の世界、絶対善の世界は私たちに常にはたらいています。南無阿弥陀仏とは大いなるものに帰れという呼びかけです。これを本願といいます。この本来の願いは私たちに常にはたらいています。私をこの世に誕生せしめた大いなるはたらきが、常に私に呼びかけています。「エゴでは辛いだろう、悲しいだろう、生死は超えられないだろう」と呼びかけています。

 この私のエゴの正体がうなずけたら、分別しない一如の世界が同時にあきらかになります。私たちは死ぬまでエゴの身を生きる以外ないのですが、だからこそエゴを根拠にしないで、絶対善の世界に南無して生きる人生が得られます。南無阿弥陀仏を根拠にする人生が開かれます。これが仏さんのはたらきを被って生きる人生です。

(11)廻向と廻心  

 浄土真宗で一番大切なことは、「廻向」と「廻心」です。如来の廻向が、私に届いて廻心として花開き新しい世界を展開します。

 私たちはこの世に誕生する時に他力という絶対のいのちを見失って、俺が俺がと言って生きています。どの人も孤児で反逆児として誕生します。
 そして法の教えを聞くことによって、見失っていた他力をもう一回発見します。それが廻心です。廻心というのは、見失っていた仏さんのはたらき、願いに気づくこと、生かされているいのちに目覚めることです。気づかなければ一生気づかないままで終ります。

 かつて石川県では、「もう夜が明けましたかね」というのが挨拶であったと聞きました。「夜が明ける」とは、廻心のことです。これが浄土真宗です。廻心を信心といいます。

 如来の廻向が届いて、私たちの上に廻心が生まれます。それは、今まで自力で生きていたものが仏さんに南無して生きていく人生に転換することです。私たちは生まれる前も今も死んでからもいつも他力の中、いつも仏さんの掌の中です。ただ、生まれながらにそれをエゴは見失っていたのです。

 親鸞聖人は、相対的善悪のままで留まっていたら本願念仏に遇えないと言っています。私の中に善いところがあると思っている間は、自分の善悪で決着をつける世界を生きていかざるを得ません。そこに本願念仏は成立しないのは明白です。

 浄土真宗の話を聞き始めた頃、住岡夜晃先生の「今日も悪く、昨日も悪く、また明日もまた悪い」ということばは全く理解できませんでした。昨日も悪かった、今日も確かに悪いのはわかる。しかし明日もまた悪いと言われたら、もう生きていけないじゃないか、いったいどのようにして生きて行けというのか。何とひどい教えだろうと思いました。

 自分の正体は絶対悪の存在でしかないのに、自分の正体がわからず、相対的善悪で価値判断をして、明日はよくなれると思っていました。「明日もまた悪いと言われたら、もう生きていけないじゃないか」というのは単なる観念です。既にして「生かされて、生きてきた」のです。

 絶対悪の存在である私たちは、「今日も悪く、昨日も悪く、また明日も悪い」存在でしかないからこそエゴを根拠にせず、セルフに、如来に南無して生きていく人生がひらかれるのです。今日は悪かったけれど、明日はよくなれるなら仏さんはいりません。私が正義で、真実だと妄想していたら、本願念仏には出遇えません。

 「すべてのものが本來的に平等である」という真理に反して、全部自分中心に生きていることに目が覚めたとき、私たちを生かしめている、この一如なる大いなるものに向かって「南無阿弥陀仏」という世界が開かれます。私たちは死ぬまでエゴの身を生きる以外にありません。お念仏とその教えこそが、私を大いなる世界に連れ戻してくれます。

 安田理深先生のことばに、「信仰の問題は、個人(A)という立場を超えるのが、その根本的意義である。個人(A)を破って根源(B)に触れる、根源(B)に触れて個人(A)を破るとともに個人(A)が基礎付けられる。そういうところに他力とか利他とか廻向とかの意義がある。根源的無我(B)をあきらかにするのが大乗仏教である。」とあります。

 今まで述べた、エゴとセルフの観点から考えてみます。(A)を(エゴ)に、(B)を(セルフ)に置き換えると、エゴとセルフの関係が明確になります。つまり「信仰の問題は、個人(エゴ)という立場を超えるのが、その根本的意義である。個人(エゴ)を破って根源(セルフ)に触れる、根源(セルフ)に触れて個人(エゴ)を破るとともに個人(エゴ)が基礎付けられる。そういうところに他力とか利他とか廻向とかの意義がある。根源的無我(セルフ)をあきらかにするのが大乗仏教である。」となります。

 つまり、セルフに遇うということは、お念仏をいただくということです。それは、如来に遇うこと、涅槃に遇うこと、浄土をいただくことにほかなりません。

 経典を読むと善とか悪とかがいっぱい出てきます。絶対善と絶対悪、相対善と相対悪、エゴとセルフの関係がうなずけると経典が身近になります。

(12)「悲しきかな、誠なるかな、慶ばしきかな」  

 私たちは願われている存在です。仏法に遇わなければ、世間の中で老病死を対象化して、それらを何とかしようとして苦悩します。しかし、仏教はエゴの私を問題にします。このエゴをどう解決するかが仏教の課題です。

 釈尊は生死を超える教えを説かれました。二十九歳で出家して、三十五歳で悟りをひらかれ、そのとき「ダルマが至り届いた、不死が得られた。」と言われました。ダルマとは法ですが、エゴを超えたセルフのはたらき、一如のはたらきを法・ダルマといいます。法・ダルマが至り届いたとは、法・ダルマが私にあきらかになったと言うことです。ですから仏教は釈尊が発明したのではありません。釈尊が発見したのです。釈尊が真理に出遇った、つまりダルマを発見したのです。あるいはダルマが釈尊を照らした、ダルマが釈尊を発見したのです。

 では、不死が得られたとは何でしょうか。釈尊を生かしめている大いなるはたらきに出遇ったということです。ダルマ、セルフのはたらきが至り届くということは、無量寿に遇うということだったのです。

 悟りをひらかれた釈尊は、「私はこの六道輪廻の世界に二度と戻ってくることはありません」と度々言われました。六道輪廻の世界というのは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天ですが、これはエゴが輪廻する状態です。そのエゴの輪廻の世界を私は超えましたと言われたわけです。釈尊は七歩あるいて「天上天下唯我独尊」と言われたとあります。七歩というのは六歩プラス一歩で、六道を超えたということです。エゴを根拠に生きる六道の人生はもう終わり、セルフに根拠をおいて生きる人生が私の上に成立しました。もう二度とエゴを根拠にして振り回される人生には戻って来ませんと宣言されたのです。だから、「天上天下唯我独尊」という言葉は、釈尊の歓喜の言葉、セルフ(無量寿)に遇えた感動の言葉です。

 親鸞聖人も、死ぬまで超えられないエゴのわが身を悲しまれました。『教行信証』には「悲しきかな、愚禿鸞」(『聖典』二五一頁)とあります。対象化して何かが悲しいのではありません。私の身の在りようそのものが悲しいのです。エゴを生きるこの身は悲しいけれども、この私を救い取る本願の世界、無量寿の世界があります。そのことを聖人は「誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ」(『聖典』一五〇頁)と言われています。そしてこの法に出遇えたことを「愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」(『聖典』一五〇頁)と讃嘆されています。

 親鸞聖人の「悲しきかな。誠なるかな。慶ばしきかな」は、エゴの身が、誠なる無量寿の世界に出遇い、慶ばれた姿です。私たちもまた釈尊や聖人と同じように、エゴのわが身の正体に目が覚めて、そのエゴを超えた無量寿の世界に出遇い、一人一人が「天上天下唯我独尊」と感動と感謝のいえる世界に出ることを願われています。

 私たちは、念仏の世界に出遇い、他力に目が覚めることを願われています。「生まれながらに見失っていた他力、いわゆるセルフを回復することが廻心です。それは聞法において、法の自ずからなるはたらき、如来の廻向によって引き起こされます。セルフ、他力が回復したとき、私たちを生かしめている根源的ないのちの呼びかけに呼応して生きる人生が一人一人に開かれます。正定聚不退に住し滅度に至る人生、これが浄土真宗、浄土の真実の教えです。


 今日はどうもありがとうございました。座談会の希望がありましたので、約三十分間、座談の時間にします。

〔座談会〕  

(司会)それではよろしいでしょうか。司会をさせていただきます。まず、先生にお訊ねしたいことがあります。
 先生の歩みを本などで拝見しました。電気工学から物理学、医学を学ばれて、そして聞法道場を開かれたご苦労、これまで仏教の話を聞いてこられた歩みの中で出遇った言葉、真宗に出遇った確かな感触というか、そういうものをお聞きしたいと思います。

(先生)沖縄で生まれました。まったく浄土真宗とは縁のない環境でした。どういうわけか私は十歳の時に突然、いつか自分がこの地上から消えてしまうという恐怖に襲われました。その日を境に生きていくのが辛くなって、ずっとその生死の問題に揺さぶられて悩んできました。
 中学、高校時代は、哲学の本などもいろいろ読んだのですが、たすけにはなりませんでした。あの頃はちょうど電気工学がブームで、将来の仕事のことを考えると工学部がいいと勧められて、内地留学という制度で沖縄から愛媛大学工学部に進学しました。しかし、大学に入学してから、どうせ死ぬ人生なら、もともと興味があった天文学とか素粒子物理学など、自分を超えた客観的・普遍的なものの研究をしたいとの思いがつのり、理学部物理学科への転学部試験を大学と交渉しました。しかし、内地留学制度という別枠で入学したから転学部は認められないと断られました。大学を辞めて沖縄に帰ってやり直そうかとも思ったのですが、田舎であんなにお祝いして送り出したのにすぐに帰ってもらったら困ると親から言われ、大学を卒業したら好きな所に進んでいいと諭されました。
 進路の問題、生死の問題に加えて、沖縄の復帰運動の問題、大学紛争など、心の休まることのない辛い時代でした。
 不眠症に苦しみ、自暴自棄な生活で、卒業前に栄養失調と肺炎で入院しました。熱がさがらず激しく咳き込んでいるとき、ふと祖母のことが思い出されました。私には小さい時から可愛がってくれた祖母がいました。俺が今亡くなったら祖母がどんなに苦しむだろう、悲しむだろうかと思ったとき、初めて熱い涙がこぼれました。
 自分にかけられている温かいまなざしが、私にもう一回立ち上がる勇気を与えました。それで大学を卒業してから一年間、物理を勉強し、そして翌年、幸運にも広島大学大学院の素粒子実験研究室に合格しました。
 素粒子研究は、大学と自宅だけを往復する夢のような研究生活でした。修士論文を仕上げて、博士課程に進学しました。それから数年して、教授に、ある国立大学への就職を勧められました。本来は、飛び上がって喜ぶべきことですが、しかし、いくら素粒子の研究をしても、抱えている生死の問題は超えられませんでした。このまま研究者になることに戸惑いと不安を感じ、就職を断り、大学院を退学しました。憧れた素粒子研究でも生死の問題は超えられなかったとの挫折感で、もう道は絶えたとの思いでした。
 博士課程に進学するときに結婚しました。妻は熊本で小さい時から浄土真宗に触れる機縁があって、広島大学会館で細川先生が「歎異抄の会」をされているから一緒に行こうと誘ってくれました。しかし私の生死の問題が、今の日本の葬式仏教で解決するとは思えないからと断りました。
 退学して生活は一変しました。人生はむなしいものと思っていましたが、ただひとつ胸を熱くするものがありました。それが祖母の存在でした。私の帰りを心待ちにしている祖母のことを思うと、なつかしさと申し訳なさがよぎりました。むなしさを越えるのは人と人の触れ合いではないかと思っているとき、私のことを心配した友人、知人が医学部進学を勧めてくれました。
 大学院時代から、生活のために予備校で非常勤講師をしていましたので、医学部受験が、いかに大変かよく知っていました。そのうえもう二十八歳でした。祖母のもとに帰りたいと思いましたが、手に職をつけないと帰れません。迷った末、医学部受験を決断し、合格までに五年間かかりました。予備校の教え子と一緒に共通一次試験を受けるのは、非常に辛いことでした。出口の見えない五年間でしたが、振り返れば原始仏典や龍樹などの書物が読めた貴重な年月でした。
 合格発表の日に細川先生の「歎異抄の会」に行きました。妻に誘われてから7年の歳月が経過していました。
 その『歎異抄』が、私の生きていく方向を変えました。「あなた自身が問題じゃないのですか」と、私は問いを突きつけられました。それまでは、うまく行かないのは、あれが悪いこれが悪い、あれを変えこれを変えたりして解決しようとしていました。「対象が問題ではなく、あなた自身が問題ではないのか?」との問いが、初めて胸に深く突き刺さりました。それがきっかけで浄土真宗の聞法を始めました。
 「歎異抄の会」などで細川先生の話を聞きました。六年間聞いて、よし沖縄で何とかするぞと思って帰ってきたわけです。しかし、浄土真宗を聞く人もなく、場所もなく、世間のしきたりが先祖崇拝になっている沖縄で、どう生きて行ったらいいのかよくわからなくなりました。すぐメッキが剥がれ落ちてしまいました。
 三十八歳で研修医になり、遅いスタートなので救急医療や麻酔医療など少しハードな研修を受けました。妻は、あまりの忙しさに仏教のことを私が忘れてしまったと思ったようですが、仏教のことが口にできないくらい悶々としていました。
 行き詰まったとき繰り返し聞こえたのが、私が広島から沖縄に帰る時に先輩がかけたひとつのことば、「志慶眞くん、沖縄の厳しいなかで、わかるまで聞いてくれ」でした。浄土真宗がうなずけたつもりで沖縄に帰ってきましたので、最初は気にもならないことばでしたが、次第に重いことばになってきました。
 このままでは道は開けないと思って、医者になって五年目に開業するとき、二階に聞法道場をつくる計画を立てました。厳しい小児科医院の経営の中で、聞法道場をつくるのはリスクが大きすぎるからやめた方がいいと忠告されましたが、思い切って聞法道場をつくりました。これから後十年聞法してうなずけなければ、浄土真宗は私とは縁のない教えだからやめるつもりでした。
 しかし、開業翌年、平成五年、思いもよらないことがありました。細川巌先生と関真和先生の往復書簡を目にしました。それは衝撃でした。
 仕事を終って、封を切ってそれを読んだ時、涙が出て止まりませんでした。ふと浮かんだ言葉が「冷酷無比」でした。それが自分の正体でした。冷たい心で仏法を疑い、周囲を疑い、ああでもないこうでもないといって念仏をひきずりまわしている、エゴのわが身の正体を見ました。私の何が問題であったのかがはっきりしました。十歳から生ききれない死にきれないともがいたのは、この「冷酷無比」なエゴでした。今日の話で言えば、わが身は絶対悪だという目覚めでした。溢れる涙は、冷たい心に降り注ぐ仏さんの慈雨のようで、「あー、そういうことだったのか」と、温かい感動に包まれました。
 思えば、この浄土真宗の教えは、決して今の時代だから難しいということはない、いつの時代でもどの人にでもだれにでも伝わる、普遍的で根源的な教えだと思います。
 私は十歳から、生死の問題で誰かたすけてくれと悲鳴を上げて生きてきました。この教えに出遇えた感動を、身近にいる人たち、沖縄の人たちと共有して歩むことができたらと思って仏教講演会や読書会を開催しています。

(司会)どうもありがとうございました。もっと先生にお訊ねいただきたいことがございましたらお願いします。

(川澄)今バスでここへ来る間、バスガイドさんがちらっと言っていたのが気になっているのですけれど、騒音ですよね。子供さんたちがショックを受けていろいろな苦労をしてらっしゃるということを。そういうことをちっとも東京、中央の方には伝わっていません。先生は小児科をやってらっしゃるので、そのへんの様子というのもお聞きできると思い、ご質問させていただきました。

(先生)ここはジェット機の通るところから少しはずれているのでうるさくないのです。でも、嘉手納とか普天間とかはジェット機などが飛んだら、会話を中断しないといけないくらいすさまじい轟音で、窓が震え、鶏は卵を産まなくなっています。嘉手納あたりは若い人たちが、ここには住めないといって違うところへ引っ越しています。話を中断したり、テレビがブレたり、そういうことがあります。結構ストレスがたまってきます。ジェット機の通るところの下はすさまじい音がします。

(淡海)先生がNHKでお話をなさった講演録を、光照寺の聞法会の時にいただいて読ませていただきました。その中にブーバーのお話が出ていて、今回ここへ来るに当りましてもう一度その講演録を読ませていただきました。とても難しい本でよくわからなかったのですけれども、そこで先生が、汝という言葉を如来として受け取っているのかなと思いまして、それに気がつかせていただきまして、私と如来という関係ですね、そこをやはりすごく大事にいただいていかないといけないと思います。
 今日すごくうれしかったのは、先生のことも含めてお話いただけたことと、一如にエゴの私が支えられているという時に、私もいつも思っていたのですけれども、ポテンシャルエナジーみたいなものが私たちの中にあるので、そういう意味でここにいるということの存在がその大きなものに支えられているというような感覚をつくりたいなといつも思っているのですね。先生の方で今日お話をいただいたのですけれど、如来と我という関係、そのへんについてもう少し何かお話がありましたならば、一言でもいただければうれしいと思います。よろしくお願い致します。

(先生)今日はブーバーの話はしなかったのですけれど、わたしがこの浄土真宗に遇うのに、非常に目が覚まされたものが三つほどあります。
 一つはマルティン・ブーバーです。ホームページに「マルティン・ブーバーの衝撃の語録『我と汝』を読む」として載せてあります。まだ未完成で、いつか書き足そうかと思っていますが、よかったらそれを読んでみて下さい。ブーバーの話をするときりがないのですが。
 それともうひとつは、今日お話ししましたユングです。もうひとつは、唯識論ですね。マルティン・ブーバーもユングも唯識論も重なっている部分があって、時々重ねた話をします。
 マルティン・ブーバーの「我とそれ」、「我と汝」は、ユングの「エゴ」と「セルフ」に置き換えることができます。ドイツ語の「イッヒ・エス」は、日本語に訳すると「我―それ」ですが、「それ」とは「もの」としてみることです。「それ」として対象化してものを見ている「我(イッヒ)」がエゴの正体です。
 ブーバーはいきなり、「我―それ」という対応語から話を始めています。しかし、唯識は、「我―それ」の対応語ではなくて、「我」と「それ」を別々に見る単独語の問題、人間の妄念妄想のありようから解きほぐします。ブーバーによると、「我―それ」を生きている「我」と、「我―汝」を生きている「我」は違う世界を生きています。世界は二つあるといいます。穢土と浄土の問題に関係します。
 「我―それ」は、分別の世界。ものを対象化し、物質化し、私物化している世界。もちろん対象化されたものだけでなく、対象化した私もまた物になります。「我―汝」は関係性の世界です。「我―それ」の物として生きている「我」と、「我―汝」の大いなる切れない一枚のいのちに南無して生きている「我」とは、全然違う次元の世界である。
 絶対悪の私たちの中からは「我―それ」という言葉しか出てこない。エゴの身は、「我―汝」と私を呼びかけるもの、絶対善である如来から呼びかけられて初めて、「我―汝」にかえる。「賜りたる信心」とか「他力」とは、向こうが私を汝と呼んでいるということです。それに目が覚めたとき、「我―それ」の「我」、はひるがえされて「我―汝」の「我」となります。
 一方的に私から「我―汝」という言葉は出てこない。絶対悪の身からは「我―それ」しか出てこない。二種深信・機の深信の「出離の縁あることなし」とは、エゴでエゴは超えられないということです。法に遇わなければ超えられない。法は超えさせるはたらきをもっている。それが二種深信の法の深信です。
 それからブーバーは、「我―汝」の汝の世界を三つほどあげます。しかしそれは、汝が三つあるという事ではなくて、大きく三つに分けて表現できるということでしょう。一つ目は、私といのちある生き物・いのちのない環境の世界、二つ目は私と同じ人間同士の世界、三つ目は私と大いなる永遠の汝との世界。永遠の汝とは如来のことでしょう。私たちに、こういう汝の世界が開かれるのです。目覚めれば私に「汝」と呼びかける世界のまっただ中に「我」はいます。「我―汝」は関係性の世界ですから、「我は汝」であり「汝は我」であります。
 もうひとつ面白いことは、ブーバーは「我々は他動詞の世界だけを生きているわけではない」と書いてあります。私はこれに感動しました。他動詞は目的語(あれ、それ、これなど)を必要とします。他動詞の世界は、目的語をとる世界です。目的語は、切れない世界を切り取った物です。他動詞の世界というのは、私が対象化して物を見る世界、「汝―それ」の世界です。
 では、他動詞の世界でない世界とは何でしょうか。自動詞の世界です。これは目的語をとらなくていい世界です。「ある」というだけでいい世界、自己充足の世界です。その世界が「我―汝」の世界です。
 「我―それ」という他動詞の世界は目的を掲げ、「人事を尽して天命を待つ」世界です。「一生懸命頑張れば何とかなる」という追い求める世界です。
 自動詞の世界は、自己充足の世界です。清沢満之先生が「天命に安んじて人事を尽くす」と言われていますが、まさしく自己充足の世界です。今、ここでこうしてあることに感謝して生きられる世界です。
 どちらも「人事を尽くす」のですが、他動詞の世界のエネルギーは、エゴがエネルギー源です。一方、自動詞の世界のエネルギーは、セルフ(仏さん)がエネルギー源です。追い求める他動詞の世界と、感謝して生きる自己充足の自動詞の世界のエネルギー源が違います。エゴのエネルギーは枯渇し、セルフ(仏さん)のエネルギーは無尽蔵です。
 また、こうも言えます。他動詞の世界、いわゆるエゴの世界は、所有することを歓ぶ世界です。あれがほしい、これがほしいと追い求めてきりがない生活です。一方、自動詞の世界、いわゆるセルフの世界は、「我―汝」という関係性の世界、「今・ここ」にあることを歓ぶ、自己充足の感謝の世界です。
 もし、「我―それ」のエゴだけの世界だったら、所有の歓びを追い求めて行くだけの人生です。一方、「我―汝」は存在に感謝して生きる世界です。仏さんから汝と呼ばれ、それに呼応して汝と呼び返して生きる世界、支えられて生きている人生です。これがブーバーの「我―汝」の世界です。

(窪田)私は埼玉の光照寺の関係で来ました窪田と申します。今、核の問題で、アメリカ、イギリス、ロシア、中国とかの大国がみな核を持っていながら、北朝鮮とかに核を持っちゃいけないと。自分たちがあるものをそっくり捨てて、おれたちが無くしたのだから、きみたちも無くせ、というのであれば私もなるほどと思うのですが、そのへんが大国のエゴだと思うのですが、先生はどのようにお考えかお伺いしたいのですが。

(先生)私も全く同感です。自分が持っているが人には持つなというのは、人間のエゴです。自分たちだけを正当化しています。私たちのエゴというのは、自分にとどまらない。個人エゴが広がると家族エゴになります。私の家族だけが全て。根っこは自分のエゴです。家族エゴは地域エゴになる。他の地域はどうでもよい。沖縄の問題がそうです。基地は沖縄だけにあって、自分たちのところになければそれでよい。その次は民族エゴです。民族と民族が戦っているわけです。民族エゴはさらに何になるかというと人間エゴです。人間が全て、他の動植物はどうでもよい。エゴの凄まじいところは、自分のエゴをとおすためには最先端に核兵器を据えて、皆殺しをするぞと威嚇しています。これがエゴの正体です。すべて私たちのエゴが発端で、エゴとエゴの戦いです。だから、言われるように自分たちが持っていながら相手が持つなというのは言語道断です。
 でも世の中では、自分の立場は問わない。見方を変えればアメリカほどエゴ丸出しの恐い国はない。自分に正義をかかげていますから、そういう自分たちの姿には気づかないし、問題にすらしません。
 アメリカだけでなく、自分のことは問わないで動いているのが社会です。私は絶対に正しい、あなたは間違っていると。極重悪人の教えからすれば「あなたも悪いが、私も悪い」でしょう。そう思いながらもエゴ丸出しの身を生きている。それが「悲しきかな」ですね。

(司会)他にいかがでしょうか。

(淡海)今、国家エゴというお話があったものですから重ねてお聞きしたのですけれども、宗教自身も宗教エゴで戦いの原因になっていますけれど、アメリカにはキリスト教、アフガニスタンでもイスラム教という問題が出ていますね。仏教というあつかいはこのエゴをどう超えていけるかということで、仏教国同士が歴史上やっていることもあるのでしょうけれど、そのあたりも今、我々現代人がどういうふうに考えてみればいいのでしょうか。

(先生)歴史的に見ると一神教はすさまじいですね。自分たちだけが正義・真実ということで、異教徒を迫害してきました。それに比べると仏教はすこし穏やかです。大乗、小乗でべつに殺し合いをしたわけではないです。しかし、ヨーロッパ旅行をすると分かりますが、キリスト教とイスラム教の争いだけでなく、同じキリスト教のカトリックとプロテスタントでも凄まじい殺しあいをしています。
 仏教、とくに浄土真宗、浄土系は私も悪いけどあなたも悪いという視点があります。目が内に向くことが願われています。しかし、死ぬまでエゴの身を生きている訳ですから、問題が無くなることはありません。逆に言えば、エゴを持ちながらどうセルフに触れていくかという問題が、仏道を歩むということでしょう。だからこの現実は私を教える道ですね。
『聖典』を読まれるとわかりますけれど、龍樹菩薩は「この道に因(よ)って」(『聖典』一六二頁)といって因(いん)という字で書いてあります。この娑婆の因によって出世間道に至るという。無くしてではない。この私の抱えているエゴの身をとおすことによって、はじめてセルフに触れていく。私が真実だったら真実はいらないわけです。
だからこれはある意味では、生きている私たちにとっては細い道に思えます。今も、生まれる前も死んでからも一如の世界にいるのですが、残念ながら強力なエゴを発動して生きていますから、その大地を見失っています。この肉体が滅びる時、南無して生きた大きな本来の一如の世界に還る。私にできることは、常にそれに南無して生きるということ。そういう人生しかないのではないかな。
そういう問題を考えたのが聖徳太子ではないですかね。聖徳太子の説法を読まれたら、そのあたりのことが書いてありますね。あなたもわたしもただびとだ。私は何かに執着しているからそう言っている。相手は必ずしも悪人ではない。私だけ善人ではない。そういうことを親鸞聖人が聖徳太子をとおしていただかれたのだと思います。行き詰った時はよく聖徳太子が出てきます。

(司会)ありがとうございました。

(住職)この度はこのような光照寺の門徒の皆様と志慶眞先生のところへこられたことは喜ばしいことでございます。先程、先生のご講義を聞いて、私は細川先生と日野の夜食の時にお酒を飲みながら質問したことを思い出しました。細川先生に、仏教は性善説ですか、性悪説ですかと質問したのですね。細川先生は、仏教は性善説とも性悪説とも言えない、とおさえられたわけですよね。だから、今日先生のお話を聞きながら、エゴとセルフという中に、安田理深先生の言われることもエゴとセルフで全部翻訳できるし、先ほどすっと経典が読めるようになりましたと言われたのが、この二つのエゴとセルフに置き換えられると、相対の難しい矛盾の論で説いていく経典は、するするっと解けてしまうのじゃなかろうかと、私は思わせていただきました。まことに今日、志慶眞先生に会って経典が読める方法を、また、性善説、性悪説を超える方法が仏法にあり、浄土真宗にあり、南無阿弥陀仏、ただ念仏だというところに、こう振り返ってみると、細川先生を思い出しますね。細川先生と一杯酒を飲みながら質問した世界を思い出させていただきました。ありがとうございました。

(司会)最近、エコ、エコというのはよく聞きますが、今日はたくさんエゴというのを聞かせていただいて、エゴの我ということを見つめていきたいと思いますし、セルフという言葉もお話に非常にちりばめられ、たくさん頭に残りまして、これから我々ホテルにセルフサービスで戻っていただきたいと思います(笑)。本当に先生、今日は貴重なお時間ありがとうございました。

(先生)ありがとうございました。

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