浄土真宗

「他力の仏法なくば、何をもってか生死を出離せん」

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「他力の仏法なくば、何をもってか生死を出離せん」

           2014年(H26) ビハーラ研修会 in 那覇     志慶真文雄

迫り来る「死」の問題  

 哲学者の田中美知太郎先生は、「死の自覚は、生への愛だ」と言われました。死を自覚する生き方は、生への深い愛情を持った充実した人生になるという指摘でしょう。

 戦後の日本社会において、人々は高度成長期を中心に日常をいかに享楽するかに邁進し、「死」についての話題を避けてきました。しかし今や、老齢人口が増大し、人々の「無縁死」や「孤独死」が大きな社会問題となり、家の崩壊で無縁墓も増えてきました。迫り来る「死」にどう向き合えばいいのか、いっきに「死」が現実問題となって、人々の不安や苦悩は深まるばかりです。

 マスコミでは、「終活」がよく取り上げられるようになりました。「死の自覚は、生への愛だ」と言えるような「死」への深いまなざしを考える絶好の時期が到来したと言えますが、世間やマスコミで取り上げられる「終活」はあまりにハウツー(how-to)的です。それも必要なことではありますが、それだけでは生死の問題は解決しないでしょう。

 とりあえず現状から考えてみます。
 最近、『週刊現代(2014.7.5)』に「ゼロになって死にたい〈0葬〉のすすめ」という特集がありました。「この世と何の未練もなく〈お別れしたい〉人が増えています」、「墓はいらない / 葬式はやらない / 何も残さない」という記事でした。それが大反響だったとのことで、ひきつづいて第2弾の特集「無死のすすめ : 静かにいなくなる準備」(『週刊現代(2014.7.26/8.1)』)もありました。現代人が何に関心を抱いているかがわかります。

 日本では葬儀と言えば病院から自宅に遺体を搬送し、24時間経過してから火葬をして葬式や告別式を執り行うのが一般的でした。しかし、核家族化が進み人々のつながりが希薄になり、さらに少子高齢化社会を迎えて、従来の葬儀の形式、費用、墓の問題が人々の負担になってきています。

 宗教学者で「葬送の自由をすすめる会」会長でもある島田裕巳さんの『葬式は、要らない』(幻冬舎新書)という葬式無用論の本には、日本では葬式の費用が平均230万円かかり世界で断トツ、そして今、その葬式大国日本で葬儀について大きな変動がおこっていると指摘しています。都会では、「直葬」が顕著になってきています。「直葬」とは、病院から火葬場に搬送し荼毘に付し、僧侶も呼ばず葬式や告別式もしない方法です。時代の流れとしてこれからも直葬は増えていくでしょう。昨今、死者の増加にともなって、火葬場が足りなく一週間から十日待ちという深刻な状況も報道されています。また葬儀をいくら簡略化しても、遺骨はどこかに納めなければならず、墓の問題が残ります。遺骨を納めるべき墓がないために、骨壺に入った遺骨を自宅に置いたままという家が増え、現在、およそ100万柱の遺骨が自宅にあるといわれています。人々の苦悩は多義にわたり、安心して老後を迎えられなくなっています。


「0葬(ゼロソウ)」の衝撃  

 最近、『0葬(ゼロソウ)−あっさり死ぬ』(島田裕巳著、集英社)が出版されました。この本は、「はじめに: 死者とともに生きる必要は、もうない。」と言うショッキングな書き出しで始まります。
 「今の葬儀は、手間ひまやお金がかかり負担がおおきすぎる、社会が大きく変わり、死のあり方そのものが根本的に変容してきたことから考えれば、従来の方法は意味をなさない。極端な言い方をすれば、もう人を葬り、弔う必要はなくなっている。遺体を処理すればそれでいい。そんな時代が訪れている」と。
 そして島田さんが提唱しているは、「自然葬」のさらに先をゆく「0葬(ゼロソウ)」です。「0葬」とは、火葬した時点で終わりにする方法です。初めて聞いたときは、とても驚かされました。島田さんの言葉を要約してみました。

1) 今、もっとも簡単な人の葬り方ということになれば、「直葬」であり、「0葬」であ
る。この二つを組み合わせたものが、一番あっさりしていて、費用もかからない。つまり、火葬場に直行し、そこで荼毘に付した後、遺骨を引き取らないのである。「直葬」を前提とした「0葬」は、遺体処理に近い。骨上げさえ必要でない。遺骨を引き取らないので、墓を造る必要も墓を守っていく必要もない。私たちは墓の重荷から完全に解放される。骨上げということを目的としなければ、火葬のときの温度をもっと上げるなりして、遺骨を焼き切って灰にしてしまう。最後には灰どころか何も残らない形がとれるようになるかもしれない。それこそが究極の「0葬(ゼロソウ)」である。あっさり死ぬは、現代の死生観である。遺骨を引き取らないなどということを聞けば、故人を粗末に扱っていることになるのではないかと言い出す人もいるはずだ。しかし、どうしても故人の供養をおこないたいというのであれば、どこかに墓なり慰霊碑なりを建て、それを対象にすればいい。両墓制の時代には、私たちはそうしていた。

 2)葬儀は要らない。そんな時代が訪れている。自分が死んでしまえば、それで終わりである。寂しいと思う主体が生滅しているのだから、死んだ後のことまで心配することもない。自分が死んでしまえば、後はどうなるか、それを見届けることもできないわけだから、そんなことどうでもいいはずなのだが、人は不思議とそこにこだわる。人間は厄介な生き物である。死後に霊が残り、その霊は意志や感情を持つと主張する人たちもいるが、骨に霊が宿っているわけではない。骨の主成分はリン酸カルシウムである。死者が極楽往生したならば、後に残された遺体や遺骨には意味がない。それは、生命が失われた抜け殻であるに過ぎない。土葬の時代には、土葬された遺体はまさにたんなる抜け殻として考えられていた。遺骨はただの骨であり、故人の魂が宿っているものでもない。

 確かに今の葬儀の形式は負担が大きすぎます。好むと好まざるとにかかわらず、葬儀の簡略化は時代の必然でしょう。私自身は「自然葬」でも「0葬」でもかまわないと思っています。しかしたびたび出てくる「遺体処理」という即物的な視点に違和感を覚えます。言葉の背後に一貫して流れているのは、「人は死ねば単なるゴミに過ぎない」という考え方です。
  以前、『人は死ねばゴミになる』(新潮社、1988年)という本がベストセラーになったことがあります。多くの人々に尊敬され検事総長を務められた伊藤榮樹(しげき)さんが、盲腸癌を患い、死を目前にして書きとめたのがこの本の内容です。
 これに対して島田さんは、「『人は死ねばゴミになる』という言い方は、私たちに衝撃を与えるとともに、真実に目を向けさせる役割をはたしている。あるいは私たちは、ゴミだと思いたくないために、遺骨を丁重に葬ろうとしているのかもしれない」とコメントしています。私たちに衝撃を与えたことは事実ですが、「人は死ねばゴミになる」というのは、「真実」でしょうか?「ゴミだと思いたくないために、遺骨を丁重に葬ろうとしている」のでしょうか?
 これらの問題は、人間をどう考えるかという人間観、人生観、死生観などに深くかかわっています。


「人は死ねばゴミになる」のか?  

伊藤榮樹(しげき)さんの本の内容を紹介します。
「僕の家も多くの日本の家と同じように檀那(だんな)寺を持っている。僕の場合は、名古屋にある浄土真宗の寺だ。しかし、仏教という宗教を信じているわけではない。僕は、神とか仏とか、自分を超えたところに存在するものにすがって、こころの慰めを得ようという気には到底なれない。科学が発達すれば、いずれ生命の起源はわかるから、あえて宗教とか仏教に頼る必要がないというのが私のスタンスだ。」
 「僕は、人は死んだ瞬間、ただの物質、つまりホコリと同じようなものになってしまうと思うよ。死の向こうに死者の世界とか霊界といったようなものはないと思う。死んでしまったら、当人はまったくのゴミのようなものと化して意識のようなものは残らないと思うよ」。
 すると枕元にいた奥さんが言いました。
 「あなた、あなたのような冷たい考え方は嫌よ。死んでからも、残された私たちを見守っていてくれなくてはいやです。」
 それに対して伊藤さんがこたえます。
 「その気持ちはよくわかるが、僕は人間が死んだあと、魂だけが残って生きている人々と交流できるとは到底思えない。しかし、残された人たちがそういう具合に思う心情はよくわかる。死んでいく当人は、ゴミに帰すだけだなどとのんきなことをいえるのだが、生きてこの世に残る人たちの立場は、全く別である。僕だって、身近な人、親しい人が亡くなれば、ほんとうに悲しく、心から冥福を祈らずにはいられない。それは、生きている人間としての当然の心情である。死んでいく者としても、残る人たちのこの心情を思い、生きている間にできるかぎりこれにこたえるよう心しなくてはなるまい。」
 多くの現代日本人もこのような死生観、宗教観、世界観、科学観で生きているのではないでしょうか。伊藤榮樹(しげき)さんは多くの人々の代弁者でしょう。
 しかし残念ながら、宗教、仏教が何を問題にしているか、そして宗教と科学の課題の違いも理解されていません。科学への信頼はあまりに楽観的です。「人は死ねばゴミになる」と思いつつ、亡くなった人の霊に哀悼(あいとう)の意を表すのも矛盾です。その曖昧さは、ある意味で常識人の姿です。


「人は死ねば仏(ぶつ)になる」のか?  

 伊藤さんの本は、いろいろな人にいろいろな反響を呼び起こしました。北海道のお寺の奥さんで、四十六歳、乳癌で亡くなった鈴木章子(あやこ)さんもそのひとりでした。その著書『癌告知のあとで』(探究社)は私の愛読書でが、そのなかに「未完のままに」があります。

伊藤榮樹様
「人間死ねばゴミになる」
残された子に、残された妻に、ゴミを拝めというのですか
あなたにとりまして、亡くなられたお父上、お母上も、ゴミだったのですか
人間死ねば佛になる。
この一点、人間成就の最後のピースでしたのに
自分がただの粗大ゴミとして、逝ったのですね
未完のままに

 
 この詩で初めて伊藤榮樹さんを知り、その著書『人は死ねばゴミになる』(新潮社)を求めました。しかしすでに絶版になっていたため、全国の古書店を検索して手に入れました。今から十数年前のことです。

 「人は死ねば仏(ぶつ)になる」という視点で、章子(あやこ)さんは沢山の素晴らしい詩を残されています。いくつかご紹介します。

 「生と死」
   私にとりまして / 生と死 / 同意語と肯けます

 「無題」
   治っても / 治らなくても / 御手の中
   如来(あなた)まかせの / この気楽さよ
   ナムアミダブツ / ナムアミダブツ

 「誕生」
   何の自己のはからいもなく / この世界に / 生まれ出させていただきましたこと
   すっかり / 忘れておりました / 自然のお働きにおまかせして
   また 誕生すれば / 良いだけのこと

 「生死」
   長いいのちの歴史の中に / 今 私が在ることに気づかされたら
   生死のきれめが見えなくなりました

 伊藤榮樹(しげき)さんは「人は死ねばゴミになる」といい、鈴木章子(あやこ)さんは「人は死ねば仏(ぶつ)になる」といいます。その背景には、根本的な世界観の違いがあります。その世界観の違いを考えてみます。


マルティン・ブーバーの「我と汝」  

 私は十歳のときに、ある日突然、自分が死んでこの世からいなくなるという恐怖感に襲われ、「誰か助けてくれ」という悲鳴を上げながら生きていました。私もまた、「人は死ねばゴミになる」としか思えず虚しく生きていたのです。
 この「生死の問題」に向き合う上で、私にとってマルティン・ブーバー(Martin Buber、1878〜1965)との出遇いは決定的でした。
 彼はオーストリア生まれのユダヤ人で、フランクフルト大学で教鞭を執っておりましたが、一九三三年、ナチスにドイツを追われました。そして、パレスチナに移住し、ヘブライ大学で社会哲学を担当していました。正式な職が与えられないままでしたが、ずっと「我と汝」ということを探求して生涯を終えられた方です。
 岩波文庫から『我と汝・対話』という本が出ています。この本を読んで大きな衝撃を受けました。私のものの考え方がいかに間違っていたかということを、この本を通して教えられました。
 ブーバーは「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる」と言っています。
 私は、世界は一つで、それは自分とは関係なく客観的に存在し、そのなかに自分がいて、その世界の中で「人は死ねば消えてなくなる」と思っていました。どうせ死ぬなら、せめてその客観的な世界を研究して死にたい、それが大学院で素粒子物理を専攻し研究する私の目的でした。しかしその考え方にも行き詰まって大学院を退学しました。
 先の見えない中を手探りしているとき、ブーバーに出遇いました。彼は「世界は一つではない。世界は二つある。しかしその世界は、人間のとる態度とは別に存在するわけではない。世界は、人間のとる態度による」というのです。これまでの私の世界観を根底から否定する視点でした。非常な衝撃を受けました。
 「人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。根源語とは、単独語ではなく、対応語である」と言います。
 ブーバーは、現実的には「対応語」以外にはあり得ないとして、この「対応語」から話を進めます。人間が語る一番根本的なことば、つまり根源語はドイツ語で「ich(イッヒ)−es(エス)」(〈われーそれ〉)と「ich(イッヒ)−du(ドゥ)」(〈われーなんじ〉)の二つの対応語です。
 根源語〈われーそれ〉を生きている〈われ〉と〈われーなんじ〉を生きている〈われ〉はまったく異なった世界を生きているのです。人間の〈われ〉が二つあるということは、世界が二つあるということです。私とは別に、私の対象として世界が二つあるということではありません。私自身に開かれる世界が二つあるということです。
 ブーバーが「穢土」と「浄土」と表現したわけではありませんが、少なくとも世界共通の人間に普遍的なことを言っているのであれば、「穢土」と「浄土」と捉えても間違いではないでしょう。つまり、私とは別に「穢土」と「浄土」があるということではなく、私に開かれる世界が二つ(「穢土」と「浄土」)あるということです。しかしながら、ややもすれば私たちは、自分とは別に「穢土」と「浄土」があるかのごとく対象的にものを考え、それを前提に議論しています。それは前提からして間違っているということです。私は、これは「穢土」と「浄土」を考えるうえで、本質的なことだと思います。
 ブーバーは、「根源語〈われーそれ〉は、けっして全存在をもって語ることができない」と表現しています。〈われーそれ〉を生きる〈われ〉は、一切のものを分別し対象化して生きる〈われ〉であります。周囲を「もの」と見なす私もまた「もの」になります。私たちは賜ったいのちをも「私の命」と「もの」にして、所有化、物質化して生きているのです。
 しかし、〈われーなんじ〉の世界は切れない世界です。無分別の世界、一如の世界、関係性の世界です。〈われーなんじ〉の世界では、〈われ〉は〈なんじ〉であり、〈なんじ〉は〈われ〉であります。〈われーなんじ〉の対応語の世界は呼びかけの世界です。そのことをブーバーは、「根源語〈われーなんじ〉は、全存在をもってのみ語ることができる」と表現しています。なんと的確で感動的な言葉でしょうか。


唯識の三性説  

 私たちは、はじめから「私」、「あなた」、「机」、「木」、「空」などが、私とは関係なくバラバラにあると考えています。それが「単独語」という発想です。しかし、「もの」がはじめからバラバラにあると見ているのは誰かというと「私」です。つまり〈われーそれ〉の〈われ〉が見ているのです。「単独語」とは〈われーそれ〉の〈それ〉のことですから、ブーバーが現実的には根源語は「対応語」以外にはあり得ないとして、この「対応語」から話をすすめるのは、もっともなことです。
 しかし、あり得ないことを前提にして妄念妄想の世界を構築して生きているのが私たちですから、仏教は、この人間のありようを問題にするところから出発しました。それを深く掘り下げたのが唯識(ゆいしき)学でした。
 唯識学には「三性説(さんしょうせつ)」という考え方があります。「もの」を見るときに、私たちは三つの性質を見ています。
 一つは「分別性(ぶんべつしょう)」です。これは真諦三蔵の訳です。玄奘(げんじょう)三蔵は、少し難しい言葉で「遍計所執(へんげしょしゅう)性(しょう)」と訳しています。何かに偏って「もの」を見るという意味です。要するに、「分別性」とは、「もの」がバラバラにあるということです。そういう見方を「分別知」といいます。私たちは、分別してしか「もの」を見ることができない性(さが)をもって生まれてきます。その「分別心」に苦しめられて生きていかざるをえません。私はそれが「生苦(しょうく)」だと思います。
 二つめは、「依(え)他性(たしょう)」、あるいは「依他起(えたき)性(しょう)」といいます。「依他性」とは、全ての「もの」が関係し合っているという意味です。
 三つめは、「真実性(しんじつしょう)」、あるいは「円(えん)成(じょう)実性(じつしょう)」ともいいます。「真実性」とは、すべては本来的には全部一つだというのが真実であるという意味です。


「唯識の三性説」から見たブーバーの視点  

 ブーバーの〈われーそれ〉、〈われーなんじ〉の世界は、「唯識の三性説」からどのように説明できるのでしょうか。それは「依(え)他性(たしょう)」についての考察になります。
「依(え)他性(たしょう)」を見るに、二つの方向があります。
 一つは「分別性」から「依他性」を見る視点です。「もの」は別々にあるが、しかしよく考えてみると、「もの」にはつながりがあるではないか。私がいて、あなたがいて、子どもがいて、火があって、空気があって、全部が関係しているではないかということで、後から自らの価値観、色眼鏡で理由付けをして「もの」を見る視点です。「分別性」から「依他性」を見る視点は、ブーバーの〈われーそれ〉の世界にほかなりません。「自我のまなざし」、「妄念妄想のまなざし」ですが、それが私たちの一般的なものの見方です。
 もう一つ、「真実性」から「依他性」を見る視点があります。「本来は切れない一枚の大いなる世界」を「法性法身」といいます。それを感得するはたらきが「般若(はんにゃ)」(智慧)、「無分別(むふんべっ)智(ち)」です。「一枚の大いなる世界は分断や分離はできないけれども、区別はできるという関係性の世界」を「方便法身」といいます。それを感得するはたらきが「般若後(はんにゃご)得(とく)智(ち)」です。本来は分別できないけれども、もののつながりが見える視点は、ブーバーの〈われーなんじ〉の世界にほかなりません。「如来のまなざし」です。
 『唯信鈔文意』には、「法性法身」と「方便法身」との関係が次のように述べられています。「法性すなわち法身なり。法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらわして、方便法身ともうす御(おん)すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまいて、不可思議の大誓願をおこして、あらわれたまう御(おん)すがたをば、世親菩薩は、尽十方無碍光如来となずけたてまつりたまえり。この如来を報身ともうす」と。
 つまり、「法性法身」(「真実性」)は「方便法身」(〈われーなんじ〉の「依他性」)の姿をとって現れ、〈なんじ〉という呼びかけ「尽十方無碍光如来・南無阿弥陀仏」となってはたらきます。


〈われーなんじ〉の世界はどのように開かれるのか  

  日頃、私たちが生きている世界を「穢土」「世間」「娑婆(しゃば)」「堪忍土」といいます。それが〈われーそれ〉の世界です。私たちは穢土の住人です。その私たちに〈われーなんじ〉の世界(浄土)は、どのように開かれるのでしょうか。
 私が〈なんじ〉と呼びかけたとします。するとこの〈なんじ〉は、「真実性」から見た「依他性」の〈われーなんじ〉になるかといえば、私はならないと思います。私がいくら〈なんじ〉と呼びかけても、その〈なんじ〉は〈われーそれ〉の〈それ〉になってしまいます。生きている限り分別を性(さが)として生きている私は〈われーそれ〉から出ることはできないからです。―――-「機の深信」
 自我で分別してしか生きてないことが徹底してうなずかれた時、初めて分別できない無分別の世界が感得され、私の分別を超えた〈われーなんじ〉の世界が彰(あきら)かになります。私が〈なんじ〉と呼びかけるに先立って、私が〈なんじ〉と呼びかけられていることに目が覚めたとき、〈われーなんじ〉の〈なんじ〉に呼応する世界が開かれます。絶対他力、ただ念仏の世界です。その他力の法のはたらきは、法蔵菩薩の誓願となって衆生(しゅじょう)に届きます。―――-「法の深信」
 親鸞聖人の御自釈に、「しかるに『経』に聞(もん)と言うは、衆生(しゅじょう)、仏願の生起(しょうき)・本末(ほんまつ)を聞きて疑心あることなし。これを聞というなり。信心と言うは、すなわち本願力回向(えこう)の信心なり。」(『教行信証』信巻)とあります。私たちは死ぬまで分別をして生きる以外にありません。しかしその〈われーそれ〉の世界より〈われーなんじ〉の世界のほうが大きいのです。〈われーなんじ〉の大きな世界・浄土の中に〈われーそれ〉という穢土を形成して生きているのです。本願力回向(えこう)の信心とは、〈われーそれ〉の世界から一歩も出られないことを自覚しながら、〈われーなんじ〉の世界の息吹を感得することでしょう。『親鸞聖人御消息集』には、「光明寺の和尚(かしょう)の『般舟讃(はんじゆさん)』には、〈信心の人はその心すでに浄土に居(こ)す〉と釈し給えり。居(こ)すというは、浄土に、信心の人のこころ、つねにいたりということなり。」とあります。信心の人、つまり〈われーそれ〉の身を生きていながら、〈われーなんじ〉の〈なんじ〉という呼びかけを聞く人は、その心はすでに〈われーなんじ〉の世界(浄土)を生きているというのです。


「某閉眼せば、賀茂川にいれて魚にあたうべし」…自然葬でもOK  

 これは『改邪鈔(がいじゃしょう)』(覚如上人)にある親鸞聖人のことばです。

この章を現代語訳すると

 浄土に生まれるための信心についての議論もしないで、没後の葬礼を支援するということを、わが宗の肝要とするかのごとく話し合うものだから、祖師親鸞聖人のご精神もあらわれず、一般の人々がともに浄土に往生する道も知らず、ただ世間に行われる無常講とかいうものと同じもののように見なしてしまうことに注意しなければならない。本師聖人の仰せに〈わたし(親鸞)が目を閉じたならば、この身を賀茂川に投げいれて魚に与えてよい〉と言われました。これはとりもなおさず肉体を軽んじ、仏法の信心を本としなければならないことを表しておられるのである。これから考えても、葬送を一大事としてはならない。

となります。
 葬送儀礼を一大事とすることをやめて、仏法の信心を本としなければならないと説いています。これは当然のことですが、当然でない現状が長く続き「葬式仏教」と言われてきました。しかし、その「葬式仏教」さえ存続が難しくなっています。
 島田裕巳さんは、「自然葬にしても0葬にしても、墓を設けないのであれば、寺の檀家になる必要はまるでない。檀家制度がなければ僧侶を葬儀に導師として呼ぶ必要もないし、布施や戒名料も不要である。寺に故人の供養をしてもらうことを望まないというのであれば、わざわざ関係を結ぶ必要もない。寺の檀家になっていなくても十分に故人を弔うことはできる。檀家という制度が今の社会に適合するものなのかどうか、少し考えてみれば否定的な答えしか思い浮かばない。墓の心配がなくなれば、人生が随分と気楽になる。」と述べ、檀家制度の崩壊も時間の問題だと指摘しています。ちなみに沖縄には檀家制度はありません。
 今、まさに仏教は何をなすべきか、その本来の姿に立ち戻るべき絶好の時期が到来しています。


「他力の仏法なくば、なにをもってか生死を出離せん」  

  『口伝鈔』(覚如上人)には、「たもつところの他力の仏法なくは、なにをもってか、生死を出離せん」とあります。親鸞聖人在世の当時、世間では妻子や親族などの愛情の深いものを臨終の席に近づけないで、引き離しておく習慣があったようです。死んで行く者が愛情に迷うて、見苦しい死に方をさせないためでした。
 「これは自力聖道の精神であって、他力真宗にはそういうことはありません。そのわけは、どのように引き離しても他力の信仰がなかったならば、どうして死に対する迷い苦しみから逃れることができようか。たとえこの世への愛着がいかに深いといっても、もともとそのような人々を助けようとして立てられた本願であるから、どのような大罪も重いとはされないので、まして愛別離苦に妨げられるものではありません。浄土に往生するという信心が既に成就しているのであるから、輪廻生死の最後である今回はことに嘆き悲しみも最も深いのです。枕の前後を取り囲んで嘆き悲しもうとも少しも問題にはならない」と述べています。
 つまり他力の仏法(〈われーなんじ〉)がないならば、私たちには〈われーそれ〉の世界しかありません。それは分別の世界で、「もの」として生涯を終えることになります。「人は死んだらゴミになる」と思っている人は〈われーそれ〉の〈それ〉という「もの」の世界を生きていますから、死んだらゴミになります。伊藤栄樹さんや、「遺体処理」ということばに代表される島田裕巳さんの視点です。
 「人は死ねば仏(ぶつ)になる」と考えて生きている人は、〈われーなんじ〉の〈われ〉を生きています。〈われーなんじ〉の〈われ〉は「仏・如来」ですから死んだら仏になります。鈴木章子さんの視点です。
 藤原正遠(しょうおん)先生に、ある人が「人は死んだらどうせ灰になるだけじゃないですか」と尋ねました。尋ねた人は、灰はたんなるゴミみたいなものだという思いから質問したのでしょうが、それに対して「灰も仏さんですよ、灰仏(はいぼとけ)と言うんですよ」と正遠先生は言われました。つまり〈われーなんじ〉の世界を生きている〈われ〉は単なる「もの」ではありません。〈われ〉は〈なんじ〉であり、〈なんじ〉は〈われ〉であります。死んだら灰になりますが、その灰は灰仏(はいぼとけ)です。
 伝統的には、涅槃には肉体が残っているときの「有余(うよ)涅槃(ねはん)」と、肉体が滅びたときの「無余(むよ)涅槃」があります。「無余(むよ)涅槃」のことを「灰身滅(けしんめっ)智(ち)」とも言います。「灰身滅(けしんめっ)智(ち)」とは、身が灰になり煩悩が滅された智慧の世界です。それが灰仏(はいぼとけ)です。一方、私は「有余(うよ)涅槃(ねはん)」とは「正定聚」のことだと考えています。
 世親菩薩は「仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)うて空しく過ぐる者なし」(『浄土論』)と言われています。〈われーなんじ〉の〈なんじ〉という呼びかけを観ずるものに、人生の空過はないということです。逆にそれは、〈われーなんじ〉の〈なんじ〉という呼びかけが聞こえないならば、〈われーそれ〉の世界で〈それ〉として生涯を終えてしまう、「本願力に遇わなければ人生は空しく終わる」ということです。つまり、「人は死ねばゴミになる」と考えて生きている人は「ゴミ」になり、「人は死ねば仏(ぶつ)になる」と考えて生きている人は「仏」になるのです。

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