浄土真宗

「生死を超える道としてのビハーラ活動」

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「生死を超える道としてのビハーラ活動」

           2013年(H25) ビハーラ研修会 in 静岡   志慶真文雄

「皆、死すべき生」を生きている  

 皆さん、おはようございます。沖縄で小児科医院を開業している志慶真と申します。

 朝に沖縄を出発してからでは、初日開催の講演会に間に合わないので、前日、東京に一泊してから来ました。富士山を見られると期待したのですが、あいにくの天気で残念です。静岡には、忘れられない思い出があります。高校卒業後、内地留学制度で国立大学へ進学するとき、希望大学を書く欄がありました。夢をふくらませて静岡大学工学部と記入したのですが、出発の四、五日前に届いた通知は愛媛大学でした。十代後半に静岡へ行きたいと思ったこと、その後の紆余曲折の人生がよみがえり、感無量の思いです。

 ビハーラ医療団研修会には、田代俊孝先生に声をかけて頂き、第一回から参加しています。毎年、皆さんとお会いするのが楽しみです。

 最初は、ビハーラというと「ターミナルケア・終末医療・緩和ケア」というイメージだけでした。大きい病院に勤務している時は、子どもを看取ることもあったのですが、開業医の場合ではそういうことはないので、ビハーラ活動とは関係がないのではないかと思って、戸惑いながら参加したのを覚えています。その思いはなかなか越えられず、私に何が出来るかを考えながらビハーラ医療団の活動に参加してきました。

 しかし、あるとき思い至りました。どの人も、いつも、死と隣り合わせというのが現実です。「皆、死すべき生」を生きています。予期しない病で亡くなることもあり、交通事故に遭って亡くなることもあり、震災で突然亡くなることもあります。だからビハーラ活動を、亡くなっていく人やターミナルケアなどと狭く考えなくてもいいのではないか。むしろ「死すべき生」を日ごろから考えることを、本来のビハーラ活動の原点にすえてもいいのではないか。それはまさしく仏教そのものの課題でした。

 今回の演題、「生死を超える道としてのビハーラ活動」には、そういう意味を込めました。


病院の二階を聞法道場にして二十年  

 現在、病院の二階で聞法道場を開いて活動をしています。生死を超えることを最大のテーマにしています。生死には文字通り生き死にという意味も、迷いという意味もあります。私たちの考える生き死には、迷いであるということでしょう。その生死に苦悩されている身近な人々に仏法を届け、一緒に歩むことを課題にして二十年間やってきました。

 毎月一回の仏教講演会、月二回の仏教読書会、年数回の特別仏教講演会などを開催し、週末はこうした活動に費やしています。浄土真宗とは縁が薄く、先祖崇拝が生活のしきたりになっている沖縄では、仏教への関心がなく参加者は少ないのではないか、お念仏の話は理解してもらえないのではないかなど、最初は気がかりなことばかりでした。ほんの数名の参加から始めた仏教講演会したが、今では毎回四十名前後の方々が参加されます。

 「浄土真宗とはどういう教えか」、「お念仏をいただくとはどういうことか」を念頭に活動していますが、この仏教講演会や読書会への参加者には、仏教との初めての出遇いという方も多数おられます。その方々には特に「仏教の課題とは何か」、「なんで仏教を聴かないといけないのか」を繰り返し問いかけています。

 今日、浄土真宗もそうですが仏教に勢いがないとよく言われます。私はその大きな原因の一つが、何が仏教の課題であるかが見失われ、人々の衷心の願いに向き合わなくなっているからだと考えています。以前にもビハーラ医療団研修会で話したことがあるのですが、そのことからご一緒に考えてみましょう。


「パンを食べても死ぬよ」  

 生きるとは生活をすることです。その「生活」を「生(せい)」と「活(かつ)」に分けて考えてみます。それは「仏法の根源的課題とは何か」を明確にするためです。

 「活」というのは、端的に言えば生きるためにどのようにパンを手に入れるかという課題です。一般的には衣食住の問題ですが、地位、名誉、財産、健康など諸々の社会的活動も「活」の問題です。われわれの日常生活のほとんどは、そのような「活」に費やされています。それが世間、特に現代の経済社会の姿です。

 誤解しないで欲しいのですが、パンを手に入れる「活」に意味がないといっているのではありません。どの人にもパンが手に入るように、セーフティーネットの構築、貧困対策、医療福祉の支援などは、重要な社会的•政治的課題です。

 しかし、パンが手に入れば人生のすべてが解決するかというと、そうではありません。パンを食べてもどの人も100%死にます。生涯食べきれないほどの山のようなパンが手に入っても「パンを食べても死ぬという問題」は解決しません。それが「生」の課題です。

 「パンを手に入れる」ことと「パンを食べても死ぬ」ということは、同じ次元で問える問題ではないということです。「活」と「生」はどちらも重要ですが、質の違う問題、レベルの違う問題です。十分なパンが手に入っても、地位や名誉が手に入っても、いざ自分が死を目前にしたとき、生死は超えられないところに人間の苦悩や戸惑いがあります。パンが手に入れば、宗教や仏教は必要ないという考えはあまりに浅薄です。

 「パンを食べても死ぬ、では、あなたはどうするのですか」という「生」の課題こそ、宗教や仏教の眼目です。それが釈尊や親鸞聖人の課題でもありました。

 約二年前、沖縄の新聞『琉球新報』に半年間コラムを掲載しました。人々が「活」で四苦八苦、右往左往し、「活」だけが人生のすべてであるかのような世間の風潮の中、理解してもらえるかどうか危惧しながら、人生には「活」だけでなく「生」という重要な課題があると書きました。

 ある日、仲間に声をかけられました。

 「志慶眞さんが、新聞のコラムに『活』と『生』の話を書いてくれてよかった」

と言うのです。

 「どうして」

と聞いてみると、

 「私が仏教の話を聞きに行くのを娘がとても嫌がっていました。なぜ、今さら、そういうところへ行かないといけないのかと反発していました。しかし、娘が新聞のコラムを読んで、宗教や仏教というのは、『パンを食べても死ぬ』ということを問題にしているということを理解し、お父さんが、なんで仏教を聞いているかがよくわかったと言って、それからは喜んで行かせてくれるようになりました」と嬉しそうに語ってくれました。

 嬉しい反響でした。娘さんにも、人生の問題の所在がはっきりしたということです。


強固なマインドコントロール・「活」至上主義  

 またある日、講演会後ひとりの友人に、

 「志慶眞くん、志慶眞くん」

と呼びとめられました。

 「うん、どうした?」

とたずねると、

 「最近、家で冷たい目で見られている」

と。

 「なんで?」

と聞くと、

 「仏法の本ばかり読んで、父さんは、志慶眞先生のところに行って洗脳されている」と言われたそうです。家族にはなかなか理解をしてもらえないという話でした。

 私にも思い当たることがありました。高校時代のある同級生が、「志慶眞くんは最近、仏教に凝っているらしい」と、わたしのことを話していると耳にしました。仏教は何を問題にしているのかを知らない人には、そのように見えるのも致し方ないことです。

 オーム真理教などの悲惨な事件の影響などもあって、多くの人々が宗教、仏教などに関わることは、洗脳;マインドコントロールされることではないかと不安を抱き、警戒します。それは洗脳•マインドコントロールに巻き込まれる危機を避けるための、人間の健全な反応であることも確かです。

 しかし洗脳•マインドコントロールと言えば、私たちはすでにして現在、「活」至上主義に、強固に洗脳•マインドコントロールされています。マインドコントロールされていることに、気づかないほどにマインドコントロールされているというのが、私の見解です。

 私たちは生まれたときから、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学、社会人と、いかにうまく、人より多く、パンを手に入れるかが、人生の最重要課題であるかのように育てられてきました。世間の多くの人々は、「パンを食べても死ぬ」という「生」の課題を問うことなく、「活」を追い求めて生きています。「活」を満たせば、人生の問題はなくなるかのように錯覚しています。「食べても100%死にます。その問題はどうするのですか」という「生」の課題は、眼中にありません。

 この強固な「活」至上主義の洗脳•マインドコントロールはどうしたら解けるのでしょうか。その唯一の方法が、仏法を聴いて如来の智慧を賜ることだと私は理解しています。しかし、そのマインドコントロールはあまりにも強固なため、なかなか解けないのが現状です。仏法がうなずけないとは、「活」至上主義のマインドコントロールがいまだに解けてないということでしょう。


「活」至上主義の世間への警鐘  

 私は長年、哲学者•池田晶子さんの書物を愛読してきました。世間の価値観に流されないその視点には、大いに共感するものがありました。しかし平成十九年(2007)、残念ながら突然若くしてお亡くなりになりました。

 約十八年前、池田さんの記事が新聞に掲載されました。

 「活」至上主義で強固に洗脳•マインドコントロールされた私たちが、どのように社会を生きているかを考えさせられます。

 「現代の日本に生きる人々は、自分が何を求めているかを自覚していませんね。自分の精神性以外の外側の何かに価値を求めて生きているから、いったんその価値が崩れると慌てふためくことになる。精神性の欠如という点で、かなりレベルの低い時代と思う。」(記事)

 強烈なコメントです。「自分の精神性以外の外側の何か」とは「活」、「精神性の欠如」とは「生」を課題にしない生き方ということでしょう。「レベルの低い時代」というのは、「活」至上主義の生活は人生の空過に過ぎないという厳しい指摘と、それでいいのですかという警鐘でしょう。

 「制度を変えても、精神の在り方が変わらなければ、世の中はかわりません。」 「税金の引き上げ引き下げで、生活が良くなる悪くなるという話以前の根本的な問題です。」(記事)

 「生」の課題に向き合わない、「活」だけの生活は流転でしかないでしょうと、私には聞こえます。

 「現代世界全体がそうだが、物質主義、現世主義、生命至上主義です。欲望とか生活とか、そういったことの人生における意味と価値を、根っこからきちんと考えたことがない。だから、金融不安など大事件のように騒いでいるが、先が分からないのは別に今に始まったことではない。生存するということは、基本的にそういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと思う。」(記事)

 今や世界中が経済至上主義、利潤至上主義で狂乱しています。この「活」の世界は、パンが手に入らないと大騒ぎする世界ですが、パンが手に入っても出口のない世界です。池田さんは言います、「そういうことなのだから、ちょうどいい気付け薬だと思う。」と。


ビハーラ活動は根源的な世界を開く  

 また、池田晶子さんが死の自覚について書いた、忘れられない記事があります。

 「半世紀戦争がなかったことが大きいと思うが、みんな自分が死ぬということを忘れている。人がものを考えないのは、死を身近に見ないからだと思う。と言って、永遠に生きると考えているわけではない。漠然としたライフプランで、なんとなく生きている。一番強いインパクトは死です。人がものを考え、自覚的にいき始めるための契機は死を知ることです。」(記事)

 「人がものを考え、自覚的にいき始めるための契機は死を知ることです。」という言葉には、深くうなずかされます。

 私は十歳のときに、突然いずれこの地上から消えてしまうという思いにかられました。それまで遊びほうけていた日々は、その日を境に、生きていくのがつらい日々となりました。何をしても結局は死んでしまうと思うと、空しくてやりきれなくて、どうにもなりませんでした。生きていくことの重荷に、「誰か助けてくれ」と悲鳴をあげて生きてきました。今から思えば、生死を超えるための苦痛•苦悩でした。

 よく人間の苦痛は「トータルペイン(全人的苦痛)」、つまり「身体的苦痛」、「社会的苦痛」、「精神的苦痛」、「スピリチュアルな苦痛」などが複合したものであると言われます。あるいは「人間は全人的に死ぬのだ」とも言われます。

 「身体的苦痛」とは「肉体の痛み」「呼吸困難」「嘔気・嘔吐」「全身倦怠感」など、「社会的苦痛」とは経済的不安、仕事を失う不安、家族の生活の不安など、「精神的苦痛」は病気への不安、いらだち、うつ状態、自責の念などです。「スピリチュアルな苦痛」は、死への不安や恐怖、生きる意味の喪失などと言われます。

 私が長年翻弄されて来た「生ききれない、死にきれない」という生死の問題は、このスピリチュアルな苦痛と言い換えることが出来ます。多くの人にとっては、病気になって身体的苦痛、社会的苦痛、精神的苦痛に直面してからスピリチュアルな問題に苦悶するというのが一般的でしょうが、私は十歳の時から激しいスピリチュアルな苦痛に押し流されて来たというのが実感です。私には、その体験を通してしかビハーラ活動は考えられませんでした。そのことに触れてみたいと思います。

 多くの医療現場で、終末医療、緩和ケアなどが問題となってきました。私のところにも医師会や県立病院主催の緩和ケア講演会、研究会などの案内がたびたび送られてきます。それは主に「身体的苦痛」、「社会的苦痛」、「精神的苦痛」などへの対処の仕方がテーマです。それはそれで大切で意義深いことです。私の知人は、優しかった父親が癌の末期の痛みで、病棟中に響きわたる苦痛の叫びをあげて亡くなったと、無念の思いを語っていました。「肉体の痛み」の緩和がなければ、人はその苦痛で押しつぶされてしまいます。ですから苦痛を軽減する医学上の技術的な問題は重要です。諸外国で広く行われていたモルヒネなどによる肉体的痛みのコントロールは、かつてはごく一部の医療機関でしか行われていませんでしたが、終末医療や緩和ケアの重要性が認識されるにつれて、その手法が普及してきました。「社会的苦痛」、「精神的苦痛」へのチーム医療や具体的な支援も大切で、それもビハーラ活動の担うべき課題であることは当然です。

 しかし宗教を背景にもたない一般社会の医療活動には、死を受容し死を超える明確な視点がありません。死は敗北としか見なされませんから延命第一の治療となります。現代の医療活動が直面している矛盾や課題の大きな一つの原因がここにあると思います。

 では、私たち医療に関わるものがビハーラ活動をする意義はどこにあるのでしょうか。

 「ビハーラ医療団」設立の「趣旨」には、《我々、仏教を学んできた医療関係者は「ビハーラ医療団」を結成し、それぞれの場で、仏教精神にたって医療活動を行い、自ら学び、人をして教え信ぜしめるという「自信教人信」の立場で聞法し、交流、協力して社会に貢献していきたい。》とあります。医療活動の一部として仏教精神が必要だというのではなく、仏教精神にたって医療活動を行うという大切な視点が明快に述べられています。その指摘の重要性を考えてみます。

 人間の苦痛を「トータルペイン(全人的苦痛)」ととらえるのはいいのですが、「スピリチュアルな苦痛」を他の「身体的苦痛」、「社会的苦痛」、「精神的苦痛」と同じレベルで並列的に考える姿勢に、私は疑問を感じてきました。並列的に考えると「スピリチュアルな苦痛」への対処が、医療を円滑にするための一手段になってしまいます。しかしこれでは、生老病死にかかわる大事な活動が、患者や医療者が自身を問う課題になりません。「スピリチュアルな苦痛」は、人間が生きていく上でもっとも根源的、宗教•仏教の課題です。

 先に話しました「活」と「生」という視点で言えば、「身体的苦痛」、「社会的苦痛」、「精神的苦痛」を軽減する手法は「活」の問題です。「スピリチュアルな苦痛」は「生」の問題です。「活」と「生」は、どちらも重要ですが、質の違う問題です。私たちの「活」は、「生」を背景としてはじめて、その十全なる働きを持つようになります。つまり「生死を超える」という仏教の根幹をなす視点の中で、医療活動は行われるべきであるということです。


国破れて・・・・、共にお念仏を  

 東日本大震災や原発の被害にあわれた方々の姿を見ると心が痛みます。私に何が出来るのでしょうか。震災後、多くの方々の物資の援助、ボランティア活動、スポーツイベントやコンサート活動などが行われ、震災に会われた方々の大きな支えとなりました。いつの時代でも人の心の温もりは生きるための勇気を与えます。援助する側も援助される側も、多くは「活」に関わる問題で向き合っています。

 しかし、連れ合いや子供や身内などを亡くした深い悲しみや喪失感は、衣食住の援助などの「活」の充足だけでは解決しないことは確かです。人々の抱える深い苦悩、スピリチュアルな苦痛はどうすれば乗り越えられるのでしょうか。こうした「生」の課題の重要性を、ビハーラ活動に関わる私たちは見落としてはならないでしょう。

 私が沖縄に生まれたこととも関係するのですが、東日本大震災で苦悩をされている人々の姿と、戦争を体験した沖縄の人々の姿が重なって見えました。津波が去ったあとの光景は、沖縄の戦後の景色そのものでした。「国破れて山河あり」と言いますが、どちらも残された姿は「山河なし」でした。凄まじい砲弾で沖縄の姿かたちが変わり、人々は逃げ場を失い、延べ約二十万人の人が亡くなりました。ほんの数カ月の間に、当時の沖縄県民の四分の一が亡くなったのです。「戦争は人間を悪魔に変える。二度と戦争だけはしてはならない」と、戦場を体験した人が涙ながら語っていました。二度と戦争をおこしてはなりません。

 地獄のような地上戦を体験し、何の援助もないまま戦後を生きのびてきた沖縄の人々は、今でも深い心の傷を抱えています。東日本大震災後の多くの人々の苦難と深い悲しみに通ずるものがあります。それはスピリチュアルな悲しみ•苦痛と表現していいでしょう。それに私たちはどう向き合えばいいのでしょうか。

 思い出されるのは、『口伝鈔』の一節です。『口伝鈔』は本願寺三世覚如上人の著書で、本願寺二世如信上人から口伝えに聞いていた親鸞聖人の言行二十一ヵ条を弟子乗専に口授して筆記させた書だと言われています。その十七条「凡夫として毎事勇猛のふるまい、みな虚仮たる事」に、私が人生に向き合う上で大切にしてきた言葉があります。

 親鸞聖人が生きておられた当時、世間一般では、死んでゆく者が愛着に引かれて悪道におちないように、妻子や親族などを臨終のそばに近づけたり見せたりしてはならないと、引き離す習慣があったようです。しかしどんなに引き離して近づけなくしても、「たもつところの他力の仏法なくは、なにをもってか生死を出離せん。」とあります。現代語訳すると、「死んでゆくものが、他力の仏法を心に深くたもつことがなければ、なにによって生死の迷いを離れることができようか。」となります。

 震災に遭われ、スピリチュアルな悲しみ•苦痛に直面している人々に、どう向き合うべきなのかを考えるとき、私も又、『口伝鈔』の指摘するように「他力の仏法を心に深くたもつ」ということでしか、最終的にはスピリチュアルな悲しみ•苦痛、生死の問題は超えられないと考えています。浄土真宗をいただく私たちが「お念仏」を届けなくて誰が他力の仏法を伝えるのでしょうか。
 
 誤解をしないでほしいですが、衣食住などの「活」の援助に意味がないと言っているのではありません。「生」の課題が明確になったとき初めて、「活」は「活」としての十分な役割をなすということです。多くの方々がボランティアに行き援助の手を差し伸べることは大切ですが、さらに私たちは、「たもつところの他力の仏法なくは、なにをもってか生死を出離せん。」という親鸞聖人のことばをこころに深く刻み込んで、「活」にも手をさしのべながら、震災で苦悩している人々と共にお念仏の世界を歩みたいものです。

 しかし、我が身可愛さでしか生きてない煩悩具足の私たち凡夫に、どのようにして「他力の仏法を心に深くたもつことが、生死の迷いを離れる」ことが可能となるのでしょうか。そのことを、少し視点をかえて考えてみます。


阿弥陀仏は二枚舌を使いません  

 沖縄のうるま市で小児科医院をやっています。近くにキャンプコートニーというアメリカ合衆国海兵隊の大きな基地があり、アメリカ軍の兵士が沖縄の女性と結婚し、近くに住んでいます。GIカットの若い兵士が、時どき子どもを連れてきます。これまでベトナム戦争、湾岸戦争、あるいはイラクの戦争へ行く兵士を間近で見てきました。まだ二十歳過ぎぐらいの若い兵士が、死と隣り合わせの戦場へ行きました。心が痛みます。

 アメリカ人は非常に気さくです。目があうとにっこりし、気軽に話しかけます。アメリカ人は決して嫌いではないのですが、アメリカという国は好きではありません。自分たちが持つ経済力や軍事力を背景にして、ほかの国の資源や土地を支配下に置こうとしています。これはまさしく覇権主義です。その姿勢はダブルスタンダード(二重基準)です。自分たちのやることはいいけれども、ほかの国が同じことをしたら駄目だと。情報公開は大切だと言いながら、自分たちの情報は隠し、自分たちのためになるあらゆる情報を世界中で盗聴しています。民主主義を標榜しながら、他国の主権を侵害して無人飛行機を飛ばし、殺りくを繰り返しています。自国の人が数十人亡くなったら大騒ぎするけれども、ほかの国で数千人も亡くなったとしても平気です。ベトナム戦争、アフガンの戦争、イラクの戦争など、まだ記憶に新しいところです。

 北朝鮮には核兵器を持つなと言います。当然、核兵器は廃絶すべきです。しかし、アメリカは核兵器を何千発も持っています。相手に核兵器を持つなと言うのであれば、自分たちの核兵器廃絶を先に言わないといけないはずです。歴史的な背景から核兵器を持っているのであれば、まず自分たちの立場を謝らなければならないでしょう。自分たちには許されるけれども相手には駄目というのは傲慢で、論理の筋として通らないことです。これはダブルスタンダードです。

 ダブルスタンダードを仏教で表現すれば「二枚舌」でしょうか。その「二枚舌」には思い出があります。

 病院から三百メートルほど離れたところに保育園があります。そこの園医をしていて、年に二回ほど健診に行きます。その保育園の園児たちは、ほとんどが「しげま小児科医院」の患者さんです。

 あるとき、女の子のハユちゃんが診察室に、大きい声で

 「先生、先生、きょう豆まきがあったよ」

と話しながら入ってきました。

 「どうだった?」

と聞くと、

 「『福は内、鬼は外』だよ。保育園の先生から閻魔(えんま)さんのお話をきいたよ」

と。

 「どんなお話だったの」

と聞くと、

 「嘘をつくと、閻魔さんに舌を抜かれるんだって。」

 とっさに私は、

 「そうだよ、先生の舌はもうないよ。」

 と言ってしまいました。

 ハユちゃんは何のことかわからず、ハユちゃんを連れてきたおばあちゃんは戸惑い、介助の職員はあきれた顔。

 すぐに、

 「大丈夫、閻魔さんに舌抜かれても、すぐに生えてくるよ。」

と言い直したのですが、事態をますます混乱させてしまいました。

 私に現在、舌があることからすると、閻魔さんに舌を抜かれてもすぐに生えてくるのは間違いなさそうです。私たちは、二枚舌では足りなくて十枚舌をうまく使い分けているかもしれません。

 その後、この二枚舌のことについて、気になったので調べてみました。戦争中にイギリスは、自分の都合のいいようにあちらこちらと条約を結んだので「三枚舌外交」と揶揄されていたようです

 しかし、ダブルスタンダードはアメリカだけかというと違います。ヨーロッパ、中国、北朝鮮、韓国、日本もふくめた世界中の全ての国がダブルスタンダードです。悲しいかな、それは私たち人間の業(ごう)のなせるわざです。

 ダブルスタンダード•二枚舌は、人間の「分別」「計らい」から生じます。つまり、計らってしか生きられない人間の性(さが)に根ざしています。口で平等と言いながら、自分の立場、相手との関係で態度を変え、言葉を使い分けます。その二枚舌花盛りの世界を、仏教では「世間」「穢土」「娑婆」と言います。「活」の世界を形作っているのは、ダブルスタンダードだということです。

 ダブルスタンダード(二重基準)に対してシングルスタンダード(単一基準)という言葉があります。仏教では使われることのない言葉ですが、ものごとの本質を言い当てるなかなか鋭い言葉です。

 ダブルスタンダードが二枚舌なら、シングルスタンダードは一枚舌です。シングルスタンダード•一枚舌とは「無分別」、つまり「計らいなし」ということです。計らってしか生きていけない煩悩具足の人間には、シングルスタンダード•一枚舌は不可能なことです。

 ダブルスタンダードの世界は「穢土」、シングルスタンダードの世界は「浄土」と表現していいでしょう。「浄土」をつくられた阿弥陀仏は、二枚舌を使いません。シングルスタンダード•一枚舌です。生きとし生けるものに平等に対応します。悪人だろうと善人だろうと、金持ちだろうと貧乏人だろうと差別しません、無視しません、排除しません。

 そのことを『浄土和讃』には、「摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」とあります。「摂取して捨てない」とは「摂取不捨」ということですが、この言葉ばの深い意味を、私は長いこと気づきませんでした。阿弥陀仏が摂取して決して捨てないことが、「如来の大慈悲」です。

 ひるがえって「穢土」の住人である私たちはどうでしょうか。私たちは自分の意にそうものは愛するが、そうでないものは差別し、無視し、排除します。いったんは摂取しても、気に入らなければ夫婦だろうと子どもだろうと友人だろうと捨て去ります。人間の愛は自己中心の我愛、捨てる愛です。

 それに比べて阿弥陀仏の「摂取不捨」とは、なんとすごいことでしょう。その阿弥陀仏に私たちは、「摂取不捨」されて生きています。生きとし生けるものすべてが、仏のいのちを生きています。しかし人間は、その賜った仏のいのちを、「俺のいのち」と私有化し自分の我執で汚して生きています。

 私たちは仏法に遇って、「このいのちは、阿弥陀のいのち」だと教えられ、自分自身の計らいでつくった世界を超えた、大きな真実のいのち「無量寿」を生かされていることに目が覚めます。『口伝鈔』の「たもつところの他力の仏法なくは、なにをもってか生死を出離せん」とは、阿弥陀仏の「摂取不捨」のなかを生かされているという目覚めなくして人間の救いは成立しないということでしょう。


南無して生きる人生   

 「南無阿弥陀仏」とは、「おまえ、ダブルスタンダードでは生きていけないだろう、シングルスタンダードの大きな世界がおまえを支えているのだよ。それに南無して生きなさい」との、私たちへの阿弥陀仏の呼びかけです。「厭離穢土•欣求浄土」とは、「活」だけで成り立つ穢土の姿に目覚めたものが、「生」の世界つまり浄土を求め、浄土を根拠に生きる人生を開くことの表現でしょう。人間にとっての救いとは、決してダブルスタンダードがなくなることではなく、阿弥陀仏の呼びかけに呼応して生きる道が開かれることです。

 仏教を聴きはじめた頃、いずれ自分の煩悩がなくなってスッキリと仏道が成就すると思っていました。ですから住岡夜晃(やこう)先生の「昨日も悪く、今日も悪く、また明日も悪い」という言葉は、まったく意味不明な言葉でした。昨日も、今日も、うまくいかなかったことは理解できる、しかし明日はよくなろうと思って仏教を聴いているのに、明日もまた悪いとは、何と浄土真宗の教えは支離滅裂かと思いました。

 自分の煩悩を取り払って楽になりたいと聴き始めた仏教でしたが、聴けば聴くほど煩悩の姿の自分があらわになり重荷になり、聴かなかった昔が楽だったと何度ため息したことでしょう。

 しかし、今は深くうなずける教えです。自分のなかに煩悩があると思っていましたが、煩悩に名前を付けて、それを「私(わたし)」と言っているだけでした。煩悩100%です。別な言葉で表現すれば、私のなかに闇があると思っていましたが、私そのものが闇でした。これは仏法を聴くことによって、はじめて見ることのできた闇でした。私たち煩悩具足の凡夫は、死ぬまで「昨日も悪く、今日も悪く、また明日も悪い」という身しか生きていません。しかしその私を摂取して決して捨てない阿弥陀仏はましますのです。その阿弥陀仏に南無して生きる人生、それが煩悩具足の凡夫に唯一可能な救われる道でした。それを「現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)」というのでしょう。

 ここにはじめて、私が仏法を聴き続けることが出来る道が開かれました。ダブルスタンダードの私が、シングルスタンダーの阿弥陀仏に南無して生きる道です。他力に生かされる「ただ念仏」の道です。

 そのことを、日頃、私が愛読している梯實圓先生の言葉をとおして、確認したいと思います。ご紹介します。

 死ぬるまで愛と憎しみの煩悩に翻弄されながら、生に迷い、死におびえつづける愚悪の身に、罪業はどれほど重くとも、「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」と誓約された阿弥陀仏の救いがあるということを告げたもうている『大経』こそ、末法の世に生きるわが身の救われる「時機純熟の真教」であると仰いでいかれたのが親鸞聖人であった。それも疑い深い私に疑いをあらせまいとして釈尊のみならず十方の諸仏が讃嘆し、証明していたもうている「十方称讃の誠言」であって、諸仏の本意にかなった経典とたたえていかれたのであった。(梯實圓著『教行信証の宗教構造』)

 「たもつところの他力の仏法なくは、なにをもってか生死を出離せん。」(『口伝鈔』)とありましたが、親鸞聖人は『教行信証』信巻に「他力というは、如来の本願力なり。」と記しています。梯實圓先生が述べられているように、「他力の仏法」で凡夫が救われるとは、「本願を信じ、念仏もうさば仏になる」との仰せをいただくことでした。

 人間は、日夜、善悪さまざまなおこないをしながら生きている。しかし、その身のふるまいも、言葉のいとなみも、心に思うことも、三業のすべてが自己中心的な想念に支配されていて、つねに愛と憎しみの煩悩のうずをまき、利害、損得の打算がつきまとうている。それゆえたとえそれが善なるおこないであっても「雑毒の善」であり「虚仮の行」にすぎないと親鸞聖人は断言していかれた。それは人生への断念を迫る悲痛な言葉であった。(梯實圓著『教行信証の宗教構造』)

 親鸞聖人は、自我を根拠にした人間の行為は「雑毒の善」「虚仮の行」であり、それが私たちに愛と憎しみをもたらしていると述べています。それは、「活」だけを追い求める利益中心主義の現代社会は、闇であるとの悲痛な指摘であります。

 人はみなより善き状態をもとめて日夜つとめているつもりである。自他を不幸におとしめるような悪行をやめて、自他ともに安らかな、穏やかな充実した状態をもたらすような善行につとめねばならない。それが「人」であることのあかしなのである。それなのに悪はもちろん善にさえ、自己中心的な想念の毒が雑わっているというのである。自分と、そして自分を中心とした集団の利益のみを追求して、損失は他者に及ぼそうとするならば、善と正義の名において争いを生み、互いに相克する修羅の巷を出現させていくことになろう。こうした雑毒の善・虚仮の行は、人生をほんとうに充実させ、愛憎と生死を超えた真実の安らぎをもたらすものではない。(梯實圓著『教行信証の宗教構造』)

 「自分を中心とした集団の利益のみを追求して、損失は他者に及ぼそうとするならば、善と正義の名において争いを生み、互いに相克する修羅の巷を出現させていく」という指摘は、私たちが現に生きるこの社会の姿です。

 『歎異抄』の後序に、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします。」
という親鸞聖人のご述懐が記されている。煩悩具足の凡夫とは、知らず知らずのうちに自分の都合を中心にして、是非・善悪の価値体系をつくりあげていくものである。自分に都合のいい、役に立つものだけを是として愛し、自分に都合の悪いものを非として憎み、敵と味方をつくり、われも人もともに深い傷を心にきざみこみながら生涯を送っている。誰しもみな、一生懸命に生きていながら、ふりかえってみると、むなしい後悔と怨念だけが残るような人生であるとすれば「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」としかいいようがないであろう。
 こうした自己中心的な想念によってえがき出した虚構の世界を虚構と知らせ、私の妄念煩悩の彼方に、きらめくような真実の「いのち」の領域のあることをよびさますものが、本願の声としての南無阿弥陀仏であった。念仏は愛憎の悩みを転じて仏徳を味わう縁とし、そらごと、たわごとの人生を、仏法の真実を確認していく道場といただくような心を私のうえに開いていく。そのことを「ただ念仏のみぞまことにておはします」といわれたのである。念仏は、うその人生をほんものに変えてい
くものであった。(梯實圓著『教行信証の宗教構造』)

 『歎異抄』の後序の「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」とは「活」の世界の姿です。そして「パンを食べても死ぬ」という「生」の課題への答が「ただ念仏のみぞまことにておはします。」です。
「如来のまなざし」によって照らし出され、強固な「活」至上主義の洗脳•マインドコントロールが解け、人間の迷いが超えられたときに初めてうなずける世界です。

 「生死を超える道としてのビハーラ活動」を支える背景を考えてみました。

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