浄土真宗

「生死を超えて」

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「生死を超えて」

           2011年(H23) ビハーラ研修会 in 長浜   志慶真文雄

生死の問題から  

 皆さん、おはようございます。沖縄で小児科医院を開業している志慶真と申します。田代先生に声を掛けていただいてから約13年間、このビハーラ医療団の研修会に参加しています。

 18年前に病院の2階に聞法道場をつくり、現在月1回の仏教講演会、月2回の仏教読書会などを開催し、週末は仏教の活動に当てています。こうした活動をするには個人的な動機があります。私がビハーラ活動に参加していることとも関係がありますので、その話しから始めます。

 私は戦後間もない昭和23年、沖縄に生まれました。10歳のある日、夜空を見上げているとき、突然、自分がこの地上から消えてしまうという恐怖感に襲われ、それまでは遊びほうけていたのですが、その日を境に生きていくのがつらくなりました。死のことが頭からはなれず誰か助けてくれ、何とかしてくれという悲鳴、叫びのようなものを感じながら、小学校、中学校、高校、大学と過ごしてきました。ずっと生死の問題が、自分のなかの最大の課題でした。

 高校を卒業して、内地留学という制度で愛媛大学工学部に入学しました。大学時代は、死ぬことを考えるとむなしくやりきれなくて自虐的な生活をしていました。生きるのがむなしいのは死ぬからだと思っていました。しかしある日、もし千年、二千年、いや永遠に死なないとしたらむなしさを感じないで生きていけるかと問うたとき、生きる意味を見出せないまま、今のような状態で永遠に生きるとしたら、それこそ生き地獄だと思いました。

 死ぬのも確かにむなしいけれども、今を生ききれないことが自分の最大の問題だと初めて気づきました。今から思えばこれはとても大切な気づきでした。しかし、ではどうしたら今を生ききれるのか、どうしたら生きてよかったと言える世界が開かれるのかは分からないままでした。

 人間もいずれ死にます。人類だって、未来永劫、永遠に存在するわけではなくいずれは絶滅します。そうであるならば、私たちが生きている意味とはいったい何だろうか。自分に死があっても、人類が滅亡するにしても、なおかつ生きてよかったと言える世界が本当に開かれるのだろうか。それがないのならば、生きることはむなしいことではないのか。ずっと、そのようなことを考えながら生きてきました。

 小さいころから、夜空を見上げることがとても好きでした。また、ものがあることの不可思議さを一日中考えても退屈しませんでした。どうせ死んでしまうのであれば、宇宙とか、ものがあることの不可思議さの一端でも知って死んでいきたいとの思いが、特に大学に進学してからつのってきました。それで進路を変更して天文学や素粒子物理学を勉強したいと、大学側と理学部物理学科への転学部試験を交渉したのですが、沖縄から別枠で入学しているから転学部は認められないと言われました。進路変更の望みも断たれ、これからどうすればいいのか不安な毎日で、眠れない夜はアルコールを飲みながら物理の本をむさぼるように読んで過ごしました。

 大学卒業を前にして、熱が出て咳が止まらず病院に行くと、肺炎と栄養失調ですぐに入院させられました。激しく咳き込みながら、生きる意味のない人生ならこのまま死んでもいいとの思いもありましたが、ふと小さいころから私を可愛がってくれた祖母を思い出しました。私がいなくなったらどんなにか悲嘆にくれるだろうかと思ったとき、年老いた祖母の姿が浮かんできて涙がこぼれました。「ああ、こういう生き方では駄目だ、もう一回やり直してみよう」と思いました。

 祖母の温かいまなざしがなかったら、きっと私は投げやりな生き方をしていたに違いありません。常に温かいまなざしを注いでくれる人がいるということが、人に生きて行く勇気を与えることを、私は実感しています。


物理学から医学、そして仏教へ  

 大学を卒業してから物理の勉強をするため浪人しました。
 翌年、幸運にも広島大学大学院の素粒子物理実験研究室に合格しました。本格的に素粒子物理が勉強できる嬉しさに、今までの苦悩をすべて忘れるような思いで朝から晩まで寝る間を惜しんで素粒子研究に没頭し、修士論文を書き上げ、博士課程に進学しました。

 博士課程に進学するときに結婚しました。熊本の実家で浄土真宗の話を聞いていた妻に、広島大学会館で細川巌先生(福岡教育大名誉教授)の「歎異抄の会」があるから一緒に行こうと誘われました。しかし、今の日本の世俗化した葬式仏教で、私の生死の問題が解決するとは思えないからと断りました。
 
 博士課程に進学して数年が経過した頃、教授にある国立大学への就職を勧められました。本来なら飛び上がって喜ぶべき話しでしたが、私は再び迷いました。その頃、素粒子の研究に専念しても、生死の問題・死んでゆくむなしさは消えなく、生活の一手段として研究を続けていく事に限界と不安を感じ初めていました。就職すればおそらく研究者で生涯を送る事になる。競争の激しい研究の世界で、そのまま研究者になるか断念するか、一気に岐路に立たされました。状況からしてゆっくり考える猶予はありませんでした。素粒子の研究に興味は尽きなかったのですが、一番の課題である生死の問題の解決を図れないことがはっきりしたまま、研究者になることは精神的に無理で、就職を断り博士課程を退学しました。

 あれほど憧れた素粒子研究でも、生死の問題は超えられなかったとの挫折感は深く、もう行くべき道は絶えたとの思いでした。

 大学院を退学し生活環境は一変しました。これまでの生き方の延長線上に生死の問題の解決はないことは身にしみていました。ただ、むなしいとしか思えなかった人生において、ひとつ、むなしいとは思えないことがありました。沖縄で私の帰りを待っている祖母のことを思うと熱いものがこみ上げてきました。人と人との温かい触れ合いこそが、人生のむなしさを超える道ではないかと思っていたとき、私のことを心配した友人、知人が医学部進学を勧めてくれました。

 大学院時代から生活の為に予備校で物理の非常勤講師をしていましたので、医学部受験がいかに合格の当てのない無謀な挑戦であるかよくわかっていました。しかも、もう28歳でした。しかし迷った末、「祖母のいる沖縄に帰ろう!」との一念で医学部受験を決意しました。5年が経過して32歳で広島大学医学部に合格しました。出口の見えない孤独な期間でしたが、今から振り返れば原始仏典をはじめ龍樹の書物など沢山の仏教関係の書物を読む機会に恵まれた貴重な期間で、仏教に対する頑な私の心も少しずつほぐれていきました。

 合格発表があったその日に、初めて「歎異抄の会」に参加しました。妻に「歎異抄の会」に誘われてから7年が経過していました。その『歎異抄』との出会いは、私の人生の大きな転機となりました。「生死の問題・死んでゆくむなしさが超えられないのは、あなた自身が問題だからではないのか」と、私は『歎異抄』から問いを突きつけられました。今まではあれもダメ、これもダメと自分以外の対象を問題にして生きてきましたが、初めて自分自身が問題だと気づきました。それがきっかけで浄土真宗の話を聴くようになりました。


沖縄での模索と出発  

 広島で6年ほど必死に聞法をして、何とかなると思いながら沖縄に帰ってきました。しかし仏法を聴ける場所も人もなく、しかも祖先崇拝がしきたりになっている生活環境の中で、浄土真宗の念仏、他力、本願、浄土などをどう受け取ればいいのか、すぐに行きづまってしまいました。自分が問題だというのはよく分かっていましたので、聴かなかった昔には戻れません。かといって前にも進めず、現状にもとどまれず、道標もない荒野の中に放り出された心境で、全く仏教のことが語れなくなりました。

 32歳で医学部に入学し、38歳で医者になりました。医者としてのスタートが遅いので、意識的に麻酔科や救急外来など少しハードな病院研修を受けました。その忙しい生活のため、すっかり私が仏教を忘れてしまったと妻は思ったらしいのですが、実は口に出せないくらい悶々としていたのです。解決を求めて、親鸞の流罪になった越後もひとりで訪ねてみました。

 身動きひとつできずにいたとき繰り返し聞こえてきたのは、広島を去るとき先輩が私にかけたひとつのことばでした。「志慶眞君、沖縄の厳しい現実の中でわかるまで聞きぬいてくれ」。このことばがよみがえる度に、何とかしなければと思いました。

 沖縄に帰って5年目、小児科医院を開業することになったとき、2階に40〜50人ほどが入れる聞法道場を作る決断をしました。経営の厳しい小児科医院ではリスクが大きすぎると知人に忠告されましたが計画を実行しました。これから10年間聞法してわからなければ、親鸞の教えは自分には届かない教えだからやめるつもりでした。

 しかし開院翌年、予期しない出来事がありました。ある日、共に親鸞の教えを聴いてきた先輩の関真和先生(小学校教師・56歳)が、癌で亡くなる1か月前、師の細川巌先生に書かれた手紙と返書が送られてきました。生死の問題で行きづまっていた私は、この往復書簡に衝撃を受けました。

 関先生の手紙。

 「合掌 細川先生、長い間ありがとうございました。…仏法にあわせていただき、大きな世界のあることを知らせていただきました。…お念仏『南無阿弥陀仏』をいただいた故に、生きることができ、お念仏いただいた故に死んでいけます。もし、お念仏におあいしていなかったら、今ごろこのベッドの上でのたうちまわっていると思います。肉体的にはたいへんきついです。すわるのもちょっとの時間しかできないくらいです。でも、心は平安です。…先生、本当にすばらしい人生をたまわりましてありがとうございました。最後の一呼吸までは生きるための努力を続けます。…平成5年6月24日 関真和」

 この手紙に、同じように癌を患っていた細川先生がすぐに返事を書かれました。

 「関君、いよいよ大事な時になったなあ。…慰めようもない。南無阿弥陀仏。南無阿弥陀仏におあいできて本当によかった。これが人生のすべてであった。私は昨年12月以来入院して、このことをいよいよ知った。君も同じだと思う。…死ぬも南無阿弥陀仏、生きるも南無阿弥陀仏ただこのこと一つ。…私の方が先に浄土に行っていると思ったが、君が先かもしれぬ。しかし、後も先もない。皆、南無阿弥陀仏を生きてゆくほか道はありえない。よかった、よかった。君の人生。…6月26日 細川 巌」

 診察室のイスに座ったまま涙があふれて止まりませんでした。その涙によって、10歳の時からむなしくて生ききれない、死にきれないと苦しんだ私の我執の喘ぎは洗い流され、初めて私を生かしている根源のいのち(南無阿弥陀仏)に触れたような感動をおぼえました。「ああ、そういうことだったのか」と。


人生の二つの課題  

 その往復書簡に触れた平成5年以後、私は仏教の課題、釈尊や親鸞の歩みを身に引き当てて考えるようになりました。10歳の死の恐怖の体験、生ききれない死にきれない苦悩の日々、素粒子研究の挫折、医学部への再入学など、私の何が問題であったのか少しずつ明らかになってきました。

 私たちの人生には、生活の「生」と「活」という二つの課題があります。「活」はどのようにしてパンを手に入れるかという問題で衣食住に関係しますが、「どうせ死んでしまうのにパンを食べるのにどんな意味があるの」とは、生きることや死ぬことの意味を問う「生」の問題です。その「生」の問題に正面から取り組んだのが釈尊や親鸞でした。私が長年苦しんできたのは、まさしくその「生」の問題だったのです。

 「生」の問題は、人生に決定的影響を及ぼす大事なことです。しかし、人々は「活」の問題は一生懸命ですが、必ずしも「生」の問題は問いません。もちろん「活」の問題も大切です。では人はパンが十分に得られたとき、あるいは富を一挙に手に入れたとき、「さあ次は生きる意味を問題にするぞ」となるかと言うとそうはならない。さらに際限なくパンを欲しがるのが常です。むしろ地震、災害、飢饉、疫病などで十分にパンが得られなかった苦難の時代こそ、人々は生きることや死ぬことの意味を深く真剣に問うたとも言えます。例えば法然・親鸞の時代のように。いつの時代も、「生」の問題を考えるのは重要な事です。

 「人間は必ず死ぬ。人類もいずれ滅びる。そうであるならば生きる希望とは何であるのか。死があってもむなしくないと言える人生は開かれるのか。」こう問うて私は生きてきました。その問いへの答がない人生は、何をしてもむなしい人生にしか思えませんでした。仏法に出会って、その不安な日暮らしの根底には人間の深い闇が横たわっていることを知らされました。私たちは生まれながらに自己中心の物の考え方、偏見と独断で生きていて、道理を無視して富に、名誉利欲に、悦楽に、自分自身に執着して生きています。そのため、自分を生かしている根源の命を見失い苦悩しています。

 生きること死ぬことを主体的に問うのが宗教です。いわゆる「生」の問題です。宗教に人が関心をもつきっかけは、罪を犯してしまった時、無常を感じた時、さらに人間関係でつまずいた時、愛情が失われ苦悩した時、健康が損なわれ不安に襲われた時、死を垣間見て孤独感と喪失感に愕然とした時などでしょう。私も大学時代、どうせ死ぬなら生きることは無意味だとしか思えず、このまま死んでもいいやと投げやりになり、心が合わさらないで眠れず、東の空が明るくなってくるのを見るのはとてもつらいものでした。

 世間では、弱い人が苦しさから逃れる為に宗教に入ったと言います。たしかに苦しさがきっかけかもしれませんが、釈尊や親鸞の伝えようとした仏教は「宗教に入る」でなく「宗教に出る」と言う表現が適切です。人間のエゴの作り出す矛盾と苦悩に満ちた偽りの狭い世間から、本来のいのちが輝く真実の広い世界に出るのですから。そのことを親鸞は往生浄土と表現しました。

 「活」と「生」は密接に関係しどちらも大切ですが、質的に次元が異なる問題です。「活」で「生」の根本的解決はできません。生きる意味を問う「生」の問題を、私は素粒子研究という「活」の問題で解決をはかろうとしていたのです。長いことそのことに気づかず、「活」を充実させることで「生」の課題を乗り越えようと不安で眠れない夜を重ねてきました。私が素粒子研究に向かう姿勢が間違っていました。今から思えば、行きづまるべくして行きづまった研究生活とも言えます。

 どの人にも必ず死がおとずれます。その事実とどう向き合えばいいのでしょうか。地位も名誉も財産もないよりあったほうがいいでしょう。しかし釈尊がそうであったように、ないよりあったほうがいいという相対的なものでは生死は超えられないのです。是非ともなければならないものでしか生死は超えられない。死があってもなおかつむなしくないと言える根源的世界への目覚め、生と死を貫く絶対的真実への確かなうなずきがなければ生死の苦しみは超えられない。つまり、私たちがひとりぼっちの孤独から救われるのは、〈永遠のいのち〉の通ったわがいのちであると知らされた時です。それこそが「生」の課題が明らかにする世界です。

 いつの時代も、「どうせ死んでしまうのに生きるのにどんな意味があるの」という「生」のテーマは、大人にも、もちろん子供達にも重要な課題です。しかし、家庭や学校や社会で、ほとんど問われることなく素通りと言っていいでしょう。それで、生死の問題で苦悩している人々と「生」の問題を考える場として、仏教講演会や読書会を開催してきました。


謝花勝一さんとの出遇い  

 この活動の中で出遇い、2008年12月、52歳で亡くなられた友人の謝花勝一(じゃはなかついち)さんを紹介したいと思います。

 謝花さんは、『ウシ国沖縄・闘牛物語』、『サシバ日和』(「おきなわ文庫」)の著者で、沖縄タイムスの新聞記者でした。37歳で癌を患い大きな手術をされ、それから10年後に、もう一度大きな病気をされ、闘病生活は16年間にも及びました。

 2004年に、私がNHKの「こころの時代」に出演し、金光寿郎さんと対談をした放送を聴かれたことがきっかけで、闘病生活14年目のとき奥さんと一緒に仏教講演会にこられました。そのころはやせ細り、黄疸が出て顔色が悪く、今にも倒れるのではないかとおもわれるほど、体調はよくありませんでした。「行き詰まって、キリスト教の教会に行くことも考えたのですが、先生の話をラジオで聞いたのを思い出して来ました」と奥さんが話されました。それが勝一さんとの初めての出遇いでした。
 
 それから勝一さんは聞法を始めました。1年、2年と経過し、次第に体調も顔色もよくなっていましたので、私は病気は快復に向かっていると思っていました。

 しかしある日、突然、奥さんから

 「先生、勝一が会いたがっているのですけど来ていただけますか」

と、いう電話がありました。私は飛んで行きました。

 いつも、「これから一緒に仏教のいろいろなことをやっていこうね」と語り合っていたのですが、容体が急変したようです。

 自宅に伺うと意識がもうろうとした状態でした。ときどき意識が元に戻ります。そのときに奥さんが、

 「先生が来られたよ」

と声をかけると、かすかに目を開けました。

 しばらく手を握って、

 「勝一さん、お念仏に遇えてよかったね」

と言うと、うなずかれました。しばらくして、

 「先生、思いどおりにならなくて……」

と言われ、それからまた意識が遠のいていきました。

 しかし、翌日は意識もはっきりし自分でトイレに行くほどで、このまま快復しますようにと祈るような気持で、毎日会いに行きました。しかし、残念ながら勝一さんは、数日してお亡くなりになりました。仏教に出会って足かけ3年目でした。

 勝一さんが仏教を学んだ大学ノートが16冊、自分でつくった日めくり仏教カレンダーが残されました。また、亡くなった後で机の引き出しから遺書も見つかりました。奥さんに見せていただいたところ、その遺書は仏教講演会に参加するようになってしばらくして書かれたものでした。

 「まだ自分は仏教のことはよく分からないけれども、ここに何か自分が聴いていかなければいけない世界があるような気がする。いつまで生きられるか分からないけれど、自分の生涯をかけてこの話を聞いてみたい」

と、命がけで聞法を始めるとの内容でした。

 後日、奥さんが勝一さんの全部のノートをきれいに風呂敷に包み、

 「先生、どうぞ見てください」

と持ってきました。そのノートをしばらくお借りして見せてもらいました。

 勝一さんは、聞法して2年目ぐらいから講演会とか読書会の後で、自分の気持ちを書いた手紙を私に送ってきました。

 ご家族のプライベートなことに触れる内容もあるので、ご迷惑をかけては申し訳ないと、勝一さん亡き後もその手紙の内容を他の人に話すことはありませんでした。約2年が経過して、私が琉球新報のコラムを半年ほど担当することになったので、思い切って奥さんに、

 「勝一さんのことを、新聞に書いてもいいですか」

とお尋ねしました。

 「先生、きっと喜ぶと思いますから書いてください」

と、快く賛同してくれました。長い間苦しまれた勝一さんが、仏教を聴き始めてどんどん変わっていく姿を間近に見ておられた奥さんの温かいことばでした。


勝一さんからのお手紙  

 勝一さんの手紙を読み返すたびに、私はいつも勇気づけられます。きっとビハーラにかかわっている皆さんにとっても心に響くところがあるだろうと思いますので、その手紙の一部を紹介したいと思います。

 2007年2月11日のお手紙には、

 「私は4年前の2度目の術後、体調不良、体調不安定で休職中です。体力と再発した病体を考えると、このままリタイアとなりそうです。妻とは専業主夫でもいいのではないかと話しています。私に残された時間は予断できませんが、家族、特にわが子が自立して自利利他の精神で周りを生かし、生かされて人生を開いていくことを願っています。そのためにどう関わりサポートしていくかを思案する日々です。」

 新聞記者を辞めないといけないのは、どんなにつらい決断だっただろうかと思います。優秀な新聞記者で意欲的に仕事をされていました。それだけに自分の体を酷使されたのだと思います。親からもらったこの体を痛みつけ粗末にしていた、自分の体に対して本当に申し訳ないということと、病気して今になって家族に心から感謝しているということを、生前よく口にしていました。

 あるとき、少しでも励みになればと大腸がんを手術された方の闘病記をお送りしたところ、手紙を受け取ったその日(2007年2月11日)にすぐ返事を書かれました。

 「私の事情を察してくださってのお気遣い、とてもうれしく感謝しています。ありがとうございます。…闘病記にはじめて目を通しました。…涙が出ました。そうです、私も暴飲暴食の快楽に逃避し、自分の肉体を攻撃してきたのでした。自分の自傷行為を顧みるとき考えさせられます。私も家族を愛し、愛おしく思うのは人後に落ちないつもりですが、思慮が足りなかったのです。私も、私の肉体に謝らなければなりません。今では体を洗うたびに、細くなった手足や見えない器官に『ありがとう』と言い、ねぎらっています。」

 2007年12月15日のお手紙には、

 「1993年5月、37歳のとき消化器系の大きな手術をして苦しみ、反省したものの感傷癖は直らず、酒に逃避、10年後にまた手術するはめに陥りました。本当に愚か者です。田舎者のコンプレックスの裏返しで、新聞記者の現役時代は特ダネをよく拾い、反面、ストレスで心身を消耗していました。プライド(増上慢)、感傷(卑下慢)のせめぎ合いの波浪に自分を見失っていたようでした。…1983年には結婚して家族もできましたが、私は妻に過大な要求を内心抱え続け、彼女への信頼を薄くしていました。いま考えると、夫婦の信頼関係は家族生活の基盤です。体を悪くすることがなかったならば、私は自分の計らいで道を開いてきたと、増上慢はやむことはなかったでしょう。病の身になり、世の不条理を怒り恨んできました。そして、経済的にも家族への貢献が減っていく現実、お荷物的な存在になるばかりだと卑下慢に落ち込んでいく状態でした。
 仏法を学ぶまでは生死の長さだけがこだわりでした。しかし、「大悲無倦常照我」の弥陀の心を知ると、自分の幸運を思わずにはおられません。…2度の大手術に耐え、現在も生きていることなどです。体を壊していなければ、アルコール依存症で人格を崩壊させていたことでしょう。私はもっと深刻な家族への罪を重ねていたのかもしれません。『御仏の御手の只中』『仏からいただき仏に帰るいのち』を深く意識でき、感謝するこのごろです。」

 「大悲無倦常照我」は、勝一さんがいつも口にされていた大好きな言葉でした。

 読書会で、「私たちは明日のため明日のためと、いつも明日のために今のいのちを浪費し、そして過去を悔いて今のいのちをいじめ殺している。これは内なる殺生で、だから今を生ききれない。そういう人生をわれわれは送っているのではないか」という話をしました。それに対して、お手紙(2007年9月17日)を下さいました。

 「先生のもとでの聞法、関連読書を通して、仏法の教え、広い世界に見開かされています。わが身の受難、病苦に自責するばかりでしたが、生まれるのも『自力』でなく『他力』によるもの、広い世界の配慮であること。それなら『死』も同じものであることを教えられ了解しました。心は以前よりは穏やかになりました。家族も私の変化を言い、喜んでいます。
 先生の指摘される、『私どもは明日のために今のいのちを浪費し、過去を悔いて今のいのちをいじめ殺している』という言葉を深く意識し、前向きに考え、歩みたい。振り返れば反省の多い半生でありますが、煩悩と生きる自覚を持ち、大きな世界に深く頭を下げて生きていきたいと思います。」

 また、仏法に出会えたことを心から喜ばれ、2007年10月26日のお手紙には、

 「『不思議』という語が、仏法を学んで好きになりました。誓願不思議、名号不思議。我執は消えず、煩悩止まないわが身ですが、今のいのちを過去への後悔でいじめ殺すことなく、『天命に安んじて、人事を尽く』していきたい。生きるのも如来の御いのち、死ぬのも如来の御いのちであることが、今は深く実感できます。ありがとうございます。」

 2008年4月8日のお手紙には、

 「仏道の導き、ありがとうございます。日常に何度か『南無阿弥陀仏』『大悲無倦常照我』と称え、心穏やかに過ごしています。
 私は年内に休職明け退職となります。定命はそう遠くないところにあると思いますが、それまで弥陀如来の大悲に摂取され、家族をはじめ有縁の方々の生活を少しでも手伝えればと考えています。深く考えれば、今生きていること自体が不思議でありがたいことだと身にしみて思います。
 仏法を学んで一番納得したことは『生死は常に弥陀の御手の中』にあるということ、大きな世界から生まれて大きな世界に還って行くことであり、大きな世界にいだかれている唯我独尊のいのちであるということです。そして『摂取の大悲』、煩悩即涅槃という励まし、二度の大病と病魔を抱え続ける私の苦しみと悲しみはとても柔らいでいます。心を固くすることなく穏やかに家族とも向き合うようになってきました。身に受けた大悲の多さに驚くばかりです。
 『老少不定』という真理。(老少不定──仏教の言葉。年老いた者が早く死ぬ、若い者は長生きするということは定まっていない。いのちをいただいたら誰が先に逝くかは決まっていない。)以前は父母より先に逝くのは親不孝、不条理極まりないと思っていましたが、今は静かに肯け(うなずけ)ます。私が先立てば老齢の両親は悲しむでしょうが、人生の実相として受け取ってほしい。家族をこれまでなぜ自分のようにきちんとしないのかと不満を募らせ責めてきました。今は、迷える凡夫の『御同朋・御同行』の仲間であると受けとめています。」

 そして、2008年6月17日のお手紙には、

 「仏法を学び、先生の導きで、『死ぬときは死ねばよかろう『なむあみだぶつ』と受けとめられるようになりました。ありがとうございます。』

という言葉が記されています。

 2008年12月8日に勝一さんはお亡くなりになりました。「お父さん、頑張ったね。よかったね。」と、ご家族は悲しみつつ勝一さんとの別れを受け入れました。何か不思議な温かい雰囲気のなかでのお見送りでした。勝一さんは如来の大悲に照らされ、生死の迷いを超えて広い豊かな世界を生きられ、浄土に還って行かれました。南無阿弥陀仏。

 後日、80歳を過ぎる勝一さんのお母さんが来られて、

「実は、勝一が亡くなる前に『母ちゃん、この話をぜひ聴いてよ』と言っていました」

と話されました。勝一さん亡き後、その願いは届き、奥さんもお母さんも仏教講演会に参加されるようになりました。


念仏は念仏でしか伝わらない  

 私は長いこと死への恐怖感を抱いて生きてきました。思いもよらず念仏の教えにあって、はじめて新しい人生が開けました。その感謝の思いから、多くの人々に念仏を届ける活動を始めましたが、最初の頃は、浄土真宗となじみのない沖縄では、いきなり念仏の話は抵抗感があって受け入れられないのではないかと思い、人生の問題や生き方をテーマにした話しをしていました。しかし次第に、そういう話をいくらしても念仏は届かないと思うようになりました。

 念仏は如来の手だて、方便です。色も形もなく人間の心もことばも及ばない法性法身が、自ら南無阿弥陀仏という方便法身として届けられたのに、それでは分からないだろうからと、私はその上にいらぬ計らいをしていたのです。結局、「念仏は念仏でしか伝わらない」。
 
 私たちは念仏の話しを聴き始めた頃、念仏が分からないと言って長い間戸惑います。実はその戸惑っている間が大切ですね。「念仏は暗い」「年寄りがとなえるものだ」「呪文とどう違う」などと言っている間に、「おまえ、本当にこれでいいのか」と、念仏の方が逆に私たちを問うてきます。念仏と格闘している間に、間違いなく私たちのいろいろなものが掘り起こされます。それは念仏の大切な働きだと思います。

 勝一さんが、念仏の教えを聴いたのは短期間でしたが、「ああ、本当に念仏をいただいて逝かれたのだな」と思います。「念仏は念仏でしか伝わらない」。謝花勝一さんのお姿を見て、それは私の確信となりました。現在は、仏教講演会で最初から念仏の話しをします。

 仏教は何かを信じ込むことでも、単に世の中でどう生きたらいいのかを教える処世術でもありません。我執を超えた真実の世界を明らかにする智慧の教えです。この迷い多き人生に、人が決して悔いることのない生き方があることを明らかにします。勝一さんはそのことを身をもって教えて下さいました。私もまた自らの生涯をかけて、そのことを証していこうと思っています。

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