浄土真宗

「生苦」を考える

  「生苦(しょうく)」を考える  

                    志慶眞 文雄(小児科医)

 シェイクスピアの四大悲劇の一つである『リア王』に、「人間は泣いて生まれる」という象徴的な表現があると聞いたことがあります。
 正確には、生まれて泣くのですが、生まれて泣かない時は大変です。それで生まれてくる赤ちゃんや母親に何らかのトラブルやリスクが予想される時、私たち小児科医が出産に立ち会うことがよくあります。産声が無いと急いで吸引したり刺激を繰り返したりします。産声を上げたら一安心です。母体内で胎盤を介して母親の血液から酸素を供給していた胎児循環が、自らの呼吸で酸素を供給する自立した血液循環に切り替わり機能しだした奇跡の瞬間です。
 一般的には、生まれることはめでたいことです。しかし四苦八苦(生苦・老苦・病苦・死苦で、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦)と言う、釈尊の教えには生苦があります。生苦とは生きる苦しみではなく、生まれる苦しみですが、なぜ生まれることは苦しみなのでしょうか。
 苦の本来の意味は、思い通りにならないということのようですが、老苦・病苦・死苦はよくわかります。今までは何事もなく生きてきたけれど、老いが次第に現実となり、病になり健康がそこなわれ、死を垣間見たとき、それは思い通りにならない苦として迫ってきます。この苦を取り除くため、老病死をなんとか解決しなければならないと私たちは考えるわけです。老いをのばして長生きをはかり、病院で何とか病気を治してもらい、死にうち勝ちたいと努力します。
 では生苦とは何でしょうか。長いこと生苦がはっきりせず、ああでもないこうでもないと考えてきました。
 生まれる時、お母さんの狭い産道を通ってくるから苦しい。それが生苦でしょうか。あるいはとても居心地のよい子宮から、冷たい世間に無理に押し出されるから苦しい。それが生苦でしょうか。私たちは、どの時代に、どこの国に、どの人種に、どの両親から、男なのか女なのか、こういう選べない業を背負って生まれてきます。この世に何も条件なしにまっさらで生まれてくるわけではないのです。これが生苦でしょうか。
 しかし私は現在、この世に「エゴ」という業を背負って生まれること、つまり「エゴの私」の誕生が生苦の意味だと理解しています。それが普遍的に万人の誕生を言い当てているように思えるからです。
 エゴをもって生まれるということは、本来の一如の世界を見失ってしまうということです。生まれてくる赤ちゃんの泣声は、自分のふるさとを見失った叫びのようにも聞こえます。分別で苦悩するエゴの人生の始まりです。これが私たちの苦しみの源なのです。このことを釈尊は「一切皆苦」と言われたのでしょう。
 何故、エゴはこの一如の世界を見失うのでしょうか。
 エゴは分別し対象化してしか物を見ません。一如の世界は対象化できない無分別の世界です。その一如の世界を自分の都合で切り刻むのがエゴのはたらきです。ですからエゴが分別し対象化した瞬間に一如の世界は視野から消えてしまいます。一如の世界を見失うのがエゴの本質です。
 私を誕生せしめた根源的な一如の世界を見失い孤児になるだけでなく、一如の世界に背を向ける反逆児(誹謗正法)として誕生するということです。
 仏教の眼目はこの四苦八苦を超えていくことです。どんなに努力しても老いて病み、一〇〇% 死にます。老病死をこえる試みは、世間道では最終的にはこえられず敗北です。この世間道の問題点は、「私」をぬいて問題を考えていることにあります。これは仏教の視点ではありません。生苦・老苦・病苦・死苦は、「私」の生苦・老苦・病苦・死苦です。その「私」が問題なのです。生・老・病・死は事実そのものです。つまりその事実を受け取れない「エゴの私」が問題なのです。仏道とは、この「エゴの私」を超える道に他ならないでしょう。
 エゴのつくりだした妄念妄想の世界を現実だと主張し、本来私を生かしめている一如のいのち(無量寿)を自分の命だと私物化します。しかし、エゴが私物化した小さな命では、私たちは生ききれません、死にきれません。エゴが握り締めた命は腐る以外にありません。だから苦しく不安なのです。本来のありようから外れている私たちは、自然の道理として元の一如に帰れ(南無阿弥陀仏)と呼びかけられている存在です。

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